劉暁波(リュウシャオボ)「一人一言の真実が独裁権力を突き崩す〜言論の自由こそ民主化の出発点」

この年末もおし迫ったこの時期に、一年を振り返り、あらためて、「最も重要なこと」について考えておくことは、意味があるのかもしれません。
この論文の著者は、言論の自由の「一点突破」こそ、あらゆる問題の解決の「全て」であることを強調します。

まさに、一点突破で全般が蘇るというものだ。

この一言で、著者は「本質」が分かっていることが分かります。たとえば、民主主義。

まさにアメリカの学者ロジャー・ヒルズマンが、民主制度において「ある種の自由は、必要不可欠のもので、しかも格別に保障しなければならず、それこそが報道の自由である。......民主の定義がどのようなものであろうと、報道の自由がなければ、民主そのものが存在し得ないのだ」(『アメリカはどのように統治しているか』)。

なぜ、これほどまでに、言論の自由が重要であると、強調されるのであろう。著者はここに、あの有名な事件を、例とする。

例えば、全世界のメディアが注目した米軍の捕虜虐待事件では、最初にこの醜聞を暴いたのは、二十四歳の陸軍下士官ジョー・ダービーであった。ダービーは、米軍の兵士たちがイラク人捕虜を虐待するのを目の当たりにした後、良知が彼を駆り立てて、捕虜虐待の悪行を暴露する一枚の小さなメモを上司のドアの隙間に差し込んだのだ。

その結果は、あまりに強烈でした。実際、その後のアメリカのイラク侵略の大義名分に対し、多くの人に疑念を抱かせるきっかけとなったからです。
もちろん、忘れてならないのは、この現場を見ていた多くの人々は、報告しておらず、彼だけが、報告した、ということです。彼が、報告しなければ、この事件は白日の下に晒されることはなく、イラク戦争はあい変わらず、正義の戦争の大義名分でよりいっそうの泥沼を見せていたかもしれない。
しかし、彼にとって、彼が報告することによって、周りから白い目で見られ、つらい毎日が待っていたかもしれません。ここで大事なことは、以前紹介した、「みんな」の意見(

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

)、というものの意味です。民主的な自由が存在する所では、確率的にこういう人が現れる可能性があり、それによって、マジョリティや有識者のドグマの盲点に、風穴を開ける可能性がある、ということなのです。
なぜ、私がこの、古典的な命題にこれほど注目するか。もちろん、この発言が、今、世界中の最も注目を集めている、かの国、中国、の「中」から沸き出てきたからです。

例えば、現在の中国において、人権保障が極度に窮乏しているのは、まず言論および報道の自由の欠落による。国民に言論の自由がなければ、権利や利害を訴える際に、公然とその意思を表す合法的なルートがないのだ。中国のメディアには報道の自由がないために、政府および役人の権力の濫用は、メディアによって公共の世論に訴えることもできず、効果的な世論の監督を受けることもできず、官権の民権に対する侵害が、事前の防止事後の懲罰を受けることは、非常に困難である。

しかし、そんな中国も、毛沢東の時代から比べれば、少しずつ前進していると言う著者に、我々も勇気づけられます。

官権が個人の生活の糧と人身を独占していた時代は、永遠に過去のものとなり、政府機関も、国民の専属家政婦を務めることはもはや不可能である。国民は、次第に政府機関によるゆりかごから墓場までという全面的な経済的依存と徹底した人身的従属から抜け出し、利益の多様化が、民間の独立と生存に経済的な異版を提供し、「国家が支給する物資」から離れても、自ら活路を見出すことのできる民間の社会がすでに出現したのである。

以前は、人々に忠誠を尽くすことを表明するように求めた。甚だしくは、人々が心から信じて賛美するようにさえ要求した。しかし、今では民意を酌みとり、人々のシニカルな態度------本心は異なるが同意や称賛を見せてくれれば、それで十分なのだ!

ソビエトと東欧の強権的共産主義陣営が雪崩を起こした後、世界が自由化と民主化に向かう大勢は、日増しに強力になり。主要国の人権外交と国際的な人権組織の圧力は、独裁体制と恐怖政治を維持するコストをますます高くさせ、政府による迫害の有効性とその抑止力は、絶えず低下して、中国共産党の現政権も、国内に対する統治と対外的な応対において、「人権ショー」と「民主ショー」を繰り広げざるを得なくなったのである。

こういった歴史法則を、自国の中に読みとる彼は、あの、六四天安門事件の悲惨な現場に立ち合った、自らの苦しみの感情を踏まえて、それでもなお、楽観的です。いや、むしろ、そう思おうとしている、そうやって、自らを奮いたたせている。そんな彼の姿は、感動的でさえあります。

したがって、独裁政権の崩壊は、暴力的な方法を取る必要はなく、大規模な街頭での政治運動さえも必要ない。民間の社会で勇気をもって情報の封鎖と言論のタブーを突破することさえできれば、大胆に言論の自由という権利を獲得し、自由な発言の唾だけを頼りに、いかなる独裁政権をも溺れさせることができるのである。

そういう意味では、著者の立場は、比較的、穏健に思え、過激派の人たちにとっては、物足りなく思うだろう。今、目の前で、中国共産党政権の非道によって、人権を奪われている人々の救済を訴える人にとっては、このステートメントは物足りなく思える。
もちろん、歴史の審判は、将来において、判断されるものであるし、今の中国共産党一党支配が、簡単に変わることは、なかなか、考えられない、というのもあります。いずれにしろ、はっきりしていることは、どんな「革命」によって、政権の転覆が起ころうとも、前政権の権力者たちが完全にパージされ放逐されようとも、「構造」か変わっていない限り、時間とともに、まったく「同型」の政治体制が目の前で展開されることになることは、歴史が証明している、ということです(日本の民主党がどこまで、この批判に耐えられるものかは、近々によりはっきりしてくるであろう)。
そういう意味では、逆に言えば、彼は、たんなる民主化以上の、さらに過激な革命を構想しているのだと思います。
もっと、根源的な。
彼が、今語っていることを、まるで、他の国のこと、他人事、だと思っている人は、おめでたいと言えるでしょう。日本やアメリカの民主主義は、そんなに立派でしょうか。
しかし、そう私たちに思わせる理由は、本当に制度なのでしょうか。たとえば、日本において、さまざまな、疑問符をつけたくなる、司法や行政の報道がされたり、明らかに重要と思われる事件が、大手マスコミで、完全無視されることが、さらに頻発しているように思われます。しかし、それは、彼ら大手マスコミの怠慢というより、彼ら自身が、その利害を共有しているから、と考えるべきです。政府機関は、大手マスコミに、情報をリークすることで、大手マスコミは、特ダネで他社を引き離し、売上げとします。そうであるなら、彼らには、最初から、限界があることがその存在定義から、証明されていると言えます。
著者は、その突破口として、テクノロジー、つまり、インターネットに注目します。

しかし、インターネットが中国に入ってからは、これを技術的に封鎖することは難しく、中国人が言論の自由を獲得するのに未だかつてないプラットフォームを提供し、ますます多くの勇敢な人々が、インターネットを通して自由な発言を行い、暴政に反抗するインターネットの民意を形成し、言論統制の「穴だらけ」状態は、もはや修復する方法もない。

インターネットの本質は、その、「網の目」です。この、インフラが、リニアな様相を示さない限り、どこか一カ所の口を塞ぐことには、なんの意味もありません。アメーバのように、さまざまな、発信者が別の発信者と「繋がる」、つまり、メディアできてしまうのです。
しかし、この特徴も、ある意味、長期的には、それほどの利点とはならないかもしれません。さまざまに、テクノロジーは発展していくからです(はるか未来の人類を思い描くことは傲慢なことかもしれませんが)。
こうやって考えてきて思ったことは、性善説とは、この「言論の自由」の人類の理想のシステムが実現可能だ、と思う楽観論であり、性悪説とは、そう簡単に実現しないだろう、という悲観論のことを言っていたのかな、と思いました。いずれにしろ、言論の自由の、ある程度のレベルの維持が、なにより、重要であると考えているということでは、二つに違いはなかったのかもしれません。
よくよく考えてみると、近代が実現してきた、さまざまなシステム、民主主義、完全普通選挙、人権、三権分立、...。こういったものは、これらそれぞれに大きな意味があるというより、言論の自由、の至らしめる、ある種の、定型的な形態と言えるのかもしれません。言論の自由、が実現されている世界においては、どうしても、こういった、システムに近づかざるをえない、近づかないと考える方が難しい、そういう意味で。
18世紀後半のドイツ観念論哲学者のカントが好きな人は、彼の主著の一つ『実践理性批判』のけっこう分厚い本が、ほとんど、自由のことしか書いてないこと(自由の観念論的な捉え直し)、有名な論文「啓蒙とは何か」が、まさに、言論の自由、その一点、を巡って議論されていたことに、思いあたるでしょう。
私が、かの国、中国、の人権状況を代表して、なにかを言うことは、ふさわしくないだけでなく、不遜なことでしょう。ただ、思うことは、日本の情報の方です。中国は、「すぐ隣」なのです。それなのに、かの国、の人々がどのような毎日を送っているのかを、想像しうる、日本人がどれだけいると言えるか。それは、周りの他の国々についても同じでしょう。ロシア、モンゴル、韓国、北朝鮮、台湾、フィリピン、...。
もちろん、私が言っているのは、国家レベルの首脳間の親密度ではありません。そんなもの、まったく興味がありません。そういうものを「とびこえて」、まさに、国家にからまりついて離れることのない、ガン細胞のように、増殖していく、市民レベルの、お互いへの興味のもち合い。
もちろん、昔からの、島国根性と言えなくもないし、やはり、戦争の加害者意識が、そうさせているのかもしれない。仲良くなれ、という前に、まず、相手に興味をもつこと(情報は繋がることで、その意味が大きくなるのだとしたら、せいぜい、自分たちのできることは、そこから、なのだろう)。
六四天安門事件、の体験から、去年、08憲章、を発表し(現在は、中国当局に逮捕されている)、現在、世界が最も注目する、著者の発言に興味をもつところから、この出発点にすることは、間違っていないとは思わないだろうか。

天安門事件から「08憲章」へ 〔中国民主化のための闘いと希望〕

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