クライスト『ミヒャエル・コールハースの運命』

自分は、世の中に興味をもっているのだろうか。人間をおもしろいと思っているのだろうか。この世界にワクワクしているのだろうか。そう問われると...、かなり疑問になる、ときがよくある。全然、前向きじゃない。全然、「肉食系」じゃない。
本当に、そういう気持ちが強い。私は毎日なにをやっているのか。日々の中で、その戸惑いから抜け出せた、と思うことは、ほとんどない気までしてくる。
一言で言えば、惰性。まさに、慣性の法則。だれも、止めないから、前に進んでいるだけ。こうやって突き進んできた毎日は、過去において、素朴に思った疑問の延長から、惰性で続けているにすぎず、本当にそのことがクリティカルかで言えば、少なくとも自分にはその実感が著しく欠けている。
まったく、受動的。
本気で、それ、やりたいのか。
うーん。
諦念、としか言いようがない。
しかし、多くの方々にとって、それは、まさに、ザ・文系、であって、真剣勝負の場なのだ。鬼気迫るものを感じる。当然だ。そこで、勝負してるし、そこに、答えがある、と思ってやらないでどうする。
しかし私は、どこまで真剣なんだろう。
うーん。
(大学の頃、少し、数学をやったのも関係しているのか...。どうも、たいていのことは、本当の意味で、ブレイクスルーが必要なまでの問題なのか、の実感が湧いてこない...。コンピューターだって、しょせん、そういう興味からのアプローチから見ていただけの気もする...。)
文学もそうだけど、ザ・哲学、って、ちょっと、ついていけない。とにかく、そういう名前がついてれば、なんでも読まなきゃ、という感じではない。別に、自分は、哲学マニアじゃない。全然がんばろうという気持ちになれない。そういった勉強がしたければ、そういった大学で授業を受ければいいんじゃないか、としか言いようがない。
さらに、ポストモダンという表現にいたっては、なにかを言いたい気持ちすら起きない。
ただ、その中で、一人、となると...。
ドゥルーズ
この人の書籍や論文は、ことごとく、翻訳されているんじゃないだろうか。そして、さらに、かなりが、ここ何年かで、文庫になっている(日本、って国は、そういう意味では、幸せ、ですね)。
私も、全然、まだまだ、この人の著作を読んでいるうちには、入らないレベルですが、正直、他の、ポストモダン、と呼ばれている人たちの著作は、一切、読まずに終わろうと、なんの後悔もないんじゃないか、と(各論は別にして)思わなくもないけど、ドゥルーズ、については、まずその「総体」を、どっぷり、読み込んで、いろいろ考えてみたい、と思わせるものを、ちょっと感じる。
まあ、左翼、なんでしょう。マルクス主義、なのでしょう(そして、精神分析学者のガタリとの共同作業によって、資本主義の精神分析化がなされるんですね)。そして、ストア派的、と言いますか。そんな感じで、やはり、やってることは、特殊、マイナー、なのは確かに読んでても思う(どこかの解説にもあったが、基本は、初期ベルクソン、なのでしょう)。
掲題の著者、クライスト、は、ドイツの、ゲーテやシラーと同世代の小説家ですね。そして、彼は、ドゥルーズガタリ、の『千のプラトー』で、「戦争機械」と定義されたのでした。

クライストは、彼の全作品を通して、戦争機械の賛歌を歌い、たとえそれがすでに負けるに決まった闘争であるとしても、戦争機械を国家装置に対立させている。

コールハースはどうかといえば、彼の戦争機械はもはや盗賊でしかありえない。国家が凱歌を揚げるとき、次のような二者択一に追い込まれるのは戦争機械の運命なのだろうか。つまり、国家装置の規律にしたがった軍事機関にしか過ぎなくなるか、それとも、自分自身に攻撃を向け、孤独な一対の男女の自殺機械になってしまうか、という二者択一である。国家の思想家であるゲーテヘーゲルはクライストの中には怪物が住んでいると考えていたが、クライストは前もって戦いに破れていたのだ。しかし、なぜ、クライストの方にこそ最も奇矯な現代性があるのだろうか? その理由は、彼の作品の構成要素が秘密と速度と情動であるからである。

クライストの全作品を支配するこの外部性という要因は、彼が文学の領域で最初に発明したものであり、時間に新しいリズムを、すなわち緊張または失神、閃光または加速の果てしない継起を与えることになる。緊張とは、「この情動は私には強烈すぎる」という場合であり、閃光とは、「この情動の力が私を運び去る」という場合である。いずれの場合にも、「自我」は、一人の登場人物にすぎないのであり、その身ぶりや感動は脱主体化されている。そのために「自我」は死ぬかもしれないとしても。いかなる主体的内部性も残存させない、死に物狂いの疾走と凝固した緊張の契機、----これがクライト独自の方式である。

現代芸術の多くのものがクライストに由来する。クライストに比べればゲーテヘーゲルは古めかしい人間である。戦争機械が、国家に打ち負かされ、もはや現実には存在していないときになって、国に還元されないみずからの独自性を最高度に証言するということ、勝ち誇る国家のあり方を問い直すような活力あるいは革新力をそなえた、思考機械、恋愛機械、死の機械、創造機械などの諸機械の中に、戦争機械がすでに乗り越えられ、断罪され、国家に所有されてしまっていることと、それが新しい形態に変身して、みずからの還元不可能性を、すなわちみずからの外部性を肯定し、西欧の政治家や思想家がたえず還元し無化しようとする純粋な外部性の環境を繰り広げることは、同じ運動の二つの側面ではなかろうか?

千のプラトー―資本主義と分裂症

千のプラトー―資本主義と分裂症

ドゥルーズを読むとは、ドゥルーズと「一緒に」読む、ということです、例えば、彼によって、こうやって、改めて「発見された」この、クライスト、をですね。)
(まだ読んでいる途中ですが)掲題の短編小説は、たしかに、はるか昔の小説であり、古くさい感じを与えます。しかし、少しずつ、深く入っていくと、むしろこの、不合理な事態に、あえて、どんどん突き進んでいく、その引力(どこか、狂気とまで言ってもいいような)を、だんだんと感じさせられて、なんでこんなになってるんだろう、ってなるんですね。なんで、この著者は、こんなこと書いてるんだろう...。
コールハースは、封建領主の横暴によって、自身の商売道具である、馬を無下に扱われ、その名誉回復のため、あらゆる工作を行うが、ことごとく、取り入れられない。彼の妻までが、とりなしに行って、ひどい怪我を負い、帰らぬ人となる。彼は、とうとう、その封建領主に対し、武装「蜂起」を行う。もちろん、国家権力に個人がいかに立ち向かおうと、無力なのは、いつの時代も、同じである。そんなことは、最初から、分かりきっている(それが、ゲーテであり、ヘーゲルだ)。しかし、なぜ、コールハース(つまり、クライスト)は、その「絶望」まで、突き進んでしまうのか。
たしかに、それは正義である。しかし、そのちょっとした、諍いを忍従すれば、彼自身の、その後の人生は、完全に「平穏」なんですね(それどころか、こんな、ただの「名誉」の問題が、武装蜂起まで至るようなことなのか)。むしろ、この意味での、不合理な選択を、止めることができずに、どこまでも、その道を選択してしまう、その狂熱的な、なにかが、ドゥルーズ自身の、作品スタイルを思わせるんじゃないか、なんてことまで、思ってしまう。そんな感じまでする。
その、あやうさ、が一方で、どこまでも、人を魅き付けずにおかないが、他方でこの、どこまでも、細部に拘泥していく、このスタイルの、特殊さ、マイナーさが、切離せなくなっているとも感じる。
ちなみに、今回、ドゥルーズについて書いてみたいと思ったのは、没後10周年でよく特集をされているのもあるけど、ようするに、前回書いた、リキッド社会においてマネージメントがより困難になることや、それに伴う、各個人がそこで逞しくサーフィンしていくための、テクノロジーの過去との連続性のインフラの必要性など、そういった観点は、むしろ、ドゥルーズが『千のプラトー』で言っていた、「リゾーム」のことなのではないか、こういった視点で考えなければならないのではないか、みたいに、ちょっと思った、というのがある。
とにかく、ドゥルーズの残したアイデアは、上記の引用にあるような、「戦争機械」の側であり、つまり、「ゲーテヘーゲル」とは違う立場にあって、これって、よく考えると、どこまでも、あやうい。学生運動時代の、アルジェリア移民たちの側で考える、みたいな、そういう観点ですよね。だから、なかなか、世間には、浸透しづらい。
しかし、今の社会がその「今」をさらに維持できなくなってきている、現代において、逆に、今まで、無視されながらも、気になる存在であり続けてきた、ドゥルーズのヴィジョンが、さらに存在感を増してくる...。
もしかしたら、あと半世紀くらいの間で、この、ドゥルーズが提示したプラットフォームの方へ、「もうこれしかない」という形で、この社会のシステムが変容していくのかもしれない。
マイナーだからこそ、じわじわ、じわじわ、じわじわ、...。

ミヒャエル・コールハースの運命―或る古記録より (岩波文庫)

ミヒャエル・コールハースの運命―或る古記録より (岩波文庫)