桜庭一樹ショック

あいかわらず、変なことばかり書いてますね。
今回の作品は、ずいぶんと、ショックを感じた。どうも、自分の中で、なかなか消化できてこない。
この作品そのものは、世間的にはどのように受け取られているのだろう。別に調べるつもりもないけど。
おそらく、あまり世間受けするような評価にはなっていないのだろうな(しかも、最初から、殺人事件の臭いがプンプンしますしね)。
どうして、自分は、ショックを受けるのだろうか。
それはやっぱり、「子供」だから、ですよね。
子供は、現象学的な存在。ただし、一切の、内省が存在しない。子供の目の前にあるものは、ただの、「現前性」。ただ、事実が、目の前にあるだけ。ただ、いつも、目の前に迫ってくる事実と、対決し続ける日々。
一切の義務教育を拒否し、ずっと、友達のいない日々。いるのは、ただ、母親。
しかし、その子供も、狼少女も、少しずつ、大人になる。女の体になる。
自分たちの出自を隠して二人は、生きる。もちろん、よく考えてみると、あれほど必死になって、二人が逃げる、というのも、奇妙なものだ。逃げたからって、そんな楽しい日々でないことは、自明だ。
また、子供に義務教育を与えようという素振りがないことも、少し、不自然には、思う。
しかし、そう考えては、思考実験にならない。
子供は、素性がばれないためには、絶対に、学校に行っては「ならない」。
そして、戸籍を捨てて生きる、ということが、どういうことか。
二人は、この国家から、最後まで、素性があばかれることなく、あばかれそうになったら、また別の新天地に逃げる。この生き方は、なんなのだろう...。
これこそ、本当の、アナーキズム、なんじゃないだろうか。ここまで、国家と対決して生きるということ...。
ちまたでは、簡単に、「自由」という言葉を使う。しかし、本当にそれは、自由なのか。自由とは、もっと、徹底したなにか、なのじゃないだろうか。
近代国家主義者は、ナイーブに、国家を構成するメンバーと、そうでない存在を、友と敵、として分類する。そして自分をその国家に属す側に入れることをためらわない。彼らにとって、こういう、国家構成メンバーの外であえて生きようとする存在は、最初から、虫ケラ、である。駆除。虫ケラは、ペチャッって潰すのみ。
国家アイデンティティ社会では、国家の構成員であること、国家によって、絶えず、お前が何者であるのか、そのアイデンティティを反芻される。まさに、ナチスの親衛隊員のように、手を高く上げて、高らかに宣言することが、誇りある我ら、というわけだ。
あと、どうしても考えさせられることは、「家族」である。この日本中、ほとんどの人が、家族という共同体の中で、幼少の頃を育ったのだろう。そしてそこには、「家」がある。お金持ちの家。お金がなくて、細々と暮している家。そのあまりにもの、多さに、眩暈を感じる。間違いなく、儒教を突き動かす原理を、一つだけあげろと言われるなら、それは、家族、だろう。家族こそ、はるか太古の時代から、人間が物心ついた頃には、自分の周りにすでにあった、人間関係。いったいどれだけの家族が、親と子供が、(夜逃げなどによって)彼らの一時の住まい、共同体を抜け出し、放浪の旅路を選択していったことでしょう。そしてその単位は、いつも、家族であった(ピルグリム・ファーザーだってそうだ)。
こんなにも、学校にも行かず、母親もだらしない生活をしていながら、子供は母親をばかにされると、全身全霊で、相手に反撃する。その母親を侮辱する相手を決して許さない子供の姿が、なんともいえず、好ましいのだ(そういう感情は、間違っているだろうか。野蛮なのだろうか)。
身を隠し、素性を決して知られることなく生きること。
多くの人が、どこかしら、すねに傷をもつ人生を送っている。相手の身の内を聞かないことが、最も大きな、人の優しさであり、相手の人格を尊重する態度なんですね。
こういうところにも、おそらく、橋頭堡、がある。
お前は、本当に、人間が「自由」に生きようとする姿を、国家とグルになって、虫ケラとして、ひねり潰す側にまわる人間か。
それとも、お前は、どこまでも自由を求めて、さ迷う、その高貴な精神を、崇敬の気持ちを胸に秘めて、ただ、親切にすることを、ためらなわない、その勇気を忘れない側にまわる人間か。