裁判員制度

今回の、和歌山カレー事件の最高裁判決は、「疑わしきは罰する」、判決であった。
この、小学生の感想文よりもひどい内容の判決。
どうも、この戦後の日本において、私の生きている間に、国家の、収容所化、が始まったようだ。
videonews.com で、弁護士の、安田さんが、解説しています。大変、重要な内容です。最近はでも、マスコミのこの報道も冷静になってきましたし、地元でも、彼女が犯人ではない、と言う人も出てきているんだそうです。
まず、疑わしいだけで罰せられる、そういう国家に一度でもしたら、もう一度、戦前に戻るんです。最近の幼稚な保守派が、「日本の植民地統治は、現地住民に日本の制度を押し付けたものじゃない」と強弁していますが、これも混乱の元なんですね。
そういう側面もあるだろうけど、私たちが、「戦前」と言うときというのは、敗戦直前の、治安維持法の時代なんですね。
この、治安維持法の時代こそ、官憲の、国民奴隷化の時代であり、この時代を、無罪放免し、復活させることにしかならない、ということでしょう。
しかも、日本においては、恐るべきことに、裁判官と、検察は、戦前の伝統を引き継ぎ、人事交流、を続けているのだそうだ。
草なぎくんの逮捕が、おかしいのは分かりやすい。もう、いろいろなところで話されているだろうが、なんのことはない。彼は酒に溺れて、家の前の公園を自分の家と勘違いしてただけだと言うではないか。裸で寝ていたと言っても、服も、ちゃんとたたんで、側に置いてあった、という。それで、警察は、逮捕、家宅捜索、ですか。ようするに、警察は、ジャニーズの弱味をにぎりたかったのであろう。
おそらく、これからも、何度も、何度も、こういった事件が起き続けるであろう。警察組織は、あらゆる手段を行使して、国民の弱味を握ろうとしてくる。それによって、さまざまな権力を獲得するわけだ。
この、「構造」、こそ、重要なのである。
なぜ、日本において、警察行為は、警察によって、独占、されねばならないのだろうか。
この「独占」が正当化されるなら、ここから、あらゆる「権力」が発生する。
さて。
恐しい制度が始まろうとしている。
裁判員制度
なぜ、これが、恐しいのか。
なぜなら、短期間で、裁かなければならないから。
しかも、裁判員は、その内容を、発表する、言論の自由がない。
こんなアホなことはないだろう。
多くの人は、なにか、混乱している。
陪審員制度の民主的な意味での必要性と、現在の制度の、収容所国家化。
裁判員は、民間の人なので、長い時間、審議ができない。
「だから」。
裁判を長くできない。
しかし。
「必要」。
だから、裁判は、長いのであろう。
ようするに、今回の、裁判員制度という、裁判制度は、何を示しているか。
今の、裁判官たちがやっている、この、裁判行為の、「正当性」がどんどん失われていることを、示しているのだ。
現在の司法制度、の正当性、がどんどん低下していく。
そして、そのことの意味していることは、別の、「正当性」を担保する、「新たなる」司法制度の登場が必要とされる、ということであろう。
リバタリアニズム、の立場にたてば、こういう国家によって、「独占」される制度、「囲い込まれる」制度、の存在は、最初から「許されない」。
あらゆる、仕組みは、「競争」の存在を許されないとするなら、「競争」的環境にないなら、そもそも、その存在の正当性を担保されない、となるのだ。
もし、独占が、一度でも一カ所でも、許されるなら、そこに、権力が発生する。これは、リバタリアン的に、どうして、容認できようか。
警察、検察、裁判官。
これほど、国家独占、の激しい制度はないだろう。
しかし、である。
これは、本当に、「市場化」できないのだろうか。