木下鉄矢『朱子』

最近、出版された本ですが、内容が、濃いですね。
著者は、この本の最初で、大変強力な言葉で、今までの、朱子学の説明のされ方が、あまりに、「哲学的」であったことを、批判します。

それにしても思うのは、丸山眞男氏や司馬遼太郎氏は、例えば第1部第1章で紹介する朱熹の「社倉記」を読まれたことはないのだろうか。歴史的実在としての朱熹の生涯とその生の現場、そこに交錯する時代と歴史の現場に深い理解を持っておられたとは到底思えないのである。
本書が企画するのは、「朱子」の語と尊崇されてきた言語テキストを「朱子学」の観点から読むのではなく、一人の人間として時代と歴史の中に生死した「朱熹」の側から捉え直すことである。「朱熹」と名付けられた人物のその生の現場、そこに交錯する時代と歴史の現場、そしてそこに現成する言語活動の現場から「朱子」を読み直すことである。

私は、戦後、日本のさまざまな通俗的な認識を決定したのは、司馬遼太郎、だと思っています。その上で、彼がどのような認識をもった人であったのかを解析することは、さまざまに現代の現象を見るに重要だと思っています。
さて。マルクスマルクス主義者でなかったように、イエス・キリストが、キリスト教徒でなかったように、朱熹は、朱子学者、ではなかったわけですが、その意味。
しかし、よく考えてみれば、当然な話だ。
朱熹は、それなりの期間、官僚をやっている。当然、彼の最重要の関心事は、この、役人としての、「政治」行為についての、考察であったはずなのだ。それが、彼の、朱子学活動と無縁であるはずがない。
彼の残した、四書集注、を、まるで、神の残した、預言書、のように、「聖典」のように、解釈してきた、今までの、儒学者朱子学者、哲学者、は、どこかピントがずれていたのであろう。
では、これは、具体的には、どういうことなのか。
朱熹は、その、「社倉記」の中で、王安石の「青苗法」にかなり近い、社倉法を提案する。朱熹は、自分の提案する法が、青苗法、とは違うということを一応断りながらも、その発想として、青苗法、の考えを評価する立場ということである。
しかし、そもそもの、王安石、の「青苗法」の考え、というのが、実に、おもしろい。

近年、凶作時の銭・穀の救済貸与事業は、多くは省倉に頼って、そのため救済貸与事業に支障が生じ、百姓に恩恵が及ばない事態となっている。現今、諸路にある常平倉・広恵倉には1500万以上の貫・石が備蓄されているが、斂散の法がうまく運用されないために、その設置の目的である人を愛しむという利点が博く活かされず、更りに省倉によって救済貸与事業を行うという事態になっているのである。そこで以上のように提案したい。常平倉・広恵倉備蓄ん穀実については、穀価が貴い時には適宜やすく設定した価格でうりだし、穀価が賤い時には適宜たかく設定した価格でかいいれる。見銭(現金)については狭西路において実施された青苗銭の規定に依り、民の願う者に貸与し、納税の時に返済させる。返済については、穀実での返済を願う者や、あるいは返済の時に穀価が上がっているのを見て見銭での返済を願う者があろうが、どちらも願うがままに許す。民を優にするとこそ目的なのだ。返済の時、凶作ならば、次の収穫時に返済を繰り延べる。このようにすれば、凶荒への備えとなるばかりでなく、あらかじめ借り受けているので、農作業にはげむ時期に食べ物がなくて力が出ないというような心配をしないですむ。食料がなくて困るのは常に前の穀実が尽きるのにまだ次の収穫に及ばない端境期であるが、兼併(乗っ取り屋)の家がこの危急に乗じて10割の利息で貸し付けを行う。常平倉・広恵倉の物資は収蔵したまま累年滞積し、物価が高騰して始めてうりだすという状態で、しかもその及ぶ範囲は大抵のところ城市のぶらぶらしている人に過ぎない。いま以上のような方策を採れば、一路の物資の有無を通じ、貴ければ発し賤ければ斂れることにより、蓄積を広げ、物価の高下を抑え、農民には心配なく農作業にはげませ、兼併には農民の苦境に乗ずる隙を与えないようになる。おおよそこれらの方策はすべて民のために為むのであって、公家はそこに生ずる収入を利とはしない。うんぬん。
(『宋会要輯稿』122冊)

「青苗銭」の方策は、この提言では狭西路ですでに実施されていた規定によると云うが、それは次のようなものであった。

夏と秋にそれぞれの時期に収穫する農作物を基礎に課される両税法に合わせ、夏収の麦などについては旧暦正月30日以前、秋収の稲や粟については旧暦5月30日以前に、それぞれのまだ熟していない青苗について収穫時の価格を過去10年の実勢によって見計らい、その見計らい価格によって青苗を先買いする形で見銭を支給することを公示する。支給を願う者は、10戸ごとに一保(返済保証組合)を形成する。第三等戸(富戸、から、貧戸、まで、5つある)以上の富戸がこの保の筆頭人となるようにする。客戸(小作)が願う場合には主戸が保証人となる。貸与を願わない者には強制しない。貸与銭額は、第五等戸と客戸には一戸あたり一貫500文まで、第四戸には三貫文まで、第三等戸には六貫文まで、第二等戸には10貫文まで、第一等戸には15貫文までとする。郷村の住民への貸与想定額を上回る見銭がある場合には、その余剰分を、坊郭の抵当物件を用意できる者にも、その抵当物件見積もりの半額を限度に貸し付ける。返済時の穀価が不作などにより当初の見計らい価格より貴くなった場合には、見銭で返済することを許す。ただし貸し出した金銭そのままでの返済ではなく、貴くなっている穀価から諸般の事情を考えてその都度低めの価格を指定して返済させる。ただしその返済価格の設定においては、返済額が貸与金額の三割増し以上になるような設定は出来ない。
(『宋会要輯稿』122冊)

当然であるが、国家にとって、なによりも重要なことは、「年貢」の取り立て、である。これが、とどこおりなく進むことによって、国家に富が蓄積して、さまざまな、政策が回る。
こんな、当たり前のことを、一体、過去から続く、学者たちの、どれくらいの人が、熟考してきただろうか。
つまり、である。ここから考え始めようとしない、思考は、どこか、ピントが外れているのだ。
なぜ、国家が国家として、あらしめられることを、可能にしているのか。それは、国家の徴税システムが、それなりに、うまく、回っているから。そして、そのことが、いかに奇跡的なまでに、微妙なものであるか。
当然、農作業は、自然、との戦いであるのだから、穀物が多く取れるときもあれば、そうでない、旱魃によって、大凶作、のときもある。よく考えてみると、そういう、さまざまな個人の、懐事情を考慮して、収税を行おうとすることは、かなり、高度な政治システムであることが分かる。
当然、民草には、懐の潤っている時も、すっかんぴん、のときもある。そして、これが重要だが、農作業は特に、「どうしようもなく」、うまくいかない時期がある。しかし、もし、その時期を、民草が、うまく乗り切れて、次の豊作の時期に、体力を温存できれば、豊作となり、多くの年貢の取り立て、に成功するのだ。
上記の、朱熹が注目した、方法とは、いわば、お金を貸してあげたり、取り立てを、待ってあげる、という、そういう、現代で言う「信用システム」、の導入を言っているわけだ。
しかし、ここには、大きな、現代に続く、隘路がある。国民は、ばか、じゃないか。お金が手元にあったら、すぐ、使って、まさかの事態のための備えなんて、やったためしがない。こんな連中を、信用して、どうこうするなんて、どうかしている。
まったく、今、と変わらないような議論が、この時代から、ずっと、あるということですね。
ともかく、この、朱熹の生きた、この宋の時代に、これほどの、高度な、システムが動き始めている、ということに注目したい。
前に、ちょうど、朱熹が生きた時代は、中国における、出版の革命が進んだ時期であることを強調した記憶があります。
印刷物の大量増殖により、その文化ミームは、この後の、多くの場面で、根本的な変化が動き始めたのだと思います。
その一つの側面として、当時の、国家システムの変容が、指摘されます。

国家を、国家が元来果たすべき作用を分担する分節肢「職」の体系=機関と捉える「国家機関説」の考え方が進めば、国家はもとより皇帝の所有物ではなく、むしろ皇帝も国家作用の一分節肢に「つとめる」存在であるという理解が起こって来る。

「天命之謂性」に対する「命猶令也」という訓詁は、前漢董仲舒の「命なる者は天の令なり」という「天命」理解の転換をたたみ込み、朱熹当時に顕現化していた皇帝国家のヴィジョンの転轍を表している。
すなわち第1部第2章に見た皇帝国家をパーソナルな人間集団と捉えるヴィジョンからパブリックな「職」の体系=機関と捉えるヴィジョンへの転轍である。
「命」がつなぐパーソナルな関係集団から「令=職務条項」の体系が造る機関へのこの転轍を承けて、「天命をこれ性と謂う」を「天令をこれ性と謂う」と読めば、「性」とは「天」が「万物(生きとし生けるもの)」に、「賦(わりつ)けた」職務条項のことだということになる。すなわち任ぜられているその職務に掛かる具体的な個々の実現行為、すなわち「しごと」の内容、手順を余設的に決めている職務条項である。

この、中庸章句、の最初の訓詁にしてから、そもそもの、朱熹の関心をもっていた延長から考えるなら、実に、当然と言っていいような読み、でしょう。
著者は、あとがきで、以下のように言う。

朱子」を朱熹その人の言葉に即して読むために勧めることの出来る書物は、実は著者の立場からはほとんど見あたらない。朱熹の遺した『四書集注』などのテキストは、本書に示した「事」や「理」などについての読みから、根底的に読み直さなければ、と切に思う。

こういった、文献学、について、この本を、読んでいて、新約聖書の、田川健三、さんの本を、思い出した。
ぜひ、著者には、朱子、でなく、「朱熹」の、四書集注、の翻訳、をお願いしたいなー、と言ったら、出過ぎた真似ですかね。