アマチュアリズム

ちょっと前で、巻選手のプレーをもちあげるようなことを書いたが、私は、プロスポーツというもの、そのものに、疑問がある。
スポーツ選手が、その競技の選手での成績を理由に、お金を稼ぐ、このプロスポーツ、という制度については、多くの疑問が、今までも、提示されてきた。
もちろん、オリンピック、を中心とした、アマチュアスポーツからである。
少し前までは、つねに、アマチュアリズムとの問題が、スポーツには、つきまとっていた。
しかし、最近は、そんなことがあったのか、といった感じで、だれもが、プロスポーツを礼賛する始末。いったいここ何年かの間に、なにが変わったのだろう。
もちろん、間違いなく、変わったことが、一つある。
ドーピング、である。
この問題の根深さが、重々理解されるにつれて、二つの反応に分かれた。一方は、このスポーツというものの純粋さに疑念を持ち、関心が離れていった人たち。他方は、ドーピングを、深刻に考えない人たち。彼らは、プロの世界では、それくらい、当たり前にされているだろうと思いながら、プロレスや、アクション映画を見るように、純粋にその、エンターテイメント性を楽しもうとする。
ようするに、どちらにしても、そのアマチュアリズムの問題を真面目に考えなくなった。
人間は堕落したようだ。
それは、プロフェッショナリズムが、実際に、儲かることが広く理解されることでもあった。
北京オリンピックの最終聖火ランナーが、中国の元オリンピック選手であり、中国で一番成功しているスポーツ用品の会社の社長だったのは、一体、だれが権力者であるかをよく理解させるものであった。
スポーツをゲームと言っておきながら、他方で、お金をもらう。しかし、お金とは、常に、なんらかの色がついているものを言うのであろう。そうであるなら、それを、八百長、でないと言うことに、なんの意味があるだろう。
なぜ、選手が、そのお金によって、手を抜いたり抜かなかったり、して「いない」など、断言できようか。スポーツ選手という立場で、ひとたび、金を懐に入れた瞬間から、その人の行動は、すべて、そのお金によって、判断される。負けたら、八百長で手を抜いた。
もちろん、それがすべての世界もある。プロレスがそうですよね。クスリでモンスターになった、化け物同士の激突が、人間離れしていて、おもしろい(古代ローマのコロシアムでの、獣と奴隷の殺し合いのようで)、という話もあるわけだ。
しかし、どうでしょう。今、って。なにもかもが、中途半端、じゃないでしょうか。
現在のプロスポーツでは、この問題にどのように対応をしているか。まず、お金の出所をはっきりさせることだろう。読売ジャイアンツなら、その選手は、読売から、お金を、年収としてもらうのであって、ほかからはもらわない(といいつつ、CMや、テレビ出演などで、多くの福収入はありそうだ)。また、ドーピング検査によって、選手をチェックする。
少し前までは、プロ野球選手が、ヤクザの野球賭博にかかわっていたとかで、永久追放とかあったと思うが、こういう分かりやすい例だけじゃない。あらゆるところで、そうなのだろう。
一時期、中学、高校生の、ドラフト優等生に、スカウトが賄賂をしていたことが問題になりました。これを問題とした人って、アマチュアリズムを信じてたってわけですかね。
現在、WBCで、日韓戦がもりあがっているが、どうだろう。実情の分かっている人には、うさんくさく見えているのではないだろうか。
日本の人口が、1億2千万人、韓国が、4千万人。しかし、高校に、公認の野球部があるのは、日本が、4千校、に対して、韓国は、わずか57校、だそうだ。
韓国の人は、「だれも」野球をやったことなんてない。
韓国の人は、「だれも」野球なんて知らないんです。
ではなぜ、韓国が日本と同等の試合ができているのか。おかしいと思いませんか?簡単です。これを日本の視点で言えば、「アマチュア」規定に違反しているから、です。
まず、中学校では、午前中で、授業は終わり(もちろん、プロスポーツを目指さない、ほとんどの人たちは、午後も、夜遅くまで、授業に出席している)。午後からは、みんなと別れて、プロスポーツ選手になるためのトレーニングを行う。
野球でいうと、まず、そういう子供がやることは、元プロ野球選手を「雇う」ことだそうです。一ヶ月、100万円で、「家庭教師」を雇う。韓国型の、指導法とは、家庭教師に、「絶対服従」、なんだそうです。あらゆる、ばかげたトレーニングも、絶対、逆らわずに、従う。お師匠様の言うことは絶対。そもそも、練習時間が、はんぱじゃないんで、いやでも、力はつくんでしょうね。効率がいいってもんなんでしょう。その変わり、それだけお金をかけるので、結果が出なければ、すぐに、他の評判の人に変える。
つまり、上記の、57校。日本の高校球児にまじって、やってもらおうと、一緒に甲子園を目指して、予選を戦ってもらおうと思っても、「できない」んですね。言わば、指導者「ドーピング」。アマチュア規定に反する行為。しかし、ある意味、日本においても、他のアマチュアスポーツでは、同じようなことをしてるじゃないか、と考えれば、他の国で、こんな矛盾した主張は、通らないのかもしれない。
勉強だってそうだ。塾や家庭教師で、だれでも「ドーピング」やってるじゃねーか。
しかし、なぜ、こんなことになるのでしょう。それは、プロ選手というのが「おいしい」と思っているからですね。もちろん、だれもがプロになれるわけないんだから、ギャンブルなんですけど、それでも、確率的に、おいしい競技が幾つかある。
日本で、プロ選手の指導が禁止。でも、韓国は、やりたい放題。であれば、やれるだけやって、日本でプロ選手になれば、どうだろう。
どうして、こんなことになるのだろう。
少なくとも言えるのは、日本でも、アメリカでも、選手に、お金を払いすぎていますよね。どう考えても、あれは、「選手としての」金額じゃないでしょう。きれーごと的に言えば、そういう成績を残す選手は、その出資先をよく「宣伝」してくれる、良質な広告塔、というわけですね。ああいう例がある限り、発展途上国は、アマチュアリズムを無視した、あらゆることをやるでしょう。
アメリカの女子ゴルフ界は、ほとんど、韓国選手になっているようですけど、そういうことですね。まるで、アメリカの女子ゴルフツアーは、韓国の国内リーグになってしまった。そんなものを、アメリカ人の誰が見るんでしょうかね。
しかし、よく考えれば、それは、社会主義国が、つい最近までしていた、英才教育ですよね。国家がやるか、親がやるかの違いでしない。
韓国は、昔から、科挙試験を国家の柱とした、専門家国家、なんですね。昔から、文官と、武官、は、まったく違った役割を担う存在として、専門分化していた。だから、違和感をもたないんでしょうね。
日本の文武両道には、そういう意味で、どこか原始的な、バーバリアンな部分を保持している、といえるだろう。まあ、それがアマチュアリズムなんですけど。
しかし、そのことは、すでに江戸時代から、問題にされてきていた。武士道を、一番に代表する、葉隠において、すでに、武士でありながら、武道の軽視、文官化。官僚化を、嘆く言葉が、そこらじゅうにある。
日本は、野蛮ではあったが、その文武両道のポーズは、明治維新における、武士たちが、気後れすることなく、天下国家を語る、伝統となっていく。
朝鮮王朝の、文官は、武官を、徹底して、ばかにし、愚弄していた。そういった、差別国家では、国家の叡智を集約し、集権化していく、モチベーションが、国内のどこからも現れなかった、ということなのかもしれません。その辺りが、簡単に日本の侵略を許していく、朝鮮王朝の、屋台骨の弱さ、だったのかもしれません。
どうでしょうか。ぐだぐだ書いてきましたけど、結局、私は、なにが言いたいのでしょう。私の立場は、明確なのでしょう。私は、アマチュアリズムしか認めない。もし、プロフェッショナルというものがありうるとしても、それは、非常に地盤の固いアマチュアリズムが多くの国民に浸透していない限り、いびつな「勝てばなにやったっていいだろ」になる。そもそも、大の大人が、スポーツという、たかだか、ゲームに勝った負けたで、わーわー言ってるのが、うざい。スポーツは、あくまで、子供たちのものでしょう。子供たちの健全な精神を涵養する、なにかとして、その存在を尊重されてきたのでしょう。そこから離れた、あらゆる議論は、うす汚ないだけで、不要だ。
しかし、いざ、ここまで、アマチュア精神の後退を許した現在、派手な、コマーシャリズムが全てになった現在、あらゆる人は、なにかのドラッグを打たれたかのように、感覚が麻痺してしまっているようです。
今は、むしろ、純粋なスポーツを探す方が、難しくなっているんですね。