落合仁司『地中海の無限者』

1995年の著作だそうだ(こういう古い本でも、本屋に売ってた。需要があるということなのかな)。
地中海といえば、有名な歴史学者ブローデル、の『地中海』という研究書があるが(ずいぶん、ぶ厚いですね。読んだことはない)、ブローデルは、なぜ、この地中海が、ヨーロッパ文明において、これほど重要な場所であったのか、を次のように言う(蛇足ですけど、この地中海周辺こそ、あの古代ギリシア、ローマ文明が花開いた場所であり、キリスト教発祥の土地であるわけだ)。

地中海は見掛けの華やかさとは裏腹に、農業生産力という点から見ればかなり貧しい、これがブローデルの言いたいことであろう。さらにブローデルはこの貧しさこそが地中海をして軍事的な遠征や商業的な交易に駆り立てた原因であるとさえ考えている。

「地中海の歴史の中心において、貧困や明日への不安といった制約が大きな意味を持っている。多分それが人々が慎重、粗食、器用である理由であり、またいくつかの帝国主義----本能的な----の動機でもあるが、帝国主義は時には日々のパンを必要とすることに他ならない。地中海は、自分の弱さを補うために、行動し、外国にまで出掛け、遠方の国々の協力を求め、それらの国の経済と手を結ばなければならなかったのである。そのようにして、地中海はその歴史を著しく拡大したに違いない。」(ブローデル『地中海』)

著者は、キリスト教の二つの流派、東方キリスト教、西方キリスト教、が、ちょうどこの、地中海を境にして、分布していることを強調する。

5世紀の西ローマ帝国崩壊から15世紀の東ローマ(ビザンティン)帝国滅亡までの1000年は、この境界の東西でそれぞれのキリスト教世界が展開された千年期である。ラテン西方では、ローマ教皇を頂点とするキリスト教西方世界が形成され、北西ヨーロッパをキリスト教化することによって、西地中海と北西欧を結合させる。今日の西欧世界の誕生である。ギリシア東方では、コンスタンティノープル総主教を中心とするキリスト教東方世界が継承され、南東ヨーロッパさらにはロシアをキリスト教化することによって、東地中海とロシアを連続させる。今日のロシア世界の発端である。地中海における西方と東方の対比は、現代における西欧のロシアの対照の原型なのである。
16世紀以降19世紀までの東経19度は、西地中海を制覇したスペイン帝国と東地中海を支配したトルコ帝国の最前線である。両海軍が激突した地点は19度線で二分されるイオニア海の周辺に分布している。しかしそれも16世紀の間だけで、17世紀以降(ヴェネツィアとトルコの小競り合いは続いていたが)地中海は静かな午後のまどろみに入って行く。われわれが巡洋航海(クルーズ)しているのはこの地中海である。
しかし19度線を北に延長してみよう。それは南下するドナウ川に沿ってハンガリーを二分し、スロヴァキアさらにはポーランドのほぼ中央を通ってバルト海に抜ける。この地域は今日言うまでもなく西欧世界とロシア世界の緩衝地帯である。現代世界は地中海ん東西分割線の北への延長線上において鋭く対峙しているのである。

著者は、橋爪大三郎の弟子なんですかね。保守主義の本とかいうのを前に読んだ記憶があるが、その後は、こういう方向のことをやってるんですね(留学がきっかけなんですかね)。
この本は、キリスト教に興味をもつ、ほかの宗教に関わっている人などが読むといいのかもしれない。キリスト教も他の宗教と同じように、こういった、衒学的な理論の正統論争を繰り返してきた。特に、キリスト教には、三位一体の考えがあるだけに、複雑になるんですね。
キリスト教が、上記の線を境にして、東方、と、西方、に分かれていることを、東アジアの人は、あまり意識していないようだ。日本に昔から、紹介されてきたものは、当然、西方。
おもしろいのは、この境界が、ちょうど、東欧社会主義との境界になっていることですね。今のEUの境界も、ここにあると言えなくもない。
あのナポレオン、や、ヒットラーが、ロシアへの侵略に失敗しての、敗北、撤退、が、彼らの隆盛の終りと対応していたことを思い出させられる。
彼らの侵略の失敗が、たんなる、軍事力の問題だったようには、どうも思えない。そこには、決して超えられない、文化的な断絶が、彼らの侵入を根源的な所で、交わることを最後まで起こしえなかった、そんな空想さえしたくなる。
どうもこの境界には、たんに、国の境界にとどまらない、ある種の文化的な、断絶があるようです。
そしてその、理論的な対立を表すものが、西方キリスト教、と、東方キリスト教、の理論的対立なんですね。
人間は、神を見ることは、できるのだろうか。神とは、人間の認識を超越する存在である。それは、否定神学によってしか語りえないような存在。どうして、そのような存在とまみえることが可能であろうか。不可能であろう、というのが、トマス・アクィナスに始まる、西方キリスト教。この認識は、当時、西方において、再発見されていた、ギリシア哲学、とくに、アリストテレスの乗り越え、がキーになった。つまり、ルネサンスですね。
トマス・アクィナスは、アリストテレスの、形相と質料の議論に異議を唱える。

アリストテレスによれば存在者の原因とは、存在者の他の者でもありえた可能性をある者として限定することによって、存在者に現実性を与えるすなわち存在者を限定する者であった。たとえばあなたという存在者は、あなたの他でもありえた可能性が何者かによって限定された結果として、現実のあなたとなったのである。アリストテレスの場合、存在者の原因はその形相であった。すなわち存在者の形相が可能性それ自体としての質料を自らに相応しく限定することによって、存在者を現実に存在させるのである。

しかしアリストテレスにおいては存在者の形相がその原因であったにもかかわらず、トマスにおいては何故、存在者の本質はその原因とはなりえないのであろうか。言い換えれば存在者あるいはその本質はどうして原因された存在ではありえても原因する存在ではありえないのか。存在者は原因する存在によって限定された有限の存在であった。もし原因する存在それ自体がこのような存在者であるとするならば、原因する存在それ自体を限定する者、すなわち原因する存在それ自体を原因する存在が存在することになる。これは原因する存在が無限に遡行されることに他ならない。したがって原因する存在は究極的には限定されえず、有限の存在者ではありえない。それゆえ有限の存在者あるいはその本質は自らを原因する存在とはなりえないのである。原因する存在は限定されえないという意味において無限である。すなわち何者かを限定する者はついに自らを限定されえず無限である他はないのである。

ここに「無限」がでてくる、ということですね。キリスト教の歴史において、ここから、無限の哲学と、切っても切れない関係が続くことになる。
原因の問題は、カントのアンチノミーの一つでもありますし、スピノザのエチカの主要問題でもありましたね。原因というのは、責任という概念にも関係してくる。しかし、その遡行において、究極を問うことは、矛盾となる。
進化論において、ダーウィン以前(つまり、アリストテレス)は、各生物が意志することが、その「原因」であった。つまり、キリンはあの木の上のほうになっている果物を食べたいと、必死に首を伸ばしていたら、食べられるようになった、というわけだ。しかし、ダーウィンの結論は、まったく反対、と言ってもいいようなものであった。この例で言うなら、「たまたま」首が長く生まれたキリンは、木の上の方の果物が食べられることで、生きのびるというわけだ。はて、「原因」の話はどこに行ったのか。
著者は、この著作の前にある認識をもっていたようだ。

領域国家とは、一定の領域に最高・無制限の権力すなわち主権を有する国家すなわち主権を有する国家、われわれのよく知っている近代国家の原型である。

筆者は前著『トマス・アクィナス言語ゲーム』において、不可視の根拠として神を信仰することと、無限定の権力としての主権を想定することとは、無限定の根拠に依存せざるをえない思考の構造を保存する同型変換であると主張した。すなわちトマス・アクィナスの神概念と近代主権論の主権概念とは、同一の言語ゲームの二つの変奏に他ならないのである。

この認識は、おそらく、重要であろう。私たちは、ヨーロッパにおいて始まったと考える、この近代化、近代国家の哲学として、デカルトの自我論や、社会契約論、などの物語を簡単に、ひっぱってくる。しかし、こういうもので、あー、近代って、こういうことか、と変に感心している人は、どうかしている。社会契約論など、どう考えても、嘘くさい物語もいいところ、ではないか。むしろ、すでに上記の論述にあるような認識の地平において、こういった下手な物語の居場所さえ存在させられるほどの、認識の不安定にあったから、ではないだろうか。
他方、東方キリスト教。つまり、ビザンチン帝国ですね。こちらは、いわば、ずっと、ギリシア哲学が正統理論として存在し続けた地域と言える(新プラトン主義をベースとしているとありますね)。人間がもし神にまみえることが不可能なら、なんのために人間は生まれてきたのか。人間は神とまみえることが可能で「なければならない」のだ。
私たちは、簡単にソ連、東欧社会主義圏の崩壊、などと言う。しかし、どうだろう。このことは、ソ連という、東方キリスト教を徹底して弾圧した、権力の消滅を意味するだけなのではないだろうか。別に資本主義の勝利でもなんでもない。今でもこの、西方キリスト教と東方キリスト教の深い「分断」は続いているとは言えないだろうか。

地中海の無限者―東西キリスト教の神‐人間論

地中海の無限者―東西キリスト教の神‐人間論