ジョン・グレイ『わらの犬』

  • はじめに

欧米においては、ユダヤキリスト教の考え方というのは、抜きがたいまでの、根深さをもっている。
なんてったって、アメリカ議会では、大統領は、聖書に手を当てて、宣誓をするくらいなのだ。
神がどーしたこーした。
日常会話からして、こんな、ひょーげん、ばっかじゃないか。
その中でも、典型的な特徴を一つあげるとするなら、「終末思想」であろう。この考えでは、今の問題の矛盾は、未来において、「選民的に」解決(発展)される、という整理になっている。そのことによって、信者に、今の問題の忍従の「合理性」を納得させるのであろう。
著者が、一貫して、槍玉に上げているのが、この問題だと言っていいだろう。著者は、進歩、とか、進化、とか、そういった考えの、うさんくささ、を手を変え品を変えて、問題視する。
科学の運動が、進歩であったとしても、「今の問題が未来において解決される」保障などあるわけがない。科学がもたらすものは、次の新たなステージにすぎないわけで、そこにおいては、そこでの問題が、また山積されるに決まっている。別の次元の話に移るだけであり、終末思想にあるような、未来における、進歩(あらゆる問題の解決)、とは、無理な要求というものだ。
しかし、終末思想、とはそういうもので、今の問題に今、答えを用意できないなら、未来に棚上げにでもしなければ、だれもが、腹の虫が治まらないのだ。だって、今自分は、割をくってるって本人が思い込んでテコでも動かないって言ってるんだ。そうである限り、その怒りの持って行き場所を探すしかないだろう。しかし、今の、この政治や現実に怒りをもって行けば、社会変革、革命になり、社会的な秩序の揺籃因子を増やすことにしかならない。宗教は、そういった、現実の矛盾に対して、まったく別の、解決を、(まるでそんなものが存在するかのように)提示し続ける装置として、機能してきた。今が無理なら、未来しかない(まるで、赤字国債みたいですね)。
問題は、キリスト教がどーこーというより、あらゆる分野で、この思考形式が、あまりに、常態化していることなのだろう。
ということは、著者が、この本で、さまざまに、とりあげるトピックの、言いたいこととは、何なのであろうか。

  • 人間

人間は、動物と変わらない。
人間は、動物界で「特別扱いされていない」。

古代中国では、わらの犬を祭祀の捧げものにした。祭りのあいだ、わらの犬はていねいにあつかわれたが、祭りがすんで用がなくなると踏みつけにされ、惜しみなく棄てられた。「天地自然は非情であって、あらゆるものをわらの犬のようにあつかう」。

この、現代の地球上での、人間の繁栄を、著者は、道教老子、にある、わらの犬、と言う。今、この地球によって、やんごとない「捧げもの」として、大事にされ、「ていねいに扱われている」、われわれ人類も、いざ「祭りが終われば」、「踏みつけられ」ても気にもされない存在として、この地球から消滅させられる...。

  • 意識

人間の本質とは、考える存在、などと言われるが、別に、動物だって「考える」。しいて言えば、文字シンボル情報の処理がやたらと肥大化しているくらいで、こういった活動を動物がやっていないわけではない。著者が言うように、地球外の知的生命体との「交信」を夢みるより前に、この地球上の人間以外の動物との交信の方が、ずっと現実的と言える。
昔、NHKで、ボノボという猿が、電子音を発す大量のボタンがあるボードで、人間と「会話」をしていたが(そこでは、ある種の、文法さえ、駆使していた)、それ以前に、各群内で、彼らは、なんらかの「会話」をしていない限り、あのような協調行動がとれるわけがない。動物が「考えていない」ということこそ、謬見であろう。
しかし、逆は正しい。つまり、人間は、それほど「考えていない」。

意識に上ることのない知覚----閾下知覚は異状でも変則でもない。これこそが正常である。人間が外界から感受することのほとんどは意識的な観測ではなく、持続する無意識の凝視によっている。「無意識の視覚は......時間にして100倍を超える意識的な熟視よりも大量の情報を収集すること......が立証されている。無意識の視覚の未分化な構造は......意識的な視覚に優る識別能力を発揮する」。

人間が意識のフィルターを通して見る世界は、閾下視覚によってあたえられるものの断片でしかない。人間は生活に支障を来さず、毎日が平穏に流れていくように自身の感覚を検閲するが、その実、何をするにもほとんどすべてを前意識の世界観に頼っている。現に知っていることと、意識を介して学習することを同等に置くのは致命的な誤りである。精神の寿命と肉体の寿命は表裏している。覚醒した意識ばかりにすがって制御しようとすれば、精神は機能しない。

人間のやっていることは、すべて「反射」だと言ってもいい。飛んで来たボールを掴むのは、その手「周辺」に存在する一部の神経群の「勝手な」反射行動であり、人間の行動は、こういった多数の神経群の反射が、さまざなに干渉し合っている、それだけの、集合体とまず、考えた方がすっきりする。では、意識とは何か。そういった、厖大な神経の「行動ログ」、つまり、記憶、のごくごく、上澄みにアクセスして、有機的に形式をプログラムしていく、また別の、神経群、の活動、その程度に考えた方が、すっきりする。

  • 道徳

著者は、道徳が、ある種の「便宜」でしかない証拠として、以下の例を提示する。

ナチス強制収容所で十六歳の少年が看守に強姦される。朝の点呼に無帽で並んだ収容者は問答無用でただちに銃殺の決まりだから、看守はそれをいいことに帽子を盗む。収容者が撃たれて死ね強姦の事実は闇から闇である。少年は帽子を手に入れる以外に助かる道はないと思い定めて、隣で寝ている同胞の帽子を奪い、生き延びて収容所の体験を世に語る。撃たれるのはなんの罪科もないもう一人の収容者である。
帽子を盗んだロマン・フリスターは、仲間の死を見たままに描いている。

将校とカポは列に沿って近づいた。......二人が収容者を数えるあいだ、わたしは秒を数えた。さっさと片付けてもらいたい。四列目。無帽の男は命乞いをしなかった。殺す側も、殺される側も、鉄則の何たるかを知っている。言葉は意味を持たない。警告なしに銃声が空気をつんざき、人の倒れる音は鈍く乾いて尾を曳くこともなかった。頭に一発。撃つのは後頭部と決まっている。戦争はいつ果てるとも知れず、弾薬は惜しまなくてはならない。死んだ男がどこのだれか、そんなことはどうでもよかった。生きている歓喜が身内を貫いた。

道徳の見地ら、この少年はどうすればよかったろうか。

ロマン・フリスターの体験は道徳が一種の便宜であって、平時にしか通用しないことを物語っている。

著者の言いたいことは、(まさに、ニーチェ主義、の色彩を帯びた)反道徳主義、と言っていいだろう。こういったものは、最近の、通俗哲学研究者の、通俗本では、ありふれたものとなっている。倫理学は、「人は人を殺す」ことをまるで、推奨するかのように、人殺しを「悪」とは言えない、とぬかすまでになる。
一つだけはっきりしていることは、その少年が、生きる歓喜にふるえようが、どうしようが、現代の先進国の法律の見地からして、(ある程度の正当防衛は認められても)その少年に他殺「幇助」くらいは、成立しそうではある、ということであろう。
著者は、きっと、子供の頃に、おかあちゃんに、ずいぶんと「道徳的な」説教をくらった、その理不尽さが、今だに、許せないのだろう(いつまで、かーちゃん、にあまえての)。
道徳の「意味」を問うことは、ある種の「実体主義」のようなものだ。結局は、なにかのイコン(図象)は、奥は深い、と偶像崇拝ぶって終りであろう。
著者は、儒教の人間臭さを拒否し、道教を礼賛するが、中国の歴史をみても、一時期、道教が国の政治の中心理念とされたこともあった。また、秦の始皇帝なら、韓非子である。しかし、そういうものは長く続かず、最近まで、儒教が政治の中心とされ続けてきた。しかし、そういった儒教政治の間であっても、一部の好事家はずっと、道教を興味深く、読んできたわけだ。
もちろん、儒教官僚主義は、一部特権階級の腐敗から、逃れることはなかったわけで、完全ではないことは、魯迅をあげるまでもなく、だれもが指摘してきたこと。問題は、なぜこれが続いたのか、である。それば、「その他より」それなりに、まだまし、な面があったからであろう。
そりゃあ、そうである。仁政と言って、皇帝は、自らの行動を、あくまで、仁、にかなったものとすることで、まるで、波が伝わっていくように、諸国の民を、感染させる。トップが、ひかえめに、自らを戒めて生きるなら、庶民の怒りも、トップに向かいようがない。
つまり、言いたいのは、そういうシステムは、比較的「安定」している、ということであろう。
あらゆる人間の理性を、「形式」として整理したのは、もちろん、カント、であったが、別にそれを、コペルニクス革命と言わなくてもいいが、この、コペルニクス革命、から後退することは、もうできない、ということなのだろう。

人間の歴史は、虐殺(民族浄化)の歴史と言っていい。

1772年にヨーロッパから移民船がやってきたとき、タスマニア先住民はほとんど見て見ぬふりだった。なんの備えもない先々の変化を予測できずに、それまでどおりの暮しをつづけたのである。
入植者の暴虐から身を守る術を知らなかった先住民は、当初、約5000を数えていたはずが、1830年には72人を残すばかりとなった。そのかん、先住民は奴隷に使われ、慰みものにされ、拷問を受け、あるいは手足を切断された。害獣を退治するとでもいうように虐殺され、植民地政府はそれを奨励して先住民の生皮を買い上げた。男が殺されると、妻はその首をくくりつけて放り出された。死を免れた男はほとんどが去勢され、子供たちは撲殺された。最後のタスマニア人男性、ウィリアム・ラナーは1869年に死去したが、タスマニア学士院のジョージ・ストーケル博士はその墓を暴いて故人の皮でタバゴ入れを作った。数年後、ただ一人残っていた純血のタスマニア人女性が死亡して大虐殺はここに終止符を打つ。

新大陸の開拓ではない、なぜなら、その大陸には、お前らが来る前から、現地住民が住んでるじゃねーか。しかし、その現地住民を、虐殺して、民族浄化、をしてしまえば、「だれもいなくなる」。まさに、新大陸の開拓、になるってわけだ。
NHK大河ドラマ風林火山」で、一村を、焼き殺した、なんてのもあったが、いったい、どれほどの、民族がこうやって、この地球から、消滅していったものか。
民族浄化は、その民族を存続させることの価値を感じなかった側が、圧倒的な力の差を利用して、「おもしろ半分」でやっている面があるが、別に、全員を抹殺しようと思わず、ある程度は、生かさせて、奴隷としてでも使おう、とする場合であろうと、人間の残虐さは、なんら、変わらない。

1899年4月23日、日曜の午後、2000を超すジョージア州の白人が団体列車を仕立ててニューマンの町にくいこんだ。同じジョージアの黒人、サム・ホーズの処刑が目当てだった。市民総出の見物で、親たちは学校に文書で子供の欠席許可を求めた。人にとは惜しくもこの山場を見逃した親類や知友に絵葉書を送り、競って記念写真を撮った。
またあるとき、同じような騒ぎの巻きぞえで夫を亡くした黒人女性、メアリー・ターナーは八ヶ月の身重だったが、責任の所在を糺して加害者の懲罰を求める決心で現場に出向いた。群集は思い知らせんものといきり立ち、メアリーの足を括って逆さ吊りにした。メアリーは生きながら腹を裂かれ、地べたに落ちた胎児の頭を群集の一人が踏みつぶした。これでもかとばかり、八方から銃弾を浴びて、メアリーは蜂の巣となって息絶えた。

こういったものを見てくると、第二次大戦の、あの、悲惨な殺し合い、は、なにか、必然の結果のようにも思えてくる(人殺しをしたがる、手を止められないのだろう)。
この、さまざまに、刻まれた、民族という、分類に、まるで、「生物学的な」意味があるかのように科学ぶったのこそ、あの、ナチス・ドイツ、であった。優秀かつ高貴な「ゲルマン民族」。撲滅すべき「ユダヤ民族」。優生学、これが、当時の「科学」だと? 科学とは、常に「自称科学」の別名にすぎない。

  • 獣性

人間は、動物と違い、道徳の分かる高貴な存在だ。その、道徳の重要さを協調した、ソクラテスが、デルポイの信託、を絶対としたことは有名である。さて、道徳は、巫女さんが教えてでもくれるのですかね。

ニーチェは言った。

正義をはじめ、分別、節度、勇気など、つまるところ、ソクラテス流の美徳とされるすべての起源は獣性にある。すなわち、食物を確保し、敵を回避することを人に教える行動原理の帰結である。今、類なき存在をもって任ず人間も、食性や被害意識の点でいくらか気位が高く、感じやすいだけでしかないことを思えば、道徳が生み出すあらゆる現象は動物の本能に由来すると言ってまちがいない。

人間は動物であるが、その道徳が、動物としてのなにかを意味していたもののなにかと考えることは、我々に一つの認識の転換を強いる。
我々がもつ、美徳、は我々の動物としての、はるか太古の過去から続く、なにかであるということ...。

  • 福祉

今の新自由主義の世界では、福祉国家は、存在しえない、そんなことを前にも何度か書いたが、そういう表現は、正確でない面がある。

福祉国家は第二次大戦の副産物である。イギリスの国家医療制度はナチスによるロンドン大空襲、いわゆるブリッツクリーグの痛手からはじまり、完全雇用国民皆兵がうなうながした。戦後の平等主義は総動員の反作用が生んだ思想である。

福祉国家は、存在しえた。
戦争によって。
戦争に、人殺しが不可欠であるなら、その双対性は、人殺し、されることとなる。軍人は、「公務員」である。国民全員が、赤紙で、軍人にされるなら、それは、全国民が、公務員、つまり、社会主義だ。しかし、現代において、その、戦争も違った姿を見せてきている。

戦端技術が経済の繁栄を支える豊かな社会では、庶民大衆は余計者で、砲弾の餌食、つまり、戦場で消耗品あつかいされる兵隊の役にも立たない。現代の戦争は徴集兵が体を張った昔とちがってコンピューターの戦いである。

戦争が様変わりして社会の結束力が衰え、富裕層は別の階層と接触する必要も機会もない。富んだ上流に脅威をあたえないかぎり、貧乏人はそれぞれの才覚で生きることを許される。
金持ちの寡頭政治が社会民主主義に取って代わった。ある意味で、これが平和の代償である。

現代においては、戦争によって、でさえ、福祉を実現できないなら、一体、ナショナリズムなどありうるのであろうか。富裕層と貧困層は、完全に、別世界となる。先進国で、人口減少がみられるのは、このせいだと言えるであろう。
貧乏人が、先進国において、子供を産むということは、金持ちが牛耳っているこの国では、(金持ちとの差別的な)待遇を受けて、苦しむことが分かっている。わざわざ、そこから、はい上がれる目処もなく、多くの子供を、この世界に迎えることは、残酷なことに思えるのであろう。
しかし逆も言える。強力な民主主義が機能するなら、どんなに貧しくても、教育の機会を与えてくれ、どん底から、はい上がれるかもしれない。
しかし、何度も言っているように、この新自由主義世界においては、福祉とは、背理であった。日本の借金体質をみても分かるように、こういった福祉は、長期的ヴィジョンが弱い(安心社会の実現し成功した国は存在しない)。
他方、発展途上国では、みんなが貧しいから、平等、であるから、みんなが貧しいなりに、「平等」に子供をつくる。
それを不幸の始まりと思うのは、お金持ちの国の勝手である。貧乏になるだけだから、避妊しろと言われても、なんで、そんなことをお金持ちの国に言われなきゃいけないんだ、といった感じであろう。
さて、どちらの国が、いいんでしょうね。
金持ちの寡頭政治。
これが、新自由主義、の答えだそうだ。

  • 人口と水・食糧・資源

人間は、どこまで、この地球に生きることを許されているのであろうか。

E・O・ウィルソンは書いている。

ルワンダの悲劇は、外から見た目には民族対立が度を超して尖鋭化した結果と映り、報道もそのように伝えたが、それは一面の現実でしかない。動乱の背景には、環境と人口の推移に由来する根深い要因があったのである。医療の改善と一時期の食糧増産で、ルワンダの人口は1950年の2500万から、94年には3倍を超える8500万にまで跳ね上がった。1992年の統計によれば、同国の人口増加率は世界最大で、女性は一人平均、8人の子供を産んでいる。この間、食糧生産はいちじるしく増大したが、伸びつづける人口がたちまちそれを追い越した。......国民一人あたりの穀物収穫量は1960年から90年代にかけて半分にまで落ちこんだ。水不足は深刻で、水文学者はルワンダを、水飢饉に見舞われている世界二七カ国のひとつに認定した。フトゥ族とツチ族の若い戦士らは手段を選ばず、不退転の覚悟で人口問題の解決に立ち上がった。

水や食糧や鉱物資源。こういったものは、限りがある。足りなくなれば、その国は、生きられなくなる。この国「そのもの」が、飢え死に、することになる。
この地球上ということでいえば、人口増加は止まらない。さて、どこまで水や食糧生産が、もつのか。世界的な旱魃が起きたら、どうなるのか。地下鉱物資源も、近いうちに、掘り出し尽して、もう、なくなるのでは、非常に高価なものになるのではないか(そういう意味では、日本のような、加工貿易国は、いつかの将来において、今の形態を維持できなくなることは、目に見えているのだろう)。
中国は、一人っ子政策、を続けている。これを、非人道的と言うのは、簡単であろう。しかし、そうまでしても、近々に、中国の、水、食糧、鉱物資源、の世界での、獲得競争は、熾烈を極めるであろう。単純に、日本の、10倍だとして、中国の国民「すべて」が、今の日本人の生活水準に到達したなら、どれほどの、資源を世界から、かき集めなければならなくなるのか。
しかし、そんな他の国の人々の心配をしている場合なのだろうか。むしろ、日本のような中途半端な先進国の、相対的貧困層こそ、(政策によっては)絶望的な様相となっていくであろう。
よく、セーフティネットと言う。しかし、生活保護とは、貯金ができないんですね。でも、そこまでしても、国民「すべて」を生活保護で、食わせることなど、できるわけもない(1%と99%でしたっけ。みんなで、その1%に、土下座でもして、お恵みをお願いしてみますかね)。しかし、これで、どーやって、再チャレンジ、するんでしょーね。わからないけど、99%は、金儲けのアイデアで、1%から、お金を出資させて、やれるものなら、這い上がってこい、こんなイメージなんでしょーかね。

  • 仕事

著者は、未来の、仕事を、こう予言する。

さるロボット工学の先駆者は言っている。「次世代中に安価で高性能のロボットがそっくり人力に取って代わり、雇用を維持するためには平日の労働時間を事実上、ゼロにまで短縮しなくてはならないだろう」

この先、数世代のあいだに人口の大半が生産活動にほとんど関与せず、さらには、まったく用をなさなくなることさえ、あながち考えられなくもない。
産業革命がもたらした最大の変化は労働階級の誕生だが、これは、産業革命が地方から都市へ人口の移動を強いたことよりも、桁ちがいの人口増にした結果である。

もちろん、これは、著者の、冗談である。しかし、ある意味、実現しているとも、言える。実際、コンピュータの普及は、多くの労働者を、企業は、抱える必要がなくなっている。これは、コンピュータの問題だけではない。昔に比べれば、たいていのことをするのに、もう、それほどの人を集めなければやれないことは、なくなってきていると言っていい。
しかし、こういった世界は、SFにおいては、理想社会と描かれてきたのではなかったか。だれも、仕事をしなくていい。一生、遊んで暮せる...。
???
はて。
先だつものは、お金、でしたね。
著者は、そういう意味で、人類の未来は、より享楽的になっていくのではないか、と予想する。ドラッグ、犯罪、セックス、暴力...。99%は、1%に、お金を恵んでもらうかわりに、彼らに快楽を提供する。
性は、人の尊厳に関係している、と言われる。そういう意味で、相手に貞節を捨てさせ、自尊心を奪うことは、1%に99%との立場、「身分」の違いを再確認させる意味でも、享楽的な所業、儀式、となっていくのかもしれない。
暴力もそうである。なぐられることは、最大の侮辱だとしても、これがビジネス。古代ローマのコロシアムでの決闘のようなものは、事実、今でも、リアルファイトとかいって、やってますね。
倒錯の遊戯。しかし、いずれにしろ、これこそが、未来のビジネス、だというのなら、そんな未来とはなんなのか。
著者は、こういった未来の姿を、J・G・バラードの、『コカイン・ナイト』『スーパー=カンヌ』から、思い描くのだが、最後には、こんなふうに言って、おどけてみせる。

だが、その手のの害毒の種がつきたらどうなるだろうか。デザイナー・セックスや、潜りのドラッグや、暴力が売れなくなったら、飽満と懶惰の閉塞を破るのは何か。そのとき、道徳は流行の最前線に返り咲く公算が大きい。道徳が背理の新しいブランドとして市場に出まわる時代もそう遠くはないのではあるまいか。

ようするに、「今とたいして変わらない」。そういうことなんですかね。今でも、ある程度は、道徳的ですし、ある程度は、享楽的。

  • さいごに

もう一度最初に戻ると、著者は、科学の進歩とやらは、別に、人間の生活に、進歩、があることを意味しない、という主張であった。
わらの犬
祭りが終われば、だれも踏んづけても気にもしない。
そいつはもう、神でもなんでもないのだから。

わらの犬――地球に君臨する人間

わらの犬――地球に君臨する人間