さだやす圭『ああ播磨灘』

朝青龍の引退は、前代未聞の事態であろう。昔、双羽黒という横綱が引退して、プロレスラーになったケースがあったが、それ以上に衝撃的であろう。
なぜ、彼が引退にまで至ることになったのかは知らないし、興味もない。しかし、そういったことを度外視しても、ここ何年かの、朝青龍バッシングは、小沢幹事長バッシングに比較にならないほど、下劣極まりなく、続けられてきた。
横綱としての品格(笑)。
横綱審議委員会だかなんだか、シロート「コメンテーター(笑)」が、横綱には「横綱の資格なし(笑)」だってさ。そういうのは、お宅の豪華な、お茶の間、ででもやってもらえませんかね。
しかし、よく考えてみれば、大相撲は、長年、週刊誌による、八百長キャンペーンを受け、バカにされ続けてきた。国民は横綱をボロクソに言うことこそ、日常のあいさつとなっていた。
「今日もあの、横綱。憎たらしかったわね。あはは!」
さぞ、会話が弾むことでしょうね。しまいには、石原都知事「あんなもん」ですか。
どうも、大相撲というものは、政治という、パワーポリティクスで動いている世界のようだ。気にいらない横綱を引退させると、理事長のポストが回ってくるってことでしょうか。
それにしてもその、横綱談義って、なんだったんでしょうね。昔、大鵬だったかが、荘子の一節だったかをもちだして、相撲道がどうのこうのと言っていたのを思い出して、「それに比べて、うちの朝青龍ときたら...」。あほか。そんなの、人それぞれじゃねーのか。
それが私には分からない。どうも、いつからか、相撲には、明治以降の「徳育」的な、朱子学道徳が、もちこまれているようだ。
横綱とは、江戸時代から、ある種の、日本的な神の似姿として、とらえられてきた面があったのだろう。土俵入りとは、その土地の神々を鎮める意味があると考えられてきた。
しかし、神とはなんであろうか。そりゃあ、怒れる神だっていたであろう。そもそも、日本の神々に、善も悪もない。
一つだけ、はっきりしていることは、間違いなく、朝青龍は、歴代の横綱の中でも、比べるものがないくらいに、強かったし、ああいう型にはまらない強さを示した人は、前代未聞と言っていいと思う。
(「一番強」い横綱が、この日本の土俵から追い出されて、じゃあ、それに代わって、どこのどいつが、この日本の、怒れる神々を鎮められるっていうんでしょうね。どこの馬の骨か知りませんけど、「一番強」くはないみたいですね。そんな二番煎じでお茶を濁すって、まるで、今の日本のていたらくを象徴してませんかね。そんな、相撲にだれが興味をもつんでしょうかね。)
(日本の、よっぱらい慣行は、さまざまに問題提起されていることは確かではある。どう考えても、タバコの害がどうのこうの以前に、街中の、よっぱらいの方が危険なのは確か。公衆の面前で、あそこまで、よっぱらうまで飲むのは、マナー違反なんでしょう。そこまで酔いたかったら、オウチに帰って、かわいい奥さんとでもやってろってことなんでしょうね。)
掲題のマンガについては、今さら言うまでもないであろう。私も読んだのは、かなり昔で、内容は忘れてしまった(連載当時は、若貴ブームの頃のようだが、私が読んだのは、それよりずっと後)。
播磨灘は、「負けたら引退」を宣言する。土俵入りでマスクをかぶり、型破りの、プロレス技を相撲の土俵の上で使う。
しかし、それがどうした。
なんだよ、使う技の制限とか、マスク禁止とか。どっちが、ふざけてるよ。この日本の神々を鎮めるのには、それくらい、必要なんじゃねーの。そもそも、そんなの必要ねーとか、やめろとか、どこのどいつが、どの面下げて言ってんだよ、お前が横綱なわけでもないくせに、なんでそんなことが分かるんだよ。

ああ播磨灘 (1) (講談社漫画文庫)

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