軽部謙介『アメリカの金権政治』

日本でなにか、忸怩たる、政治事件が、起きるとすぐに、「アメリカではうんぬん」と、蘊蓄を開陳し始める御仁が多いものだが、さて、つい最近まで、日本の最大の政治課題と言われていた、政治腐敗、つまり、金権政治、については、あまり、両者を比べようとしないようだ。
そりゃ、そーだ。
アメリカ、は、日本に輪をかけて、金権政治だ。アメリカ大統領候補が、いくら、お金を集めたか。恐しくなるような、天文学的数字が、お互い並び、それらのお金が、選挙に「必要」なんだとするなら、その選挙という、「お祭り」には、一体、どれだけの、ご利益(りやく)、があるって話なのか。
政治、にはお金がかかる。
というのは、政治家たちの口癖であり、ジャーナリストたちも、その一言で、思考停止。政治家から、その一言を引出したら、仕事終了の合図。今日の仕事はお開き、帰りに、一杯、どーですか。
だとするなら、「いくらあれば足りるんでしょうか」。ヴァーリトードの、なんでもありで、ガチンコ勝負をしているわけでして、これだけあれば、御の字なんて、そんなのありますか。向こうがあれをやったら、こっちは対抗して、これ、とエスカレートがいつまでも続くのでしょう。
逆にこう言ってみればいい。私たちが政治家を選ぶのに、それほどの、お金の投資を、国民は求めているのでしょうか。幾つかのポイントとその他アピールポイントを提示してくれれば、学校の推薦入試や、企業の面接だって、そんなものじゃないんでしょうか。
そう考えると、公営選挙論、になるのでしょう。そもそも、被選挙権、の平等も、ままならない(今でも、ある程度のお金を用意しないと立候補できない、という意味では、完全普通選挙、になっていないとも言えるんですかね)。
なぜ、一般に、民主主義がそのように考えられないのか。一言で言ってしまえば、多くの人が、今、行われていることが、愚直に「民主主義」なんだと(無意識にであれ)考えないから、なのでしょう。
気を確かにしてください。これは、非常に単純な、民主主義ゲーム、なんですよ。
しかし、人々は、そのように考えない。そんなはずはない。地元の有力者の方々が、簡単に自分の名誉を傷付けられるような、敗北を甘んじるわけがない。むしろ、そんな不名誉な目にあわせたら、「ばちがあたる」ではないか。これは、一見、多くの被選挙民が立候補して、一列に勝負をしているように見えるが、それは、この「祭り」を盛り上げるための、余興の一種であり、どんなにあがこうと、地元有力者が勝つにきまっている。選挙とは、彼らが自分たちの力を、あらためて、地元民に誇示するための、地元有力者(=神)を祭る、一大イベントなのだ。
しかし、なぜ、このように考えてしまうのか。こんな簡単なゲームの「はずがない」と思っているから、であろう。だれだって、そう思わないだろうか。どうして、地元有力者で、高そうなスーツを着て、あんなに胸を張って、大威張りしている、見るからに、やんごとないお方、と、こんなユニクロのジャージみたいな、きったない格好、で毎日ゴロゴテレビばっかり見て、ぐーたら暮らしている自分が、
同じ一票(意見の重み)
なのだ。何度、殴られたって、信じられないだろ、そりゃ。
(しかし、そう考えることもない、とも言える。この前の、朝まで生テレビ、でも言っていたが、たとえば、今の、民主党政権の、公約実行の割合をみると、子供手当、農家保証、こういった国民に直接渡るものには、「全員」への完全実行になっているが、暫定税率の廃止など、そうでないものは、実行の割合が少ない。これは、次の参議院選挙に向けた、選挙対策の面が強い、と言われています。麻生政権のときに、一人一人、にお金をばらまきましたよね。それと同じものと言っていいんじゃないか、と言われています。困った話だ、と思われるかもしれませんが、逆に言えば、選挙こそ政治家のなによりも恐れるものであることを意味している、とも言えます。)
しかし、ここに、「募金」なるものの、なんたるかが加わると、どうなるか。
民主主義とは、選挙、であり、選挙とは、国民一人一人の「平等な」一票によって、政策が決定されることに、その本質がある。そう思っていたら、今、大変に重要なことが判明しました。均一平均、ではなかったんです。「加重」平均、だったんです、募金額による。
一票は、ウエイト付き、でした。
つまり、「当選」の可否については、なるほど、平等な一票だったのだが、その政策の実行のウエイトは、その一票に、募金を、かけ合わせたもので、優先的に、選択されていくんだ、と。
もちろん、これは、「建前」上は、正しくない。
募金というが、あくまで、なんの政治的要求も含んでいないものでなければ、当選前に渡しているところに違いがあるだけの、「わいろ」、つまり、犯罪になってしまう。
私たちが投票するのは、その、公約、への信託だったはずで、政治家は、その公約を、(一切の色を付けずに)愚直に実行してもらわなければ、私たちは、一体、何を選択したのか、ということになるであろう。色を付けたいのなら、あらかじめ、公約そのもの、に反映させておいてもらわなくては、困る。
しかし、みなさん。人にお金をもらって、「好きに使っていいよ」って言われて、信じますかね。なんか裏があるだろー。恩を売ろうとしてるんだろう。
そう思った人は、性格がひねくれている、と、どんなに政治家にどやしつけられても、正しい、と思いますよ。少なくとも、庶民の常識としては。
そうならなぜ、そうなっていないのか。あいかわらず、アメリカや日本での、恐しいまでの、政治家への、募金という形での、お金の移動は、なぜ、いつまでも、続いているのだろう。
掲題の本では、アメリカにおける、さまざまな、金権政治ぶりを、紹介している。
まず、最初に思いつくのは、ロビイスト、じゃないでしょうか。
彼らは、一般には、政治家にアドバイスをしている存在として、登場する。政治家だって、さまざまな業界に詳しいわけではない、どういう法律改正が必要なのか、それらの細かい部分は、私たち現場を知り尽した人間の意見を酌み上げて、始めて、意図した結果を生み出せる、でしょう。間違った法律を通したら、人々の富を破壊して、大変な国の損害になるんですから、ここは、私たちにまかせて下さい。
しかし、ここには、一点、問題があります。
彼らロビイストは、その利益団体に、雇われてるわけですね。
彼らの意見は、専門的で無視できない面があろうと、一面的な可能性が高い。彼らは善意で動いているわけではなく、自利益団体の利益の最大化を目指して行動しているわけですね(企業はどこでもそうであるように)。

ロナルド・レーガン大統領以降、米国の経済政策は規制緩和が主流を占めていた。「小さな政府」を目指し、市場の自主性を尊重し、公的な介入をできるだけ避けるというコンセプトが規制緩和の背骨だ。普通に考えれば、政府や議会の力を利用するロビイストたちには逆風の時代のはずだ。しかし、90年代以降ロビイストの数は倍増し、周辺分野を巻き込み産業化した。なぜ規制緩和経済のもとでロビー活動が拡大してきたのか。
カリフォルニア大学のジョエル・エイベルバッハ教授はこう指摘する。
「逆説的だが議会を含めた政府の存在がより重要になっているということだ。利益配分などの局面でより中核的な役割を果たしている。それに対して人々が政府に影響を与えたいと思うのは驚くに当たらない。あるビジネスでA社がロビー活動を展開したら競争相手であるB社もロビイストを雇う。その結果、利益がもたらされるのを見たら、ロビー活動はより魅力的になる」。
「そもそも規制緩和について神話があ。たとえば航空産業だ。規制が緩和され新しい航空会社が参入してきた。しかし航空産業を統治する規制は厳然と存在し続ける。したがって、ロビー活動は続く」。
要するに、規制緩和で自由化が進んだものの、規制そのものがなくなったわけではないこと。そして規制が、緩和か、強化か、現状維持か、どちらに向くか不透明になればなるほど、ロビイストの活動の余地が広がるということのようだ。そして相手が一万ドルをつぎ込んでロビー活動を展開すればライバル側は二万ドルつぎ込む、というようにどんどん競争はエスカレートしていく。エイベルバッハ教授はこれを「軍拡競争」と名づけている。
ワシントンのロビイスト事情に詳しいジョン・ハーウッドとジェラルド・サイブの著作によると、グローバライゼーションの到来で、企業や業界はより政府の助力を必要とするようになった。そして2000年以降、これと連動するようにロビイストの数も、連邦政府職員の数も増えてきたという。経済社会との接点で政府の果たす役割は拡大を続けているようだ。
またエンロンをはじめとする経済犯罪やテロを防止するための規制も増大しており、米国の経済界から不満が出ている。最近は「企業会計や監査などの厳格化を求めた法律が厳しすぎる」とか「同時多発テロ事件以降、輸出入業務やビザの発給が厳しく規制されビジネスに支障が出ている」などの声が聞こえてくる。
そしてこれら一つひとつの具体的な案件でロビイストへの需要が発生する。

大事なことは、規制緩和とは、規制撤廃ではない、ということです。
規制のうちの、細かい記述を省略することで、新規参入は記述上、可能になる。しかし、規制とは、もともと、なんらかの意味で、必要だったから、存在したはずです。その問題が解消されたわけでもないのに、こと、新規参入のみを理由として、その規制がなくなるということは、前からあった、不安定要因を呼び戻すことになる。
するとどうなるか。逆説的であるが、政府による、恣意的な裁量によるコントロールの可能性が増していることを意味するのではないか。
ルールとは、そのルールの登場人物のすべてを、あまねく、縛ります。当然、政府も、このルールをみたす存在であれば、「原則的には」参入を認めなければなりません。政府の行動をも縛るのです。
ですから、ルールを無くすということは、政府の縛りもなくなる。昔の、わいろなどによって、恣意的に、認可されていた時代に戻る、というふうにも言えるわけです。
もう一度、規制緩和、という現象を整理すれば、つまり、本来、規制緩和とは、それが規制撤廃とならないなら、「正しい」規制項目の整理、と呼ばれるべきものであるはずです。つまり、規制改革、なのです。
つまり、ロビイストの行動の本質的な意味とは、規制が変更される手続きに「関わる」、まさにこの一点であることが分かります。
ですから、本来、考えるべきは、なぜ規制が「長期的に維持されない」のか、ということの意味なのでしょう。
なぜ、規制があるのか。それは、「基本法」というもので、宣言される、その理念を、実現するための、具体的な項目を、どちらかに倒す意味だったはずです。このフレームが厳しすぎるために、新規参入を拒んでいるものがあるとするなら、それは、このフレーム全体に影響する問題と考えていいでしょう。
ロビイストは、政府に圧力をかけて、自社に有利で他社に不利な、行動を政府にさせることによって、競争への勝利を目指す戦略である。もちろん、政府は露骨には、ある企業を優遇することを、政策の内容としません。一見、平等な政策に見えながら、具体的な状況にてらすと、ある特定の企業に有利になっているような、そういう微妙な行動であることが特徴です。
大事なことは、ロビイストによる、特定企業と、政府との、特定の関係の維持が、長期的には、さまざまに、その特定企業に有利に働くだろう、ということです。
政治献金、ロビー活動。さらに、アメリカの金権政治を特徴付ける、もう一つが、イヤマーク、です。イヤマークとは、一種の補助金ですが、その使途の具体的な内容は、どこまでも不透明です。どんぶり勘定のおてもりで、特定の政策に予算が付けられます。
もし、こんなものが許されるなら、普通に考えれば、だれもが、利益誘導、と思うであろう。しかし、各政治家は、さまざまな、屁理屈を駆使して、言い訳に終始します。
政治献金をもらった企業が、どう考えても、有利になってるじゃないか。そうかもしれねーけど、他の(幾つかの)企業も、これで儲かってるだろ。別に政治献金企業に「対して」やったんじゃねーよ。
いずれにしろ、こういったことが、長期的には、問題だ、というのは、アメリカも分かっているんですね。

ブッシュ大統領は07年1月23日の一般教書演説で「イヤマークという慣行に終わりを告げる時がきました。議会は少なくともイヤマークを半減するべきです」と財政の無駄遣いを半分にするよう求めた。

金権政治は深刻さの度合いを増している。それはこの報告で見たとおりだ。しかし、だからこそ市民団体やジャーナリズムの小さな一つひとつの活動が重要な意味をもってくる。たとえば「政府の浪費に反対する市民たち」の理事長、トーマス・シャッツは「政界のイヤマークに対する認識が変わりはじめた」と指摘する。
「政治家もイヤマークに対してより警戒的になっていると思います。総額も頭打ちです。政治献金の事実上の見返りとしてイヤマークをつけるなどという行為は完全に収賄ですが、そういうことがきちんと認識されるようになった印象を受けます」
数年前まで、イヤマークと言われて理解できる有権者は非常に少なかった。いまはこの無駄遣いの実態に社会の関心が高まっている。米国政治の金権体質を変えようという番犬たちの努力が有権者を覚醒させつつあるのは間違いない。

2008年の大統領選挙戦で「特定の利害関係者からの決別」が叫ばれ、大統領就任早々のオバマが一部例外を認めながらも「ロビイスト締め出し」を打ち出したのは、カネとコネの力を借りた政治への働き掛けをどうコントロールするかが現実的な政治課題になっているからにほかならない。

政治献金、ロビー活動、イヤマーク。
今のアメリカの状況は、やはり、行き過ぎなのでしょう。ちょっとお金が政治の周りを飛びかいすぎているんじゃないか。だって、大統領までが、こんなことを言わなければならない、ということなのですから。
ただし、ここで、注意すべきことがあります。
私たちは、こういったものを、「悪の根元」と考えたがります。これらを「浄化」すれば、あらゆる問題は解決されるんだ。
しかし、そういうふうに整理することは、事の真相を見誤ります。
なぜなら、これらは、市民の意見を細かく政治に反映するための手段としての面もあるからです。
たとえば、中国で民主主義手続きが省略されていることは、その政策決定プロセスの迅速化を意味しています。明らかに、今の中国の急速な成長には、その独裁的側面、が強力に反映しているでしょう。
もちろん、わいろ、によって、恣意的に政治が動かされるとするなら、そんな、ウェイト付き民主主義なんて、まさに、
金持ちの寡頭政治
じゃないか、と思うかもしれませんが、逆に言えば、なけなしのお金をはたいても、それが欲しい、という、その人にとっての、価値、なんですね。株式市場は、それで動いていますし、一種の「需要」なのです、この経済をダイナミックに動かしていくドライブなんですね(これだけ、デフレといって、需要不足、といわれてる中で、なにかに欲望をもってる、お金を出してでも欲しいと思っている、なんて、それなりに大切な衝動じゃないですかね)。
もし、どんなことをしても、それを実現したいと思うなら、あらゆる手段を使ってでも、となり、裏の世界の拡大につながったり、深刻な犯罪の横行、となるかもしれない。そう考えるなら、ある程度のバランスで、透明性を維持することで、その関係を、可視化しておくことを優先する、という考えもある。
(もし、それでもあえて、疑問をもつとするなら、本当にその問題に関連するフレームに政府が関与しないといけないのか、なのでしょう。民間での、協定のようなものでもいいのかもしれない。)
どんなに立派な制度にも、抜け穴があるし、その制度があることによる、権力も生まれる(検察の、恣意的な、一罰百戒もその一つでしょう)。
一つだけはっきりしていることは、ルールを作らない、という方法はあるとしても、ルールを作るなら、それは、一つの構造変化を生みだすわけで、その傾向に注意する必要がある、ということなのでしょう。
私の意見は、いつも控えめ(それで不満がないとまでは言いませんが)。最後は、制度の公平性さ、と、各プレーヤーが自らの行動をどう律するか、のバランス、だということですね。各プレーヤーが、みんなが、お互い、相手の立場を思いやって行動してくれている、という信頼があるなら、どんなにルールのない状況で、事故的に悲惨な結果が起きようと、その信頼はなかなか崩れないもの、とも言えるんでしょうしね(経済でも、最後に重要なのは、信用と言いますね)。

ドキュメント アメリカの金権政治 (岩波新書)

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