吉岡吉典『「韓国併合」100年と日本』

ときどき思うことは、「日本の戦後とは何だったのだろう」ということです。日本はポツダム宣言を受諾します。しかしこれに対して、以下の指摘を、十分に考察してみた人というのは、少ないのではないでしょうか。

このいわゆる玉音放送は、しかし、戦争の遂行を反省する内容ではありませんでした。「戦局必ずしも好転せず」、しかも敵が「残虐なる爆弾を使用し」たことにより、日本という国家が滅亡の危機に瀕しているため、「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲」して無条件降伏をするのだと言っているだけです。そこには、韓国の植民地統治や中国への侵略を懺悔する文言は、一切ありませんでした。

父が子に語る近現代史

父が子に語る近現代史

当然、ここで、疑問がわきます。果して日本は、いったい、「韓国の植民地統治や中国への侵略を懺悔する」ようになったのでしょうか。または、そうなったともしするなら、それは、いつから、なのでしょうか。
この命題に、答えられる人は、どれくらいいるでしょうか。
掲題の本は、この問題を、主に、日韓併合、を中心に検討したもの、と言えると思います。
たとえば、佐藤栄作元首相は以下のように言っていました。

「対等の立場で、また自由意思でこの条約が締結された、かように思っております。」(1965年11月5日、衆議院日韓特別委員会)

「旧条約の問題に触れられましたが、これは私が申し上げるまでもなく、当時、大日本帝国大韓帝国との間に条約が結ばれたのであります。これがいろいろな誤解を受けておるようでありますが、条約であります限りにおいて、これは両者の完全な意思、平等の立場において締結されたことは、私が申し上げるまでもございません。したがいまして、これらの条約はそれぞれ効力を発生してまいったのであります」(1965年11月19日、参議院本会議)

つまり、この頃はまだ、反省していない、ということです。
(もちろん、どうしてこんな状態で、日韓の国交は樹立されたんだろう、と思う人もいると思います。それこそ、韓国において軍事クーデターによって成立した、朴正煕政権が、日本との、過去の清算より、経済協力を求めたから、だったんですね。)
じゃあ、いつから反省?
1995年。
なんと、こんな最近まで、日本は、悪いと思っていなかったということなんでしょうか。
これが、いわゆる、村山談話と呼ばれているものです。ここで、以下のようなステートメントが日本政府からだされます。

村山首相談話 1995年8月15日 ------ わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらた内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

これに対応して、共産党参議院議員であった掲題の著者は、上記にからめて、国会で、日韓併合の公式見解を、問い詰めます。

西四辻公堯という人は、子爵、陸軍少将、貴族院議院をやった人で、以下述べるのは余が責任を持って述べることだということで書いている。コピー[「韓末外交秘話」(1930年)]を配っていますけれども。伊藤博文が韓国の閣議に乗り込んで、ぐずぐずするやつがいたら、だだをこねるやがいたら殺してしまえとまで大声で言ったと、そういう状況下でこの条約の調印を迫ったと、そういうことが非常に具体的に書かれているわけです。

1905年の11月に特派特使に任ぜられた伊藤博文枢密院議長が韓国の工程に内謁見を求めまして、日本に外交権を委任する必要につき説明することがありました。韓国工程は、こういう問題は政府に諮詢したいということを述べたとされておりますが、その際、伊藤大使から、

之ヲ御承諾アルトモ又或ハ御拒ミアルトモ御勝手タリト雖モ若シ御拒ミ相成ランカ帝国政府ハ已ニ決心スル所アリ其結果ハ果シテ那辺ニ達スヘキカ蓋シ貴国ノ地位ハ此条約ヲ締結スルヨリ以上ノ困難ナル境遇ニ座シ一層不利益ナル結果ヲ覚悟セラレサルヘカラス

と述べたと、こういうふうにされております。

この本[林権助述「わが七十年を語る」]を読むと、調印者が、閣僚が調印前に逃げ出さないように憲兵に見張りさせた、あるいは自殺者が出ないように見張りさせた、そういう状況のもとで調印したと当事者が書いているんですよ。

日韓併合が、どういった状況の中で、締結されたものであったか。いずれにしろ、(いろいろ紆余曲折がありながら)この問題に対しても、以下のような、村山談話の延長となる、発言を引出します。

ともあれ、「韓国併合」が、「対等な立場、自由な意思で結ばれた条約」だとしてきた政府の立場は、公式にあらためられました。村山首相は、「現実に植民地支配が存在しておった」事実を認め、「厳しい反省」の上に立って「謝る」という態度を表明しました。日韓関係に刺さった「とげ」のひとつは、韓国国会の抗議決議という経過をへてとりのぞくことができました。私もこの答弁を歓迎します。私自身にとっても三〇年前の日韓国会の取材中に内心決めた課題の一つを果たすことができました。

もちろん、多くの人は思うでしょう。もし、1995年まで、悪くないと言い続けていた、自民党という勢力は、どうしてこう、なし崩しで、この時期になって、今ごろ態度を変えたのか。こんな最近まで、意地でも抵抗していたんじゃなかったのか。
もちろん、この頃から、新しい教科書の会など、反動的な活動が目につくようになります。
そして、万を辞して、安倍晋三政権の誕生となりました。彼らは、すぐにでも、村山談話を破棄して、戦前回帰をすると思われていました(少なくとも、そうしたがっている、とりまきに囲まれていたことは、確かでした)。しかしそうなりませんでした。彼らは、自分たちの本音を隠し、逆に、小泉首相までにこじれていた、関係改善を目指しました。
アメリカ、ですね。彼らは、完全村山談話踏襲を宣言することにまでなってしまいます。しかし、従軍慰安婦問題発言により、とうとう、アメリカに三行半をつきつけられます。彼はアメリカで、自身の今までの発言を徹底して、さらしものにされ、つきあげられたんじゃないでしょうか。彼は、体調不良を理由にして、一年で政権を投げ出すことになりました。
なんでこんなことになったのか。それだけ、「アメリカ主導の戦後体制」に、半旗を翻すということは、容易でない、ということなんだと思います。つまり、いずれにしろ、日本は、戦後体制を受け入れて国際社会に復帰した、というその形式は強烈だということなんですね。
しかし、この問題は、まったく、無くなったか、といえば、そんなことはない。あいかわらず、くすぶり続けている。
例の、田母神論文もそうでしょう。
その最初の書き出しは、今の日本の、アメリカ軍駐留が、日米安全保障条約という、「二国間で合意された条約」によって担保されているのに対し、戦前の韓国での日本軍駐留も、前者と「同値」の命題なんだ、としたことでした(韓国内の日本軍の駐留は、日清日露戦争後に結んだ条約で合法的と認められていた、韓国内の日本の「権益」を守るためだったのだ、と)。そして、「昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない」。
ところが、真ん中くらいで、もし日本が侵略国家なら、欧米列強も同じくらい侵略国家なはずで、日本だけ非難されるいわれはない、みたいに書いてある。
戦後、植民地解放、民族自決の流れが確立して、世界中から、植民地というものはなくなった現在、こと植民地が許されるべきかどうかについては決着がついたと言うことでしょう。上記で言えば、欧米列強も日本も侵略国家だったことには、世界的なコンセンサスは成立している。
だとすると、上記の部分は何が言いたいのか。これに関係して言えば、今だに、日本政府は、日韓併合の「形式的な合法性」というものは成立していた、という立場なのだそうです。
そもそも、国際法って、紳士協定みたいなものだと思うのですが、その、「形式的な合法性」、つまり、形だけは合法、にこだわるって、なんのことなのでしょうか(人によってはそれは、国家賠償が発生するのを避けるため、という意図があると、うがった見方をする人もいる、ということですが)。
村山談話を否定するなら、話は早いのですが、これは認めるとするなら、実質的に、こんな「合法性」なんて言い方は、相手に誤解を与えるだけで、非常にマイナスだと思うのですけどね。
つまり、ヘーゲルの「相互承認」を、あまり重要視していないのでしょう。
日韓併合によって、韓国は自らの主権を放棄し、「保護国」となったということですが、この後ですぐ、韓国の主権者自身の側から、この条約は不当であるとの訴えがあり、そして、三・一独立運動です。この弾圧で、八千人近く(もっと多いという説もある)が亡くなる。
これでも、韓国側は、日韓併合を「承認」していた、と。なんてったって、「多少の圧力を伴わない条約はない」んですから。一部のはねかえりの非合法活動で、日本は丁重に扱ったと。(そもそも、自らの主権を奪われるような、契約の承認、って何? って思わずにいられませんが。)
掲題の本の前半は、秀吉朝鮮出兵から、明治までの、日本の朝鮮侵略史観が、語られて、興味深いのですが、それは、またの機会に。

「韓国併合」100年と日本

「韓国併合」100年と日本