吉村仁『強い者は生き残れない』

進化論というのは、ダーウィンが提唱してから、多くの補説を得て、今に至っている。と言いますか、ダーウィンの主張がベースだという言い方の方が正しいのであろう。その後、多くの補説が生まれているのは、より具体的な実情に、細かい説明を与えている、と考えた方が議論としてはバランスがとれている。

  • 生物の個体には形質のばらつき(変異)がある。
  • その形質の違いが生存率や繁殖率に影響を及ぼす。
  • この形質は遺伝する場合がある。

ある特定の形質が世代を超えて他のものより多く生き残るのであれば、それが個体群(個体の集団)の中で次第に増えていゆき、やがては定着すると考えられる。これがダーウィンの進化論のごく簡単な説明だ。ダーウィンの功績のひとつは、それまで取るに足らないものと思われてきた「個体変異」に価値を見いだしたことである。それは自然選択理論にたどりつくための大きな第一歩だったと思われる。
生物の生存率や繁殖率を左右する要因は「環境」であり、ダーウィンの進化論では、より(環境に)適した生物が生き残るとされる。ダーウィンはこのように生物が環境に選ばれることを「自然選択(natural selection)」と呼んだ。

アメリカなどでの教会関係者などによる、進化論を、学校で教えることへの抵抗があることは、よく知られている。教会関係者にとっては、人間が猿から変化してきた、という説明が、NGということ、なのでしょう。聖書にはそのように書いてないのだから、認められるわけがない、と。
しかし、ことこの日本においては、なぜか、明治に進化論が輸入されてから、おおっぴらな反対運動は、ほとんどなかったと言っていいレベルであったことは以前にも書いた。神道関係者も、それほど気にならなかった、ということなのであろうか。
よく分からないが、間違いなく、天皇制の問題が、ここにはからんでいるのだろう(なんてったって、明治からの話ですから)。
もちろん、明治での、西欧文明大量輸入が、そういった区別を麻痺させていたのかもしれない。しかし、大きな理由はむしろ、優生学にあったのではないか。
優生学においては、その関心は、「優秀な」遺伝子を持っている個体と、そうでない個体を分けることを、その科学的命題とされる。このことは、政治の舞台における具体的な政策の問題として、国家が、どういった人々を優遇して、どういった人々を冷遇するか、つまり、貴族や奴隷を、どのような原則によって、配分することが、この国家の「国益」にかなうか、を調整する一次情報となる。
もちろん、現代においては、優生学を科学だと主張することは、(かなりチャレンジングではあるが)可能だとしても、これを理由に、国民を差別することは、一般には、正当化されない。なぜなら、たとえ、各個人に遺伝子レベルの差異があったとしても、それによって、各個人に人権レベルの差別を行うことは、国民主権の立場から認められないからだ。
ところが、例外が、憲法において、認められている。もちろん、天皇家である。憲法の体系をみるかぎり、それは一般的な意味での、立憲君主制を採用している、といえるであろう(憲法上、それは、統合の象徴(シンボル)と呼ばれている)。
アラン・ブルームの『アメリカンマインドの終焉』という本を、シェルドン・S・ウォリンの『アメリ憲法の呪縛』の第二章だったかで、かなりボロクソに言っていて、少しびっくりしたのだが、アメリカなども含めて、世界中、平和が続けば続くほど、そういったエリート意識というのは、貧富の格差の拡大とも、あいまって、尖鋭化していくのだろう。
最近の日本ではさらに、「いい学校」神話、がエスカレートしているというし、ということはようするに、子供の階級化ですね、子供はさらに、学校によって、優生学化されてきている、と言えるのかもしれない。
アラン・ブルームのような、ああいったエリート主義者や、日本でいえば、天皇主義者のような人たちにとっては、優生学というのは、なによりも、彼らの寄って来たる、理論の拠り所だと思うんですね。
日本の天皇制は、国歌にもあるように、問題は「千代に八千代に」であることが重要なのである。天皇の一子相伝が、永遠に続くこと「だけ」が、国体である。それだけが日本の目的である。だとするなら、どういうことになるだろうか。自らの血筋が、天皇家と親縁関係になれれば、おめでたい限りであろう。なんにせよ、天皇家は、古事記では、アマテラスという「神」につらなる、家系なのだ。
そういう意味では、明治というのは、天皇制の時代だった。ダーウィンの理論を使うことによって、天皇制の理論化、つまり、正当化に、初めて科学的に成功したと考えたのであろう。
天皇制が、進化論や優生学によって正当化されるということは、国民が優生学的な存在になることを意味するだろう。日本は一見、キリスト教的博愛主義のように見えるが、実際は、自分の血筋とか家柄とかを、重視する。結婚相手が、自分の家系にとってふさわしい相手であるか。友達だとか幸福だとか言ってみたところで、それは「自分の家柄にふさわしい友達」であり、「自分の家柄なら当然享受できるレベルの幸福」である。明治の国民は確かに、「進化論主義者」であったようだ。
独裁者とは、自分の「敵」、つまり、自分の感情を逆なでする人たちの、絶対許さないリストを作り、自分の「お友達」を優遇つまり貴族として、それ以外の全部のクズを奴隷としたい、そういう欲望をもつ存在と定義できるであろう。研究者がもしも、自分の研究成果を、ある独裁者に売り込もうとするなら、どうして、その独裁者の手足を縛るような理論を構築するであろうか。勢い、彼らの理論は、「自分たち」成功者がなぜ、成功できたのかを、優生学的に示そうとするものとなるであろう。どういった政治理論なら、独裁者は買うであろう。そういう意味では、日本の研究者は、全員、天皇主義者とさえ、極論してもいい(なに言ってんでしょうね)。
日本の教育現場は、競争が大好きだ。なにがなんでも、生徒を競争させる。生徒の答案用紙に、なんとしても、点数をつけて、差別順序化して、なんとかして、差別的待遇がやりたくてしょうがないようだ。
しかし、こういったことに意味があるためには、一つの仮説が認められなければならない。つまり、生物は、「個人の利益のために生きている」ということである。
種の中のさまざまな個体が、自分たち種「全体」という、集団「のために」生きている、と考えることには、最近はあまりはやらないようだ。少なくとも、他の生物が、「自分の種全体」というような、概念を理解できるとは思えないであろう。
しかし、次のレベルなら、いろいろ想定することは、思考実験としても、おもしろいだろう。

ところが、ここで忘れてはならないのが、そうは言っても集団選択は一律に間違いというわけではないことだ。「種のために」という集団選択は間違いであるが、たとえば「村落のような集団のために」という意味では成り立つのである。なぜなら、村落が存続しなければ、村民も生き残れない。本書では、このような選択を「集団選択」との混同を避けるために、「集団レベル選択」と呼ぶことにしよう。

群で生活する、ある種の、その集団内で、それなりの、「ナショナリズム」が存在しえないとも言えないものだろう。ある村に住んでいる人々が、どうして、その村が滅びるかもしれない、という事態になって、それでも、「自分だけ生き残ればいいんだ」などと呑気にすましていられるか。
あるエスキモーの部族では、生まれた子供を別の家族の子供と、とりかえる、という慣習があるそうである。問題は、その行動が、どういった意味において、進化論的に正当化されるかであろう。

また、別の見方をすれば、エスキモーの協同行動は「集団レベル選択」といえる。集団選択・個体選択の説明で、集団レベル選択が非常に起こりにくいのは、個体が集団のために支払うコストに比べて、個体の利益があまりにも低いからだと述べた。裏返せば、費用対効果が十分に高い場合は集団レベル選択が起こりうる。

エスキモーの過す北極は、あまりに、環境が厳しい。もし、とりかえた子供を虐待するなら、相手の親も、報復として、自分側のとりかえた子供を虐待するだろう。つまり、逆に言えば、そうなりたくなかったら、徹底して、友好戦略をとるしかない、ことを意味する。しかし、いずれにしろ、そういう選択がされた理由こそ、この、あまりにも厳しすぎる環境にあったということなのだろう。
著者は、以下の、ちょっとおもしろい話をしている。

だが、過去の社会において、村落が血縁で構成されていたり、エスキモーのように運命共同体であったなら、そのときには、「溺れる子供を助ける」行動は適応的であったと推測できる。そして、そのような行動が進化的に定着していたとすると、今でも、そうした行動がとられてもおかしくない。つまり、現在の条件では最適ではない過去に最適であったので、人々は子供を助けに川にとびこんでいるのかもしれない。人間をはじめ、生物は、自分の身を振り返れば分かるように、すぐには変われない一面もあるのだ。

私たちは、頭のいい人であればあるほど、利己的に振舞わないことの「非合理性」を嘲笑する。経済学においては、そもそも、非合理的な人間は、彼らの仲良し経済人の中に居場所を与えられていない。人間以下のゴミくず、なのだ。人間は、合理的であることで、初めて、経済アクターの仲間入りをさせてもらえる。
しかし、私たちはつい最近まで、小さな村共同体の外に出ることもなく、何度も、その村内で、近親相姦を繰り返していた、と言える。それは、石器時代から、江戸時代くらいまで、まったく変わっていなかったのだ。当然、その村の人々は、みんな「遺伝子的に」自分に近く、かなりのパーセントで、自分そのもの、である。勢い、たとえ自分からの血筋が滅びようと、彼らが生き延びることは、自分の遺伝子のかなりの部分を次に残すことには成功していることになっている、と言えなくもない。
もちろん、私たちの多くは、そういった村を離れ、成人になれば、都会に出てくる。つまり、自分の回りの人たちは、もう、上記の意味での、遺伝的親戚関係にはない。であるなら、彼らのために、命を投げ捨てることは、合理的でないだろう、と、さかしらな合理主義者は、鬼の首でもとったように、のたまう。
私たちは、こうやって、村を出て、都会で、一人、出稼ぎを行っているのだが、自分の回りの、本来なら、村の人たちとは違う、あかの他人など、どうでもいい存在のはずなのに、なぜか助けずにはいられない。それは、言わば、はるか昔から、自分たちを強いて、すり込まれてきた、感情なのだろう。
私たちは、理由はなんであれ、困っている人を助けないでいると、はるか昔からすりこまれてきた、村人作法によって、不快な感情に襲われざるをえない、というのだ。だとするなら、むしろ、困っている人を助けるという戦術こそ、民主主義的な根拠があるとは考えないだろうか。政治システムとして、民主主義を選ぶとは、そういうことを本来意味しているのだろう(大衆はバカでマヌケでどうしようもないなら、勝手に民主主義をやめればいい。それを、えらそうに、「合理的」だなどと、説教を始めるから、話がややこしくなるのである)。
そもそも、私は、優生学的な議論を真面目につき合わない。私は、そういった「一般理論」が、ちょっとした初期条件によって、いくらでも影響を受け入れられる、その程度のものだと考えるからである。

まったく同じ作りで、まったく同じプログラムをされているので、理屈上では同じ行動をするはずなのに、なぜこうまで異なる行動をするのか? 確かに、配線の微細な位置や構造や出来は違う。また、同じ時間で起動できないので、初めの起動位置や時間は少なくとも異なる。ほんの1ミリずれてしまえば、同じとはいえない。そうすると、とたんにその違いが増幅されてしまうのかもしれない。最近有名になったカオス理論では、初期値のわずかな違いがまったく異なるダイナミクス(動態)になることが分かった。このカメのケスはまさにそのような初期値依存なのかもしれない。

世の中は、すべて、こんなものである。なにもかもが、紙一重だし、自分のエリート自慢をすることほど、うぬぼれたバカになることほどみっともない話はないだろう。幸せなど、自分の感情をコントロールすることに成功していることと同値くらいに考えていた方が、健康的であろう。
結局、進化論は、なぜ私たちが生きているのか、そういった問題に、どうしてもからんできてしまうのだろう。妙に、実存的な話になる。なぜ、自分はそんな生き方をしているのか。みんなその、正当化の、裏付けをどこかに求めてしまうということなのだろう。
優等生は、どこかで、勉強のできない人たちに対して、優越感をもちたいと思っているのだろう。しかし、勉強ができるできないなど、まったくたいした問題でないことは明らか。それなのに、どうして、優等生はそこにこそ、一切の「その人の価値」の分岐点があるかのように言うのか。
アニメ「けいおん」の第3話において、今まで、まったく、音楽の素養のなかった、唯(ゆい)は、同じ軽音部の人たちに、ギターの弾き方を、いちから(楽譜の読み方から)、教えてもらう。ところが、中間テストは、目の前である。部屋でギターを弾くのに夢中になり、だらだらと過し、一切勉強をしなかった彼女は、クラスで唯一の追試となる。追試に受からなかったら、部活禁止と聞き、また、軽音部は、部員不足で廃部の危機に直面することになる。追試に向けて、部屋で勉強をしようとするが(「やるぞー」)、部屋の掃除を始めたり(「なんでこう、ちらかってるかな」)、そして、目の前のギターに手が伸びて、ごろごろしてしまう。結局、追試の前日になって、澪(みお)に、勉強を教えてくれ、と泣きつくことになる。意志が弱いなー、と思うかもしれないが、彼女にとってみれば、今は、ギターが楽しくて、それがやりたいってことでしょう。だったら、そんな勉強、ギターの方がある程度めどがついた後に、始めてもいいんじゃないかとも思うんだけど、学校制度というのは、そういうふうにできていない。一度でも、落ちこぼれたら、なかなかはい上がれない仕組みになっている。それはむしろ、学校にとっての、敗北を意味しないだろうか。しかし、なぜそうなっているのだろう。ようするに、あるポイントにおいては、自分がどんなに、今それをやりたい気持ちが起きなくても、「自分を殺してでも」やらなければいけないポイントが存在している、ことを意味している。もちろん、そういう「がまん」に適応的な人は、なんなくこなすだろう。私たちは、学校とは、学問を学ぶ場所だと思っているが、本当はそうではないのかもしれない。むしろ、そういう「がまん」の得意な人を選別する、ことの方にこそ、学校システムは存在しているのではないか。実際、なんの意味もないような単純作業を、なんの文句も言わずに、黙々とこなす、官僚たちは、こういった学習システムによって、選別されて行くのだろう。
あらゆることは、トレードオフである。ある分野での、「がまん」が得意な子は、それによって、もしかしたら、なにかを失っているのかもしれない。優秀という言葉は、ある意味、喜劇である。それは、「過剰な適応」を意味しているにすぎない。もってくる場所によっては、たんに、融通の効かない、使えない奴になり下がる可能性がある。
それを、種の問題として考えるなら、どういうことなるだろうか。
ライチョウという鳥は、冬になると、白い羽になるものと、黒褐色の羽になる、二種類があるのだそうである。もちろん、白い羽ということは、その年、雪が多ければ、雪の上で目立たず、敵から身を守れそうである。逆に、雪が少なければ、逆が言えるだろう。問題は、どちらが適応的に自然選択されていくのだろう、と考えることであろう。

したがって、生き残るライチョウはもうひとつの道をとったと思われる。それは、真っ白い冬羽になる個体と、黒褐色の冬羽になる個体の両方の形態をとるのだ。暖冬か厳冬かは、都市によって異なる。厳冬・暖冬の比率に合わせれば適応度は最も高くなる。ライチョウの冬羽の比率はまだ検証されていないが、2種類の冬羽のライチョウがいるのは事実であり、その比率は暖冬と厳冬の長期的な割合に近いと考えられている。

世の中において、むしろ、こういった事態の方こそ、普通なのではないだろうか。早い話、ライチョウのその二種類は、割合の違いはあれ、お互い、それなりの割合で存在することの方こそ「適応的」なのだ。どっちが正しい、ではない。雌雄は決しない。それぞれが、その種という単位で見るなら、「必要なのだ」。
しかし、もう一つ重要なことがある。ゲーム理論において、ナッシュ均衡という言葉をよく使うが、あまりこういったものを、愚直に受け取る経済学のような理論は、危険であろう。なぜなら、「環境はいつか変わる」から、である。
大事なことは、簡単に、なにかを選別することは、その集団の多様性を失い、逆に、「環境の変化」に、融通の効かない集団にしてしまう危険がある。

近代の集団遺伝学(遺伝子の変化を調べる学問)では、進化とは「遺伝子頻度の変化」と定義しており、ほとんどの研究は「環境は一定」と仮定して遺伝子頻度(個体群の中で遺伝子の占める割合)がどのように変化するかを研究してきた。そして、このような一定環境での自然選択を「安定化選択」と呼んだ。安定化選択の多くは、一旦最適な形質に行き着くと、機能の壊れた遺伝子の排除に働く。
生物の存続を考えると安定化選択は重要なことであるが、安定化選択と対比して、単なる環境への選択を方向性選択と呼ぶ。方向性選択は、以下のように考えることができる。環境Aにいた個体群を環境Bに移すと、そこに従来と異なる選択がかかる。そのとき、今まで選ばれてきた形質とは異なる形質が有利となり、その方向へ進化する。だから、方向性選択は最後には、環境Bに適応して、安定化選択に変わると考えられている。

方向性選択の、最も、ドラスティックな事態こそ、以下であろう。

両生類が誕生したのは、川や海の浅瀬に棲んでいた生物が、水が干上がるという環境の変化にともなって否応なく適応した結果である。サケやアユの仲間などは、内海が淡水化するなど、まず淡水適応をさせられてから川に上るようになった。ガラパゴスのウミイグアナは、島が水没して逃げ場がなくなったためにやむを得ず海に適応した。すべて環境の変化が原動力であって、やっと生き残ったあとに、連鎖反応が起こって新しい環境に適応して生物は進化するのだ。

かたっぱしから、ほとんどのプレーヤーが負け続ける。今までの戦略が通じなくなる。あちこちに、死屍累々の山ができ、人類滅亡の黄昏の風が吹く中、なぜか今まで、「どじっ子」として、みんなにバカにされていたような、ちょっと変な子が、逆に、大活躍をし一世を風靡する(アフリカで、ある流行病がはやって、もしかしたら、そのまま、村全部が滅びるかと思われたら、なぜか一部の人だけ生き残った、そういった事態ですね)。
多くの人にとって、そういった、環境の変化というのは、なかなかイメージできない部分がある。なぜなら、だれもが、その時その時を「適応」しようと、努力してるのだから。
しかし、こういった認識の普及は、戦後において、さらに、優生学を社会制度の基本的思想として考えようという振舞を、自重的にさせているのでは、と思われる。簡単に、この社会にとって、なにがいいのか、などということは言えない。社会は、最初から、アナーキーで「なければならない」。

新潮選書 強い者は生き残れない 環境から考える新しい進化論

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