新年そうそう

やはり、年の始め、というのは、多くの人が、ハイテンションになる。なんてったって、新しい年(未来)が始まる、というのだから。
朝まで生テレビ、は、今までの政治運営ということでは、議論は、けっこう、出尽していたようにも思う(それが、みんなの意見、だ)。しかし、大事なことは、そのさまざまな意見の中で、民主党議員が、なんの反応も示さず、スルーした議論であろう。
つまり、そういうものは、彼らの今のスコープに入っていない。
盲目と明視、というように、人はその立場によって、自分のスコープに入っているものと、まったくそこから、すっぽり、抜け落ちているものがある。
私たちが気をつけるべきは、表に(たとえば、マニフェストの文言のような形で公約化されていて)「意識」化されている、1%、というより、その裏で無意識下で、勝手に、機能している、99%、つまり、「構造」という、インフラ、なのである。
いずれにしろ、
平等。
自由。
こういった表現を使うときに、一体、それは、どういった、集団的な、状態分布、つまり、「構造」、が現象することを意味するか。そういった、盲目と明視、の「みんなの意見」による「仕分け」を経て、始めて、議論に耐えた、「みんなの意見」となりうるのであろう。
たとえば、マニフェストで、高校無料化、すると言っても、その裏で、控除をやめるなら、国民は、差し引きゼロであるが、「文言上の公約達成にはなっている」。
厚生労働大臣が、子供手当ては、子供は働いていないから、お金をもっていないから、全員に配るんだ、と言った。
しかし、この表現に多くの人々は、違和感を感じたのではないか。明らかに、親の所得によって、子供の教育支出に差があることは、はっきりしている。だとするなら、そのような手当て「だけの平等」という表現に、なんの意味があるというのか。
しかし、こうも考えられる。そのお金を完全に、親から離す、という方法だ。
教育は、「社会主義」でいく。教育に必要な最低限度は、そのお金でまかなえ、その(時間も含めて)プラニングされたお金の支出と、決まっている教育プログラムを、愚直にやれば、だれもが、成績優秀になる。そういうものへと、教育を、極小化する。
(では、その他の、各自の独学のようなものは、どうするか。プラニング外の余暇時間で、例えば、図書館(やWEBサイト)のようなものを、徹底的に強化して、好きなだけ、独学できるようにする。)
その場合、人によっては、こんな疑問をもつであろう。それは、運動会で、みんなで、手をつないで、みんな一等賞、のようなもので、競争がないではないか。
ここで、用語の混同が生まれているのでしょう。

  • いわゆる教育:国民全員に等しなみにほどこされねばならないスキルの修得。
  • 専門家集団の養成:さまざまな特殊社会集団が必要とする。エリート教育を含む。
  • 研究:科学者集団など、新しい事実を発見していく活動そのもの。

例えば、大学においては、最初が、一般教養科目、真ん中が、複数選択科目、最後が、ゼミ。こんな感じで、分かれるのであろう。
しかし、こんなふうに考えてもいいだろう。なんで、大学だけが、この三つに分かれているのか。小中高、もこの三つに分かれていいし(日本では、最初が普通の授業で、真ん中と最後が、「クラブ」活動、におそらく対応している)、もっと言えば、小中高、大学、みんな、最初の、一般教養科目、を「義務教育」部分にしてもいい(部分的な、大学全入化)。
しかし、それでも、多くの人は、違和感があるだろう。今の、高校、大学の、偏差値による、ピラミッド型の、階級化。これは、どこに行ったんだ?
それが、おそらく、今の大学院、に対応するもの、と考えるべきなのであろう。東大や京大が日本のトップクラスと言われるのは、その大学院から、大学教授になっている人が多いから、であろう。この大学院においては、上記の三つの分類はもう、存在せず、研究、だけをやっていると言っていい。ということは、これらはもう、「研究所」でいい、ということだ。別に、そういう研究所を、国のお金で運営したっていいだろう。
だとすると、なぜ、こういったシステムになっていないのだろう。
それは、エリート教育を、みんなが必要だと思っているからなのだろう。
いわば、逆算、である
エリート教育は、いろいろなレベルがあると私は考えている。一般的には、国家官僚や大学教授のようなものだが、それに限る必要はない。たとえば、自動車関連の工場が多い地域では、そのラインで「有用」な人材が、身近な市場に排出されることこそ、喫緊の課題であった。よって、近くの工業高校は、そういった人材の育成を宿命付けられた。
しかし、教育とは、まさに、社会主義における、5ヶ年計画、とか、そういった、長期的プロジェクトですから、そういった逆算は、目論見が外れるんですね。そんなふうに意図して、育てても、たとえば、大学教授のポストなんて、ほとんどない。他に応用のきかない、使えない、専門バカ、を育成しきった後で、もういらない、からといって、人生やり直せない。生きていてもらっても、飯代ばかりかかって、なんの価値もないんで、自殺でもしてもらえませんか、って、だったら、おれの人生なんだったんだ、となるだろう。
なんで、こんな面倒な話になるのか。それは、たとえば、上記の研究所においても、一体、どうやってリクルートするか。そんなふうに考えると、エリート教育なしでは、ほとんど、絶望的だと思うから、なんですね。
とにかく、企業は、初期投資をしたくない。もしそれをやるなら、その、元がとれるまで、会社を辞めてほしくない。実践で使える、兵士が欲しい。雇う前に、必要なスキルは、身に付けていてほしい。ようするに、今までの、教育とは、そういった、企業のニーズに答えるような、エリート教育、を企業に代わって、やっておいてやる、そういう場所だった、ということなのだろう。
だとするなら、エリート教育とは、その国の、成長戦略と切っても切れない、ということが分かる。その国の政府が、その国のこれからの、税の配分、などをどうすることで、どういった企業を誕生させ、グローバルな競争を強くし、外貨、税金を獲得していくか。
(私は、別に、エリート教育などなくても、その国が維持したい大きさで、自由な研究環境を保障する、アカデミズムの規模にみあう、予算さえ、用意すれば、それでいいんじゃないか、と思わずにいられませんが、それはともかく...。)
ようするに、まとめますと、以下の、カテゴリー

これらが、ごっちゃになっているから、何をやっているのか、さっぱり分からなくなっている、ということなのだろう。
番組の最後の方で、今の、小中高の子供たちが、まったく、「議論」ができない、という話があった。クラスでやっていないから。そして、日本の大学生は、クラスに、知らない人ばかりなので、すぐに、学校に来なくなる、ともあった。
議論ができない、というのは、カテゴリー「ゼミ」が、日本の小中高で、実践されない、システムになっているから、なのでしょう。
しかし、もう少し、深刻な話のようにも、思える。
現在、日本の少子化に伴い、私立大学付属の小中高一貫エスカレータ式が、非常に普及している。ずっと、小中高から、大学まで、「みんな同じメンバーで」クラスが構成され、同じ授業を受ける、その環境を言っているのか、と思った。それだけ同じ人が小さい頃から、毎日、顔を合わせていると、意見がぶつかることは、次の日も毎日顔を合わせなきゃならないんで、おっくうになる。できるだけ、なあなあ、になる、そういうことなのではないか。
実際、最近のサブカルチャーも、そういった、共感ゲーム的なものが、より強度を増しているように思われる。
そして、彼らは、「外」に興味がない。その、小中高からのコミュニティ内の共通体験から、はじき出されることこそ、恐怖となる。海外への留学が減っているのも、そういうことなのか。
よく言われるように、日本においては、新しくベンチャー企業をたち上げて、新しいビジネスを始めようとしても、どこも、お金を出資してくれない。そういうお金は、「大企業」「有名企業」にしか集まらない。
しかし、なぜ、そういった傾向となるのだろう。
一つの極論をしても、いいだろう。
多くの規制があるから。
企業の年功序列、終身雇用は、いわば、法律や行政指導や裁判の範例による、規制によって、実現されていると言ってもいい。しかし、こういったものが実現できてきたのは、せいぜい、大企業だけである。ということは、大企業だけが、まともな、社会的信用がある、ということを意味するわけで、さまざまに、優遇されている、と言ってもいいわけだ。
番組で、中国が、これだけの成長に成功している理由として、民主主義じゃないから、という話があった。つまり、決定が早い。しかし、逆に言えば、リスクもある。日本であれだけ、コンプライアンスを吹聴している、日米の企業も、中国にくれば、ワイロまみれ。
ようするに、ダブルスタンダード
本気でやるなら、国際条約にして、そこに加盟して、それに加盟している国々「だけ」で、貿易からなにから、を「閉じる」。それぐらいやらないと、口先だけになるだろう。
しかし、その逆の極論を言わせてもらうなら、そういったことは、規制がない、ということを意味している、と言ってもいい。
日本に、ベンチャー企業がほとんどないのは、大企業並みの「健全」企業でないと、国からなにから、徹底的に「差別」されるし、それが、コンプライアンスを理由として、国がその差別に、お墨付きを与えているから、でしょう。
中国は、たしかに、人々の給料は安い。(物価がまだ安い、というのもあるが、それも含めて)労働者の権利が守られていないから。しかし、日本においても、そんなのが、まともに守られていたのは、上澄みの、大企業だけだった。そうすると、こういった、デフレ不況になると、大企業は、高齢役員ばかりの若者のいない組織となり、その内部を維持する既得権益者は、長時間労働で、疲弊しきっていく(しかし、そうだとしても、生涯賃金で考えれば、全然、お得という計算)。
しかし、中国においても、その会社が嫌なら、辞めればいいし、給料が払えないと言うなら、いつまでもそこにいる理由はないだろう。従業員は、その企業がちゃんと来月の給料を払ってくれるだろうか、信用に足る存在だろうか、というのを、なぜ、自分で判断することを怠惰にさぼりたがり、国に規制という形でその役割をかわって、やってもらってほしがるのか。
一般に、コンプライアンスとは、企業間のビジネスの信頼を担保する、という意味ぐらいにしか考えられていない。そうであるなら、ようするに、体力のある企業だけが、信頼に値しますよ、という意味で、最初から、中小潰しの傾向をぬぐえない。
たとえば、ワークシェアリングや、労働時間の短縮(一日、8時間労働)などを実現させようとするなら、それは、「大企業」だけで、実現すると、大企業が不利になるので、コンプライアンスに含まれない。
去年の民主党政権がやったことは、一つ。公共事業を、18%減らしたこと。それ以外になにか、やりましたっけ?
公共事業を、いきなり、減らすということは、それを予想して、ビジネス・モデルを考えていた、企業を、根こそぎ、ぶっ潰すということ、ですからね。
そして、民主党は、今だに、各企業をどうやって成長させるか、の具体的なプランを提示していない。
きっと、国際公約の環境問題、25%だかの邪魔だから、余計な「日本の」中小企業を、かたっぱしから、無くしたいんでしょうね、ちゃんと、税金を払って、エコをやってくれる体力のある、大企業だけ、残ってくれればいい。
しかし、企業は、いずれにしろ、設備投資、といわれますね。
次の事業を始めないかぎり、ジリ貧になるだけであり、雇用も生まれない。だとするなら、金融緩和で、日銀がお金を刷って、銀行に貸して、銀行が企業にお金を融資するところから、始めるしかないように思うんだけど、金融緩和は、いつになったら、欧米並みにやるんでしょうね。
あと、前の記事で、セーフティネットについて書きましたけど、本気で、お金はないけど、アイデアのある人が、アイデアはないけどお金のある人に、お金を「ただで」あげるかわりに、「成功したら」何割かをキックバックする、こういった融資システムが、どうやったら「本当の意味で」実現できるのか、そういうことを考えた方って、どこまでいるんですかね。
セーフティネットにいるような人は、そんなアイデアがあったとしても、次の事業を始めるパワーが、最初からないわけでしょう。だから、最初から、相当のヴァイタリティのある人でもないと、絵に書いた餅、になる。
しかし、こういった未来についての考察を邪魔するものこそ、日本の長期的な、トレンドが示す、内向き傾向、と言えるであろう。
世界がグローバル化しているなら、日本人こそグローバル化しろ、って話でしょう。だれも、日本語しか話せない。日本の、芸能人ニュースしか、見ない。こんなんで、どうやって、お金を稼ぐのか。
企業活動をするには、少しでも、安い労働力が必要なんじゃないのか。日本人は高い給料じゃないとやってくれないのなら、外国人で、それでもいいって言ってくれる人がいるなら、そういう人に来てもらうしかない、なんでそう考えないの。しかし、移民はNG。日本人は、人を雇うなんて、考えたこともないんでしょう。だれかが自分を雇ってくれる(外国人が雇ってくれないなら、自分を雇うのは、日本人なんですけどね)。
日本人の中で、商売をしたところで、国内でお金が回っているだけ。国内全体の富が増えてるわけじゃない。少子化で、お前一人だけになったら、だれに売るんだよ。
しかし、以下の意味で、こういったことを、単純に、日本人、一人一人に押し付けるのは、こくな気もしてくる。
グローバル化は、人々には、一見、企業の多国籍化だけが目につくが、実は、グローバル化は、国家の役割の極大化を生んでいる。外国でビジネスをするには、より、自国家による、相手国への、「圧力」、が必要となる。相手国が、自分の企業に不利な振る舞いを、恣意的にしてこないように、自国の政府に「保護」してもらわなければならないし、相手国との交渉状況の情報を逐次もらわなければ、危険すぎる。
(国家の極小化は、むしろ、地域貨幣が代表するような、地域化、の延長にある。)
ところが、日本の政府は、戦後、一度も自主外交などやったことがないわけでしてね。何も主張しないのが日本のいいところ、って、せめて、ぼったくられたら、お金返せって、それくらいは主張できる外交、ってそれも無理ですか? 戦前だったら、帝国日本陸軍が、外国で、有事が起きて、日本企業や日本人庶民に危険が迫れば、国境なんて、いくらでも越えて「すぐに」かけつけて、くれたね。頼もしかったー(別名、内政干渉)。
...。そうでしたね。日本の自民党は戦後、村山談話以外に、一度も、戦前を反省しなかったわけで、日本人は、アジア内で、今だに、「四面楚歌」でした。
外国、おっかない...。
国内で、ぬくぬく、してたい...。
ようするに、なんだろう。新年そうそう、暗い結論、になりそうなんで、このへんで(終り)。
(そういえば、番組で、どうして、年金改革が、4年後なのかが、消費税をそこまで上げないと決めてるから、と言ってたのは、ちょっと、目からウロコだった)。