「マジすか学園」

テレビ業界で、長く、ヒットメーカーとして活躍してきた、秋元康が、こんなドラマを原作している。
馬路須加女学園に、転校してきた女子高生、前田敦子は、一緒の日に転校してきた、鬼塚だるまが、クラスの連中に、からまれていたところを、相手を一瞬で「のし」て倒し助ける。そのことで、彼女は、だるまから「舎弟」と慕われることになる。
第6話において、だるま、は、中学のとき、自分が属していたヤンキーのチームのリーダーだった、シブヤににらまれて、思わず、前田に目で助けを求めたことを恥じる。
だるまは、子供の頃、兄たちと同じように、勉強で優等生になろうとしたが挫折する。その後ヤンキーとなり、今度こそ、このヤンキーの世界で一番になろうとして、シブヤのチームに入ったが、そこでも、使いっぱしりで、ばかにされ続けた。
彼女は弱い。しかし、彼女はそんな、過去の、いつも負け続け、ばかにされ続けた自分を、終わらせるために、シブヤに果たし状を突き付ける。
しかし、相変わらず、彼女は弱い。シブヤにぼこぼこにされる。しかし彼女は、彼女の唯一の得意技の頭突きを、何度かわされ続けて、返り打ちにされ続けても、放とうと立ち上がる。
シブヤたちは、そんな彼女の、「マジ」な、うぶさが、おかしくてたまらない。今どき、まじだって。恥かしくないのかよ。なに熱くなってんだよ。お前みたいなクズが、しつこいんだよ。
そんな中、前田が、シブヤたちのチームに一人で、のりこんでくる。
ぼこぼこにされて、ぶっ倒れている、だるまを連れ去ろうとすると、シブヤは、彼女にタイマンをはるよう求める。お互い、にらみ合う中、前田は、いつも、だるまが行う、深呼吸をするパフォーマンスを見せた後、だるまの得意技の、頭突き一発で、シブヤを倒し、だるまをかついで、この場を、去る。
前田は、だるまに「私はお前のように強くない」とだけ言って、彼女と別れるが、だるまは、ただ、前田への敬意を込めた、言葉使いを使うことだけはやめることはなかった。
ジグムント・バウマンは、この現代という、リキッド社会においては、「なにかのために命を投げ出してもいい」と思う人たちがいなくなったことと、このリキッド社会を、ほとんど同値の意味で使う。

何かの「ために死ぬ」気のある人、説得され懇願されれば、そうしてもいいと思う人が、最近見受けられないというだけではない。世界のわれわれの側は(「われわれ」が何を指すのかは微妙だけれども)、世界のあちら側では、どうして「大義」のために自分の命を犠牲にする人がいるのか----自分が犠牲になることで、その「大義」は生き延び、うまくいけば勝利するというのであれば、あの人たちは死を選択する。なぜなのか?----理解しにくい、というかたぶん理解できない(このことが、世界のあちら側のことを、どうにも理解できない「他者」とこちら側のわれわれがみなす理由の一つである)。「自爆攻撃」を耳にすると、われわれは、「宗教的狂信」「洗脳」と判断して、その背後に自分の当惑や落ち着きのなさを隠そうとする。こういう言葉は、謎を説明しているというよりは、自分には理解できないということをむしろ示している。あるいは、自分が理解しやすい動機に押しつけることによって落ち着きを(少なくとも、しばらくの間)取り戻そうとしている。曰く、彼(彼女)らは世間知らずなので、偽りと性の悦びが永遠に待っているので、自分の個人的な利益と幸せのためにあんなことをするのだ。つまり、われわれが持たされてきた動機、われわれが日々俗世で熱心に追求している動機とちょうど同じようなものだと考えてみるのである。

リキッド・ライフ―現代における生の諸相

リキッド・ライフ―現代における生の諸相

これが、あの、つい最近まで、「騎士道」精神を、最も尊い人間の尊厳と吹聴してきた、欧米社会の、なれの果てである。
しかし、こういった問題については、私も昔、このブログに書いたことがある。あの、江戸時代においてさえ、すでに、荻生徂徠は、丁稚奉公が、非合理的で「めんどうくさい」ものであり、気に入らなかったら、いくらでも変えればいいんだ、とすでにこの頃から主張していたわけである。
そして、その荻生徂徠を日本の近代の出発点として、考え始めたのが、丸山眞男であった。大澤真幸は、その丸山の理論体系の中で、ある本流から外れた議論

に注目した、論文を書いている。

論文集『忠誠と反逆』の文庫版「解説」で川崎修が述べているように、「忠誠と反逆」は、まぎれもなく傑作だが、しかし丸山眞男の学問的な業績の地図の中で、位置づけをもたない作品である。それは、「啓蒙主義者」「戦後啓蒙の旗手」等といった、広く流布している丸山眞男像の中に収めることができない、丸山のもう一つの側面を見せている。川崎は、この論文の特異性として、(近代主義者丸山という通説に反して)保守主義に立脚していること、(近代的市民でなく)「荒ぶる」魂としての武士の精神に好意的な眼差しを向けていること、近代への思想的な問い直しを孕んでいること、これら三点を挙げている。
この論文で丸山が主張しているのは、徳川時代の武士が、自らが仕える主君の誤ちに対して行った「諫争」である。丸山は、次のように論ずる。一方で、武士たちは、御恩を受けてきた主君に対する個人的な忠誠心に基づいて戦ってきた中世武士に由来する、個人的戦闘者としての気概をもっている。他方で、彼らは、太平の徳川時代の家産官僚でもあり、職分の分限の内に留まり、安寧を願う態度ももっている。武士たちの忠誠には、この二つの相克がある、と丸山は述べる。

さて、丸山によれば、このような二重の忠誠心を有するがゆえに、武士たちは、主君が過ちを犯した際に、それを見てみぬふりをする卑屈さにも陥らなければ、逆に、主君を見捨てて、主従関係を断つような冷淡な振る舞いにでることもない。このとき、武士たちは、日常の分限を逸脱して、決死の覚悟で主君を諫める行為に、つまり諫争の挙に出るのである。
ここには、まさに可謬的な主権者を有するということが、どのようなことであるかが描かれている。重要なことは、諫言が行われるためには、武士たちに強い「内面的な被縛感」が----つまり主君への強い愛着が----なければならない、ということである。反逆が、忠誠心の弱さの結果として生じているのではない。まったく逆である。忠誠は、反逆を通じて、反逆において、真に完成するのだ。

大澤真幸「近代の彼方」

思想 2006年 08月号 [雑誌]

思想 2006年 08月号 [雑誌]

柄谷さんも、最近の世界共和国論において、第一象限(マルセル・モースが言う部族社会の互酬(つまり、贈与・返礼)社会)が第四象限(アソシエーション)と、ある次元において、直結する契機について、論じていることを、私もこのブログで以前、指摘した記憶がある。
原始的な忠誠の感情は、現代において、なにかの冗談としか考えられなくなり、掲題のドラマでも、「マジ」とは、そういった、ある種の、真面目さが、嘲笑の対象としてしか語られなくなったことを示唆している。
しかし、他方で、こういった物語が、日本のアニメなどで、あい変わらず、多く消費される現象が続いていることも確かである。あいかわらず、三国志は人気があり、若者は、現在のこの不況の、先の見えない時代にこそ、なんらかの頼れる心の支えを欲しているようでもある。
しかし、この人類社会を構成する、最小の共同体である、「家族」つまり、男女の愛でさえ、こういった、ある種、非常に原初的な感情(互酬、であり、贈与と返礼の感情)にこそ基礎付けられていることに、多くの人たちが気付いていないわけがない(少なくとも、こういったものが、たんなる性欲的な関係などではないはずのことぐらいは分かっているはずなのだが...)。