河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』

この著者は、videonews.comで、最近、裁判院制度賛成派として、出演したていた(賛成の理由はあまり積極的な感じではなかった)。
犯罪学というものが、どういったことの解明に成功しているのか、ほとんど知識はなかったのだが、この本は、その辺りの知見を広めてくれる。
この本を見て、まず、気付くのは、警察、という組織、についてです。
よく、最近の犯罪件数の増加が言われます。しかし、この本を見ると、日本人が、最近急激に凶悪化、しているとはどうも言えない、そう考えるには、あまりに、その要素がない。
例えば、最近、刑務所が、どこも、満杯、ということを聞く。しかし、犯罪は増えていない。ということは、どういうことか。なんらかの、重罰化、法の改正が行われた、ということである(実際、性犯罪の重罰化がありましたね)。
むしろ、警察、の捜査そのものこそ、あまりに、ぶれている。
警察は、重大犯罪の捜査に多くの力をかけずに、「暇」になると、言わば、「軽犯罪」の取締りに、力を入れるようになる。
だとすると、犯罪、とは、なんなのだろう。そんな、捜査機関の、都合で、「犯罪者」の人数が、ころころ変わるということは。
私たちは、近頃、凶悪犯罪が増加してるんじゃないか、という不安に、かられるの傾向がある。しかし、実際は、そう言えるほどではない。では、なぜ、私たちは、そのような印象をもつのだろう。著者は、新聞やテレビ、雑誌の、「一言見出し」に、注目する。ここが、(間違っているとまでは言わないけど、どう考えても、誤解を呼びそうな)過激なワンフレーズの連続なんですね。しかし、新聞の見出しは、読んでもらおうというメッセージなのだから、挑発的になるのは当然、と思わなくはない。
むしろ、大事なのは、リテラシーなのかもしれない。だが、権力者側にとっては、これこそ、利用しがいのあるツールなのだろう。
この本が、大変、よくできているのは、「いかに日本に凶悪犯罪が少ないか」を、大変説得力ある形で記述されていることです。

そこで、殺人によって殺された被害者の数を調べてみると、最近は600人台である。一度に何人も殺すことは可能だが、ほとんどの事件で、一事件で一人の犠牲者であろうから、殺人既遂事件数は、600件台であろう。そうするとこれらは全て既遂事件であるから、殺人事件は年間600件台かと思うとそれも大きく違う。この600件余りの内、最大のカテゴリーは心中である。無理心中でなくとも子供を殺してから自分が自殺した事件は、刑法上も統計上も殺人事件となく。嬰児殺なども社会的カテゴリーとしては殺人でないとし、いわゆる「人殺し」が無垢な被害者を殺した事件のみを純粋に殺人事件であると考えるならば、いったい、その数はどのくらいあるのであろうか。

よく考えてみれば、殺すということは、なんとしても避けたい嫌な事であって、よほどの恨みがないと殺せない。親族関係にない者は、嫌なヤツなら絶交すれば済むのであるから、殺して別れなければならないのはやはり親族か恋人(別れたくないのに別れると言われた場合のほうが多数と思われる)、とりわけ家族となる。すぐに命のやり取りを語りたがる暴力団の抗争でも、年間15から30人の死者を出すのみである。大騒ぎして小指の端っこを切り落とすぐらいで、日本の暴力団は、世界の犯罪組織と比較すれば「人命尊重」の度合いは高い。殺人事件の内、年間120ぐらいは薬物等による精神障害者による事件であり、これが通り魔に代表される面識なしの事件の多くを占めていることを考え合わせれば、無垢な被害者を「人殺し」が襲う事件は、実はほとんど存在しないと考えられる。確かに歴史に名を残す「殺人鬼」はいるが、これとて本当に殺人鬼と言えるかどうか疑ったほうがよいくらいである。ただし、治安を問題にする以上、殺人鬼かどうかはともかく、無垢な被害者が実在することには注目する必要がある。この数は、せいぜい、百、二百のオーダーであるように思われる。

たったこれだけ、しかいないとは...。
なぜこうなのかも含めて、後で、考えましょう。
やはり、どうしてもふれなければならないのは、「犯罪者」について、じゃないでしょうか。私たちは、彼らについて、どれくらいの考察を行っているか。この視点が重要なのは、これが、日本を「裏から」見ることになっているからですね。
日本では、犯罪を犯す、ということは、その後の、人生に、決定的な変更を迫られます。あれだけ、世間を騒がせた、受刑者が、出所して、その後、どのような生活をしているか、まず、だれも知りません。まったく、報道されません。異常だと思わないでしょうか。
一度、起訴され、「世間」にその事実が知れ渡ったら最後、まず、住む家が借りられなくなる。「普通の」仕事につけなくなる。まあ、身元を隠して、やっていたとしても、ばれたら、いづらくなるのだから、逃げるんでしょうね。
ちゃんと刑期を終えて、こうやって、しゃばの空気を吸っているのですから、近代法の理念から考えれば、彼らは、普通の人に「なった」わけでしょう。なぜ、ここに差別をつけるのでしょうか

中世には、犯罪者は非人に貶められた。それも、鼻そぎなどの異形の者とされた。身体障害者ハンセン病癩病)者もまた、非人であった。現代もこの名残はあり、犯罪者は「ヒトデナシ」であり、「真人間」にかえれと言われるように、人間扱いされない強烈な差別がある。犯罪者は生活を共にする相手ではなく、穢れたものとして隔離されるべきであると考えられているわけである。

人間だから、罪も犯すわけだが、犯罪を犯し捕まり、それが流布された時点から、「世間」というバケモノは、人間扱いをしないを、どうも正当化できると思っているようです。
どうでしょう。どうも、この日本社会には、ある種の、構造のように思いませんでしょうか。著者はそれを、以下のように、まとめます。

犯罪は別世界の出来事というウサギ達と、犯罪のプロであるオオカミ達が、境界によって分けられて、出会うことなく共存するという形の共同体が、日本社会であるということになる。欧米から見て、日本人にはん、ハラキリや特攻隊など暴力的イメージと、いつもにこやかで無防備なソフトなイメージとがあるが、これは、オオカミの側面とウサギの側面の二面あるということにほかならない。

まず、未来永劫仲良く暮す設定の同質小共同体の内と外の二分法が存在する。内側は、犯罪は別世界の出来事と感じる住民であり、外側は、犯罪者だけでなく、それに係る統制側とその協力者をも含めた、穢れた非日常世界がある。

なんなんでしょうね。どうも、この日本において、人間を個人の単位で考えることは、無駄なようですね。ここまで、類としての日本人集団に、構造的な姿があるとすると、皮肉に、ヘーゲルの味方もしたくなりますね。
学校社会という、子供の世界だけでなく、大人になり、会社員になっても、終身雇用という、同質小共同体の中で生きる。江戸時代では、そもそも、移動の自由がなかったわけですから、もっと強烈でしょう。小共同体において、毎日、同じ人たちと顔を合わせ、そして、それは、死ぬまで続くのです。
先ほど、なぜ、これほど、「人殺し」が日本において少ないのかについて書きました。1億2千万人のうち、年間で、100件、そこそこ、ですよ。
著者は、その構造を以下に、まとめる。

それは、殺しへの反発が、報復となってエスカレートするのか、互いに控えましょうとなるのかの違いであると思われる。

殺人犯をなぜ殺してしまわないのか。それは、殺人犯といえども、同一共同体内に親兄弟や友人がおり、殺してしまうことは、その者達との関係上できないということであろう。

日本の場合、誰が何をしたかが皆に知られるということが前提になっている。暴力行為の下手人が誰であるのか発覚しないなら、上記の仕組みは成り立たない。

殺したい相手の親戚たちも、死ぬまで、毎日、顔を合わせなきゃならない、小共同体に、生きている、というわけです。
これこそ、「イジメ」がなぜ、これほどまで、しつこく告発されながら、あい変わらず、ほとんど、あらゆる共同体で、なくならないか、の理由なのでしょう。どんなに、名誉を傷付けられようと、ばかにされようと、それは、相手への糾弾に向かわない。周りも含めて、簡単に、「それはお前にも、どこか非があるはずだ」、になる。親でさえ、正面衝突を避けたいがために、子供の側にも、どこか非があるはずだ、と考えたがる傾向になる。すると、子供には、だれも、「味方」がいなくなる。この状態が、延々と続くと子供が考えたとき、生きる指針をなくす、ということなんでしょう。
いろいろ書いてきましたが、つまり、犯罪者の、いわば「外」の世界の、入口が重要な意味をもっていることがわかる。

犯罪をして捕えられた後の過程で、民間人、警察、検察、公判、各段階で赦してもらえるわけだが、安全神話を信じる共同体に戻すには、できるだけ早い段階で赦したほうがよい。何しろ何事もなかったことにしたいわけであるから、事件が表に出てはいけない。そうすると、起訴されてしまっては遅いことになる。したがって、分水嶺起訴猶予処分である。

つまり、警察なのだ。しかし、ここに、重大な認識がある。そもそも、警察は、「あらゆる」犯罪を、裁いていない。かなりの数の犯罪が、警察官の一存で、無罪放免されている。

学生に不利益な処分がなされた時、泣きついてくる学生がいたとしよう。彼は正当事由にはならないけれども何か個別事情をかかえていたとしよう。この場合、処分を撤回できる裁量権限を持つ者の所に学生を向かわせるほかない。権限者は、学生と一対一で面接する。この一対一で面接する。この一対一は非常に大切である。これは、個別事情を話させやすくするためであると同時に、その会談内容は、第三者がいないため闇に葬れる性質のものである。権限者は、まず学生の話を聞く。学生にとっては、そこで、正直に個別事情を話すことが大切であるし、聞く側は、本当のことをいっているかどうかの判断が大切である。事情を聞いた上で、権限者は、一般論として、それは正当事由までいかないことを説示し、学生にも非があることを認めさせ、反省を促す。そして、そういった会話の中で人間関係が構築できたとの手応えがあれば、今回に限りとか言って、特別に赦してあげるわけである。

その権限者が、学生達に何らかの協力をしてほしい事案ができたとしよう。そのとき、彼は、既に人間関係が構築されている先ほどの学生を思い出すであろう。そして、彼に協力を依頼することになる。問題児がいつのまにか統制側の協力者と化してしまう構造がここにある。ここに、問題を起こした者達と統制側のグループと、何事が起きているのかいっさいを知らない真面目な学生のグループとに、二分される事態が発生する。

これは、警察と、犯罪者についても、同じである。今の警察は、軽犯罪は、ほとんど、初犯であれば、立件しない。万引きがそうですね。そうとう、繰り返しているとか、悪質でないと、謝らせて、保護者を呼んで返す。よく考えると、法の下の平等は、どうした、ということでしょう。なんなんだ、この恣意性は、でしょう。
あと、これって、プライバシー情報でしょう。なぜ、犯罪者であると、自分のプライバシーをあらいざらい、警察に「告白」しなければならくなるのか。そりゃあ、ここに権力は発生しますでしょう。なにかがおかしい。

犯罪者として捉えた者を非人として貶め、そのうち「使える者」は治安維持する側の要員として使ってきたことなども、典型的にこのパターンである。むろん、個々のケースまで確かめられないが、江戸時代に警察機能を末端で負っていた、与力などの下級武士の手下、木戸番など、ほとんどが非人であった。

恐らく、明治維新も、こういった形で、さまざまな下層階級の暴力が使われ、行われたはずだ。現代の政治学が、どこまで、こういう実体に迫れているのだろうか。いつまで、表面上の、きれいごとを、「政治」と強弁し続けるつもりか。
ところで、犯罪者は、どういう生活をしているのか。一つとしては、人があまりやりたがらない仕事をているだろう、ということである。しかし、それは、たんに苦しい、だけではない。だれもやりたがらないのだから、給料が高かったりする。しかし、そこには、今までは、からくり、があった、という話もある。その仕事の元締めが、同じく、賭博をやっていて、彼らが高給で損した分を取り返すんだそうだ。
最後であるが、この問題が、私たちの心性そのものを、決定していることを書きましたが、この問題をどこまで重要と考えるのかにも、橋頭堡があるだろう。

権利意識が低いという言い方がされることが多いが、一般人は、おとなしくて悪徳商法等の被害にあったとしてもクレームをつけたりしないことが多い。それにもかかわらず、日本の店の消費者への対応は正直そのものである。それは、「御宅は、あくどいことをして儲けとるそうやな」と少しのことでもヤクザに食いちかれることを恐れてのことである。一般人が権利主張しなくとも権利が守られているのは、ヤクザのおかげなのである。また、公衆浴場に、イレズミの人がひとりでも来ていればどうだろうか。他の入浴者は、お湯や石鹸水をはね飛ばしたり、風呂桶につまずいたらどうなるのか考えてのことであろう。日本におけるしつけについて考察しても、家庭でも、学校でも、それが行われてきた伝統がない。むしろ、若者集団における厳しい先輩が、その機能を果してきたと考えられる。

私たち日本人は、「本質的に」いい人、では「ない」のだ。一見、いい人、はまったく、真実をともなっていない。実際、なんの教育も受けてない。自ら、学ぼうともしてこなかった。たんに状況が、一見、そうみえるようにしてきた、そうさせてきたにすぎない。
その野蛮さ、に自覚的であるべき、ということなのだろう。

安全神話崩壊のパラドックス―治安の法社会学

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