室井秀太郎『不思議な経済大国 中国』

とうとう、中国が、世界一の経済大国になったようだ。
経済規模(GDP)世界第2位、二酸化炭素排出量世界一、などなど。
90年代に国有企業改革の本格化、2001年にWTOに加盟。それから、今まで、あっという間だったのではないか。
ところが、国民一人辺りのGDPは、まだまだ、低いという。
これは、どういうことなのだろう。
もう、立派な先進国の仲間入りをしたのではないのか。
さて、こうやって日本で生活をしていると、なんと言いますか、あまりに異常なんじゃないか、と思われることがあるわけです。
どうして、これだけ、近くの国なのに、韓国や中国や北朝鮮で起きていることが、日本のテレビのニュースには、流れないんでしょうね。
すぐ目の前、じゃないですか。
本当に、日本のマスコミは、情報産業なんでしょうかね。日本企業広告産業と呼んだ方がよくないですかね。
いずれにしろ、中国は、あれだけの大きな、この地域に大きな影響を与える国なんです。もっと、この国が、「なんなのか」に自覚的にならないと、また、戦前のように、無知による暴走になりかねないんじゃないですかね。

「普通の市場経済国」であれば、生産力が需要を大きく超えてしまえば供給過剰となり、製品が売れなくなったり、価格が下落して採算割れすることになる。財務体質の弱い企業であれば、倒産するような事態も起きかねない。ところが中国では事情が違う。
鉄鋼産業を例にとってみよう。08年の粗鋼生産の実績ですでに中国は5億トンと世界の4割弱を占めるが、生産能力は6億トンを超えているとみられる。工業情報化省の見通しによると年間需要は多く見積もっても5億5000万トンで、1割程度の生産能力が過剰になっている。
鉄鋼の場合、全体の能力過剰に加えて、地方に中小メーカーが乱立していることが問題になっている。鉄鋼産業は典型的な装置産業なので、大規模な高炉によって集中的に大量生産すればコストも下がるし、エネルギーの消費も効率的になる。小規模な生産ではコスト高になるうえ、エネルギー効率が低下する。
しかし、中国の場合、コスト面は低賃金労働者を多く使うことによってある程度カバーしてしまうので、エネルギー効率の悪さには目をつぶって小規模メーカーが製品をつくり続けている。資源の浪費に加えて、こうした小規模メーカーは環境を保全しようという意識が乏しいため、環境対策の設備投資をほとんどしていないのが実情である。
資源を浪費し環境を汚染する中小メーカーの乱立を放置できないとして、国家発展改革委員会は06年に老朽化した鉄鋼生産設備を淘汰する方針を決めた。しかし、具体的な淘汰の数値目標を決め、各地方自治体にその地方の目標達成の「契約書」を出させたにもかかわらず、この方針は必ずしも徹底されていないようである。
この背景には、中小メーカーの淘汰は地元の雇用や税収に影響するため、地方自治体がさまざまな理由をつけてこれら中小メーカーを存続させていることがあるようだ。工業情報化省では、セメントや造船でも生産能力が大幅に過剰であると指摘している。こうした業種でも、地方の保護によって競争力の低い企業も生き残っているのであろう。

日本であれば、例えば鉄鋼産業では、付加価値の低い建設用や造船用の鋼材が供給過剰となれば、こうした製品の生産を減らし、自動車用の薄板やメッキ鋼板など付加価値の高い製品の生産に比重を移すことで採算を向上させる。しかし、中国では、こうした高級鋼板はまだ輸入に頼っているのが現状である。
これは鉄鋼に限ったことではない。中国の産業の問題点のひとつは、研究開発費が少ないことであると指摘されている。その研究開発も、応用技術が中心で基礎研究はきわめて少ないのが実情である。だから、中国では外国製品の外観をまねた製品などを簡単につくりだすことができる。

中国の、「生産能力」は無限である。なんてったって、労働力が安い。いっくらでも、市場を無視して、大量に生産できる。売れるかどうか、なんてのも、度外視だ。ひたすら、作りまくって作りまくる。売れるのなんて、そのうちの、雀の涙でもいいのだ。この、ただと、たいして変わらない労働力がある限り、「割には合うんだから」。
これは、日本のスーパーやコンビニで、さんざん、売れなかったのを、残飯として、ゴミと一緒に燃やしてるのと、たいして変わらない。へたに、割引して売るより、その方が、経済的に割に合うんですからね。
しかし、こんなことをしていれば、資源の無駄使いであり、環境にも優しくないだろう。じゃあ、どーするか。政府主導で、強引に、企業を淘汰しちまえばいい。国が、「この企業、ちちゃー。あっちの、おっきーとこがおんなじもん作れるや。潰しちゃえ」。こんな感じである。
しかし、よく考えてみれば、日本の大企業が、競争力のある、研究開発費に多くのお金を注ぎ込み続けてこれたのも、ようするに、国策によって、大企業だからこそ、保護育成優遇されて、守られてきたからなんじゃないですかね。あんまり、他の国のことを言えないでしょう。
まあ、こんな感じで、中国は、いつのまにか、世界一の国になっていた。しかし、国民一人辺りのGDPは、雀の涙。これはなんなのだろう?
答えは、簡単である。中国は、実は、二つの国だった、ということなのである。

私たちが、ある人を中国人と言う場合には、その人が「どちらの国」の人なのかに注意が必要であろう。「私は中国から来ました。」「どっちの中国ですか?」

人民公社時代は、農村に生まれれば、幹部となって出世する以外には、農民として一生を過ごすしかなかった。労働点数によって働いても働かなくても同じ食糧配給がもらえるため、増産意欲は湧かなかったし、余剰労働力も表面化しなかった。
ところが家族による経営請負制が全国の農村に普及すると、状況は一変した。国家に必要な食糧を売り渡し、余った分を市場に売るだけの生産をしても、農村にはまだありあまる労働力が存在していたのである。
生産意欲が解放されると、大量の余剰労働力が表面化した。このうち、電力や道路などの条件の整った農村では、一部の才覚ある農民が「郷鎮企業」と呼ばれる、簡単な製品を生産する小規模な企業を起こし、収入を大きく伸ばした。
しかし、それでも全国の農村には1億人を超す余剰労働力が控えている。折しも、沿海部では外資系企業が進出し始め、工場労働者が必要になってきた。経済特区などでは、インフラ整備のための建設労働者なども必要である。こうしたことから、彼らは南部の沿海都市を中心に出稼ぎに出ていった。
ただ、彼らの出稼ぎは法律の「壁」を超えた行為だったのである。中国では農村戸籍都市戸籍の2つの戸籍があり、農村に生まれたものは、簡単に都市戸籍を取得できない。このため、出稼ぎ農民は暫定的に都市で働く許可をもらえるが、あくまで永住はできないのである。
一方で、人民公社の解体によって農村の社会保障制度は崩壊してしまった。働いても働かなくても一緒という「悪平等」によって人民公社は生産性の向上を妨げてきたが、農民には老後の保障を提供する組織でもあった。その解体によって農民は、老後の生活を自分たちで保障しなければならなくなったのである。そこで、戸籍の壁とあいまって、若い農民が数年、都市で出稼ぎして稼いだ収入を仕送りし、親たちの老後に備えるといった構図が全国に広がっていった。
こうした構図は、外資系企業にとって中国に投資するうえでの魅力となった。若くて賃金水準の低い労働力がいつでも確保できる。そして常に労働力は入れ替わっていくので、ほとんど賃上げしないで済んだのである。実際に、賃金の伸びは90年代までGDPの伸びより低く抑えられている。近年は労働者保護の観点から各地で最低賃金が設定され、毎年見直されるようになってきたが、「安価で豊富な労働力」が税制優遇とともに外資を呼び寄せる基盤だったのである。

(ここで、重要なことは、農村戸籍者の、「出稼ぎ」が、法律違反、だということである。中国という国を考える上で、この点は、なによりも重要であり、後述しますが、今後、この国について、考えていくうえで、このことに関連した問題は、何度でも現れることになるでしょう。)
マルクスが分析した、資本論が、イギリスという当時の、経済大国一国の、「経済システム」であったことは、象徴的であろう。当たり前であるが、一国経済システムほどの、ナンセンスはないだろう。
よくよく、近代経済学の理論をみてみると、そんなものばかりである。イギリスの経済システムを分析して、「世界の経済システムはこーなってますよー」。
もちろん、地球上には、イギリス以外にも、多くの人々が生活している。じゃー、彼らはだれ?
聖書において、アダムの骨からイブが生まれましたー。おい、いつの間にか、この二人以外の人間がうろついてるけど、そいつら、どっから生まれたんだよー。日本神話もそーだ。こうやって、日本はできました、って、おい、日本の神々よ。韓国を通て、日本に来ましたー、って、いつの間に、韓国ができたんだよ。
こんなもんである。
システム(笑)。
どーも、外は、便利なブラックボックス、のよーですね。困ったことがあったら、その外側の、ブラックボックスという調整弁で、ちょちょいのちょい、で、「計算女」顔負けの、得意のケーサンってやつで、
経済システム、むってきー。
はいはい。
このことをよく現す、最近はやりの便利なキーワードが、「セーフティーネット」。まあ、ブラックボックスってことですね。なんでもかんでも、ここにつめこんじゃえばいい。便利な、「誤差」変数。都合の悪い観測結果は、みんな、ここに放り込んじゃえば、「理屈なんて、なんとでもつけてみせるさ」。そりゃ、頭のいい学者さんですから、口は立ちそーですね(これこそ、弁論術)。
そもそも、金持ち階層に属してる、お偉い学者さんたちに、貧乏人の悲惨な生活実態なんて分かるわけないですからね。
彼らにとって、こういう人々のことが分かるって、自分はこんな悲惨な境遇に陥らないですんでる、っていう「幸せ」を噛み締めて、幸福感で一杯になる、そしてその感情は、彼らが、悲惨になればなるほど、改めて、噛み締める「幸せ」ってことですから(いっそのこと、貧乏人を、暴力で痛め付けるって、どーですかね。彼らが苦しめば苦しむほど、幸せ感で一杯になれるってことでしょ、上記の理論って。実際、そーいうビジネスをやりゃーいーんですよ。経済万能主義者こそ、率先して、そーいうビジネスをやってくださいよ。後めたさは、お恵みの、小銭でもばらまいときゃいーんでしょ。これこそ、経済合理性(笑))。どうも、お互いが分かりあえる世界が、訪れることは、天地がひっくり返りでもしないと、起きないよーです。
資本主義は、無敵だ、なんだと、えらそうに言う奴らに限って、たいして特別な知的「貢献」を人類の文化に残しているわけじゃない。言っていることといえば、「貧乏人を、できるだけ苛酷な環境で、こき使って、その貧乏人のなけなしのお金をむしりとって、金持ちは、この世の栄華を誇ろうではないか」と、アイン・ランドのような、享楽主義の吹聴。
ニーチェが、神は死んだ、と言ったことが、よほど、嬉しいようですね。よかったですね、神が死んで。これで、もう、道徳的な負債感に悩まされることはないってんでしょ。死ぬまで、享楽の限りを極められますね。貧乏人を痛めつけて、彼らが、貧困の地べたをはいずり回っている姿は、そんなに、お気にめしますか。
しかし、こういうことを書けば書くほど、トンデモ扱いを受け、危機管理、セキュリティの必要の言い訳に使われることになる。「こーいう危険人物を世の中に野放しにしておいていーのか。俺たち金持ちが枕を高くして寝れないじゃないか」。しかし、問題は、彼らの言うフェアを、貧乏人側が認めていないことにあることに、彼らは気付かない。彼らが必死に、とびつく先は、いわゆる、「学会の権威」「標準的な教科書」。どうも、そこに書いてあれば、水戸黄門の印籠よろしく、貧乏人は、平伏さなきゃいけないと思っているよーだ。なんてったって、人文「科学」ですからね。科学が真実じゃないなどと、宗教家のようなことを言ったら、待ってましたとばかり、ニーチェ主義者のかっこうの餌食となるってわけ(ニーチェニーチェ主義者じゃないと思いますけどね。彼の可能性の中心は、むしろ、病者の光学、でしょう)。
この辺りから、どうも、おかしーんじゃないか、という気がしてくる。もともと、これは、説得の問題ではないんじゃないか。
まあ、当然ですよね。
だから、マルクスは、階級闘争って言ったんじゃなかったでしたっけ。
はっきり言いましょう。
なぜ、金持ちが非道徳的であることができるか。それは、社会が平和になったからでしょう。社会が平和になって、暴力ざたがなくなった。だから、金持ちも、ちょっと、自分の幸福自慢をしても、だれも、恨まなくなったし、貧乏人を蔑むことを言っても、警察などの国家暴力組織がそのバックで、にらみをきかせているから、だれもそいつの蛮行に鉄槌を加えることまではしなくなった。なんのことはない。フーコーの言う監視社会が完成に近づけば近づくほど、世の中は「平和」になる。つまり、どんなに金持ちが非道徳的な発言をしようと、彼らの人権は守られる。
どうせ、彼らの、「つきあいのある人々」って、同じ金持ちですから、お互い、そんな「常識」に不快に思う人もいない、ってわけでしょう。そんな、免疫のない状態だから、たまに、貧乏人の「野蛮な」義侠心にふれると、ヒステリーをおこして、国民総背番号制で、国家が国民を管理してくれないと困る、貧乏人からちゃんと税金を取り立てないからこんなことになるんじゃないか、頼むよ、そうでもしてくれないと、安心して夜も寝れないじゃないか、となる。
...。すんません。話がそれました。
ですから、中国の、都市戸籍、は、もうアメリカや日本や韓国と、なんにも変わらない。なんてったって、世界一だ。
ところが、である。
ひとたび、田舎に入ると、「別世界」である。道路は、まったく、舗装されていない。日本のように、コンビニもない。どこまで行っても、スーパーもない。年収、(なんと)一万円で、生きている人「しかいない」。
よく、そんな低い物価が維持できてますよね。
しかし、逆に言うと、本当に、そんなに簡単に、中国の、農村戸籍、は、産業化していくのだろうか。いくら、中国製品が安いとっても、年収、一万円ですよ。それで、たとえば、洗濯機や、電子レンジ、買いますかね。
実は、それが、中国経済の実態、だという話もある。中国で作られた、安い製品は、みんな、中国人が買って、中国人が使っていると思われている。しかし、ほとんどの中国人は、中国製品を買わない。正確に言えば、中国人で買っているのは、都市戸籍。彼らにしか売れない。中国製品を買って、使っているのは、アメリカ人であり、日本人である(最初から、農村戸籍は、スローライフ、ってことでしょう?)。
いずれにしろ、間違いなく、農村戸籍、の不満は、このまま、続かないだろう。現政権が、さかんに、「平等」政策を進めてきたことは、やはり、地方の不満に、なんらかの形で答えなければ、政権が「もたない」という判断があったからなのだろう。
2001年にWTOに加盟したということは、「普通の経済国」になる、と宣言した、ということである。そんなことが、社会主義国に、果して、可能なのか、そもそも、WTOなどというものが、それほど立派なものなのか、いろいろ観点はあるだろうが、いずれにしろ、「世界一」なんですから。

国有商業銀行の株主に外資系銀行が入ったものの、公的資金を導入した過程で国の管理する公司や財政省そのものが大株主になっている。だから、国有商業銀行はこれまでと同様に国の意向を無視して経営することはできない。それどころか、株式会社化した後も、経営トップの人事交代は事実上、国によっって決められている。
これでは、外資系銀行が株主になった意味は、経営監視という観点からは薄いと言わざるを得ない。実際、株式を上場した後でも、国有商業銀行の融資に関連する不祥事が起きている。
笑い話のようであるが、こんな実話がある。中国に駐在した経験があり、中国の金融事情に詳しい邦銀の幹部のところに、あるとき、中国でも著名な経済紙の記者が取材にきた。
日本の金融事情などについて聞いたあと、「日本では銀行が融資にあたって賄賂をとらないんですか」と真顔で聞いたという。面食らった幹部が絶句したのは言うまでもない。これは、中国では企業に融資する際、担当者が企業から賄賂を受け取るのが当たり前になっていることを示唆する話である。
社債市場がまだ十分に発達しておらず、ベンチャーファンドなどもこれから整備される中国では、政府の後ろ盾のある国有企業ではなく、私営企業やこれから起業する創業者が資金を調達するのは銀行からの融資になってしまう例が多い。しかも国有商業銀行は、担保を差し出しにくい、こうした企業や創業者への貸し出しを嫌がる傾向が強い。勢い、賄賂をとることが当然の風潮になるのであろう。外資系銀行が株主になったからといって、こうしたモラルの低さを一朝一夕に改めるのは難しい。

日本での、冷凍餃子事件にしても、あんなもの、それなりに、政治決着しちゃえば、みんなで、頭下げて、今後二度と、こんなことは起こしません、って平身低頭でいれば、日本の怒りもおさまったんじゃないか、と思うのだが、なぜか、中国政府の対応は、不気味なくらいに、無反応で、今だに、どうしたいのかすら分からない。
とりあえず、分かっていることは、さまざまに、権力者たち、地方の冷凍工場の、有力者たちと、地方の政府関係者の、ずぶずぶの、もたれ合いの関係が、どうも、一枚岩の対応とならなかったのではないか、と思われる。
しかし、日本側から見ると、あれで、中国製品の冷凍食品への、考えられないくらいの、影響があったんじゃないかと思わなくもないし、今だに、うなぎなど、さまざまな産業への不審の蔓延を招いているのではないのか。
しかし、そう考えてみることは、ある意味、かいかぶりすぎなのではないのか、という気もしてくる。中国は、なんにせよ、広すぎる。本当に、中央政府は、地方の末端まで、掌握できているのだろうか。そもそも、そんなことは可能なのであろうか。

統治する人口が大きいから責任も重く、自然と国益よりも自らの自治体の利益を重視するようになる。典型的な例が「地方保護主義」と呼ばれる現象である。WTO加盟によって、全国どこでも同じ条件で競争が行われる統一市場でということが強調されるようになってきたが、それまでは地方の製品を保護する動きが露骨であった。
例えば、上海のタクシーは例外なく地元の上海汽車フォルクスワーゲンの合弁による「サンタナ」であった。もっと顕著な例では、他の自治体との境界の道路に勝手に「検問所」を設け、他の地域で生産された製品が地元に入ってくる場合は「関税」を徴収するような自治体もあった。もちろん非合法だが、広大な中国では中央政府の目の届かないところで公然とこうした行為が続いていた。
改革開放は、広東省の4つの経済特区に試験的に外資を導入することから着手した。外資によって輸出型経済が形成され外貨を蓄積できることがはっきりすると、やがて他の沿海諸都市にも経済技術開発区と呼ばれる外資を導入できる区画が指定されるようになっていった。
この過程で、全国の沿海部には国の承認を得ていない「開発区」が乱立した。1980年代に起きた開発区ブームである。国はあくまでも、その都市の条件を考え、秩序立って外資導入を進めるために、限られた都市にのみ経済技術開発区を指定した。しかし、外資導入による、雇用や外貨獲得のメリットを目の当たりにした地方は、競って開発区づくりに走ったのである。国の承認がなくても、既成事実をつくってしまえば構わないといった発想である。後に、土地の占有や外資誘致競争の過熱など、乱開発の弊害が目立ってくると、国の承認を得ていない開発区は取り締まりの対象になった。
しかし、正式な経済技術開発区などでも、税率など外資導入の条件について国が定めた条件を「ダンピング」して、「うちは他の開発区より有利だから」といって外資を誘致するような例が相次いだ。国はたびたび地方に対して、外資に対する条件を勝手に変えないように通達している。それほど、国の政策よりも地元の利益が優先されるのである。

そんなに、WTOは立派ですかね。韓国の経済危機のときも、話題になりましたけど。そもそも、中国のような、あれだけ巨大な国で、そんな等しなみに、WTOルールを押し付けることは、合理的なんですかね。
中国は広すぎる。各省は、ほとんど、ヨーロッパでいえば、各国くらいの大きさ、がある。彼らは、「当然」面従腹背なのである。そんなの、おかしい、と思う方が、おかしいのかもしれない。中央政府の言うことに、馬鹿の一つ覚えのように、従っていて、自分たちの地域だけ、国民福祉がとり残されたら、どうするのだ。そうなったら、国なんて、関係ない。なぜなら、もう、その、省が国、なのだから。自分たちで決めて、自分たちで、次々発展して、国にやれることなど、事後的に追認することくらいだろう。
いい加減、国家幻想はやめないか。国の言うことなど、いくら聞いていても、お前たちの福祉が守られることはない。もちろん、たんにけむたがる必要もない。適当にあしらっておけばいい。国など、しょせん、都合のいいときに、利用してやる、くらいでいいのだ(まさに、面従腹背だ)。なんでも、勝手にやればいい。どうせ、国の連中に、この地域の細かい事情まで、分かるわけないのだ。国の許しをこうている間に、ビジネスチャンスなどなくなる。それどころか、そんなことをやればやるほど、中央に利権をかっさらわれ続けるだけだった今までを、もう忘れたのか。

不思議な経済大国 中国(日経プレミアシリーズ)

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