伊東光晴「経済政策に普遍の目を」

時事問題というのは、まるで、劇場のように、祭りが始まり、盛り上がったかと思ったら、いつのまにか、忘れ去られて、だれも思い出さなくなる。
しかし、こと、政治に関わることは、そういうわけにはいかない。もちろん、それで、一山当ててやろうと思っている人には、その方がありがたい限りかもしれないが、政治は永遠の微調整運動である。間違ったら、次は、間違えないように、修正を、終りなく続けていく。めんどくせえから、もうやめた、とはいかない。
結局、ある問題をそのままにするなら、その陥穽を突いて、何度でも、その問題を繰り返すことになる。だったら、どうするのか、どうであるべきだったのか、今後は、どのような形でこの問題の再現を回避する仕組みを構成するのか。退屈だが、いつまでも、終わらない毎日。これが、政治である。
掲題の著者は、有名な方ですね。前はよく、本を読んでましたが、忘れてしまいました。
さて、事業仕分けでの、スパコン騒動は、まさに、喜劇そのものであった。

富士通がねらうのは「廉価版スパコン」と自らがいう、パソコンを並べ連結し、それにスーパーコンピューターのノウハウをとり入れた中堅企業向けのものであり、文科省の予算で理研と協同で一秒間に一京回の計算専用機を開発するのだという(『日経』09年12月23日)。この記事によると、「最先端のスパコン専用機に比べれば、価格も演算能力も数百分の一の水準にとどまる」。世界一にはほど遠いものなのである。

電電公社は同時に大型コンピューターの需要者であった。なぜなら大型コンピューターは電話事業を支える電子交換機でもあったからである。

この分野でアメリカの強敵は日本であり、国家戦略として、電電公社が俎上にのぼっていたというのは当然だろう。電電公社の経済力を弱めることができるならば、研究開発費は削減され、技術開発産業である通信、コンピュータ分野は弱まらざるを得ない。そのために利用されたのが、通信分野に新規企業を参入させ、価格競争にまきこみ、超過利潤を抑える電電公社の民営化である。
たしかに新電電公社の参入は、遠近の電話料金をコスト差に近づけ、利用者に利益をもたらした。だがNTTの技術開発予算は抑えられ、かつての力を失った。それがこの分野で新規参入者というべき、理研の参入であることを、今日の仕分けは明らかにした。この分野での研究開発の歴史のない理研にできるのか。これが部外者の疑念である。新規参入の新電電には技術開発の力はなく、その予算もほとんどないことに注意する必要がある。専門家が入っていた事業仕分けが、「計上見送り、限りなくゼロに近い削減」という事実上の中止としたのもうなずけるのである。

「どうして一番じゃなきゃだめなんですか」。あのね、今回の事業仕分けの対象は、どう考えても、「一番を目指したものじゃなかったんでしょ」。
「歴史という法廷に立つ覚悟があるのか」。そう言ってるあんた、利害当事者じゃねーの、理研の理事長さん? そもそも、その理研って何様? どこの馬の骨? 世界一スパコンを作れる実力なんてあるの?
ようするに、スパコンって、交換機の時代のものなんでしょう? その頃は、需要があったんでしょう。でも今みんなケータイですしね。また、NGNなんて話もありますね。これからの、クラウドでどれくらい需要があるのか知りませんけど、まあ、普通に考えて、あんまりなさそうでしょう。パソコンを並列で動かしゃいーんじゃないんですかね。
さて、次の話ですが、現代日本の最大の問題は、この派遣問題じゃないだろうか。

戦後の労働政策の憲法といわれたものは、「何人も、有料の職業紹介事業を行ってはならない」とする職業安定法(1947年11月30日)32条である。もちろん例外は認められていた。「但し、美術・音楽・演芸・その他の特別の技術を必要とする職業に従事する者の職業を斡旋することを目的とする職業紹介事業について、労働大臣の許可を得て行う場合は、この限りでない」。
なぜこのような法が作られたかは、戦前の炭鉱労働者への暴力的斡旋業者の紹介の存在、女工哀史をつくりだしたもの、あるいは港湾での日雇い労働者の人集め組織等への反省からである。最後のものについていうと、舟から陸につけた一枚の板の上を荷を担いで運ぶ日雇い人夫は、朝早く港の近くの橋のふもとに集り、人集め業者が、何人といってこれをつれて行くというものであった。こうした日雇い労働者は「立ちんぼ」と呼ばれ、神戸のその人集め業者が、戦後日本最大の暴力団山口組を形成していくのである。こうした業者はもちろん中間搾取(ピンハネ)を行い、労働者が不利な状態を強いられていた。こうした状況を再現してはならないとしてつくられたのが上記の規定である。
その結果、戦後の職業の斡旋は、長く公共職業紹介所と学校の二つであった。

私が不思議でならないのは、派遣業を認めようという論者は、必ず、それは新しい時代の働き方に即応しているという考えを出して来ることである。「働きたい時に働く、ことを選ぶ人たちが多く、派遣という形態は働き方の多様化を支えている。この働き方そのものを否定すべきではない」(『日経』09年12月18日社説)、そして労働法の専門家は、これに加えて、EU派遣法をひき、正規(常用)職員と非正規職員の均等な待遇の実現が重要であり、日本のように業務に限定して認めるとか認めないとかは、ないと。
こうした論者は何を考えているのであろうか。日本での派遣社員は、望んで派遣労働者になっているのではない。「働きたい時に働く」などという自由はなく、そのほとんどが正規職員の三分の一の給与で、やむなく働いているのである。多様な労働形態など望むべくもない。
問題は多様な労働形態を生かすかどうかではない。私が知る例をあげると、事務能力が問題になる職場で企業から派遣業者に支払われている時給が2600円であり、本人に渡されるのは1600円である。パート的な職種ではほとんど東京都できめられた最低賃金に近いものが本人に渡るだけである。そして派遣業の経営者のなかに所得一億円以上がかなりあることは知られている。問題は派遣にたよらざるをえない経済的弱者につけいってピンハネを許す制度を許してはならないという、戦後労働政策の基本の普遍性を想起すべきなのである。多様な労働形態の推進は、公的職業紹介所や市や町が無償で行うべきなのである。

多くの、お金持ちボンボンが分かっていないのは、派遣の問題とは、「ピンハネ」の問題だということ、なんですね。ピンハネが、あまりに過激になるから、逆に「奴隷制」に近くなっていくってことなんじゃないでしょうか。
派遣会社は、各企業がもっている労働力の需要の、まず、「囲い込み」を行います。ここで大事なことは、こうやって「囲い込み」に成功する、派遣会社は、数がほとんどなく、その数社で、ほとんどの需要を扱うようになることです。すると、はっきりすることは、派遣会社と労働力を探してもらう企業との間には、たしかに、経済原理が働くのですが、労働力を提供する派遣労働者と、派遣会社の間に、経済原理が働きづらいんですね。だって、まず、派遣会社の「独占状態」が成立してしまった後ですから、価格競争にならないでしょう。完全な独占禁止法が禁止する、独占状態になり、暗黙の「カルテル」になるんですね。
大事なことは、ピンハネに限界がない、ことなんですね。なんらかの、特殊技能なら、それなりの、「相場」というところに、落ち着くことが多いと思いますが、これといって、能力や経験を問わない、となると、もう、底無し沼。「いやならやめろよ。他行っても仕事なんてないだろーけどな。みんな、うちら派遣企業で囲い込んじまってんだから」。
もう、中国をバカにできませんね。大企業正社員という、「都会戸籍」と、派遣社員という、「地方戸籍」ですか。実質的な、奴隷制度そのものでしょう。
そもそも、経済学って、奴隷制度を回避できる議論なのかな。経済学をどんなに勉強しても、結局、独占状態が発生して、(暗黙の)カルテル状態になって、実質的な、労働者の奴隷状態が、生まれるような気がして、しょーがないんですけどね。
マルクスが言ったように、平和が続く限り、貧富の差は、どこまでも広がり、もうそうなったら、「実質的に」同じ人間と呼ぶべきかどうかも、怪しくなる、ってことでしょう。なんてったって、派遣社員最低賃金固定で、その残り「すべて」、社長の懐、ですよ? だって、社長の収入を「規制」する法律なんてないんですから。
小泉政治全盛の頃、新たな若い経営者として、サンプロで、派遣会社の社長の、成金社長が、得意気に、派遣は今後の成長産業だと、吹聴してましたね。
掲題の著者が言うように、これは「いつか来た道」なんですね。日本人は、戦前、こうやって、どこまでも、労働者は搾取されていたのでしょう。そして、それは、むしろ、世界中でそうだった。そして、少しずつ、この問題は解決してきた、と思っていた。そうしたら、ちょっと不況になり、冷戦が終わったから、といって、安易に自分たちが今まで築いてきたことを捨てるってわけでしょう。
こんなの、なんにも新しくない。昔、日本人がやってた、ピンハネ商売を、復活させりゃあいー。そりゃ、さまざまなノウハウも残ってるわけだ。
しかし、そんなことじゃ、中国との競争に負けるじゃないか(プンプン)。むしろ、中国の現状こそ、あまりに問題なんだと思いませんか? 世界共和国じゃないですけど、「世界同時革命」しちゃえばいー話でしょ、COP15 みたいに。
(労働問題は、何度でも考えましょう。)
さて、最後は、もちろん、郵政民営化である。

実はここに民営化の大きな問題点が隠されている。
かんぽの宿」の売却がそうであるようにその値段は「時価」である。それは、建設費をもとにした簿価(帳簿価格)ではない。庶民感覚は、造るのにいくらかかったかというこの価格である。だが時価は、その施設が運用益をどれだけだしているか----その利益から換算されたものである。それが資産の評価価格であり、資産価値計測の国際会計基準でもある。その値で売ることにして何が悪いのか。増田寛也総務相も認めたではないか、これが西川氏の考えである。
ここで注意しなければならないのは、「かんぽの宿」にしても、郵政の事業にしても、公的事業であるから利潤をあげることを目的としていないものである。もし利益があれば利用者に還元すべきものとされ、利用料を下げることになる。それ故に利益率はプラスでも低い。それをもとにした資産評価価格は低い。「かんぽの宿」の時価評価が極めて低い理由である。この価格で一括して「オリックス」が買い、利潤が上るよう経営の方向を変えるならば資産価値はあがる。これが民営化によって利益をあげようとするアメリカの投資銀行のねらいである。

郵便事業をなぜ、世界中の国々で、国が行ってきたかと言えば、私企業だったら、過疎地域など、もうけの出ない地域に、そのサービスを提供しないからですね。するとそこは、誰も住めない場所になる。宅配便を、私企業が、全国隈無く配達してくれるかどうかは、企業の勝手ですからね。
なかなか、おもしろい思考実験ですね。最近も、JRが地方の路線の採算がとれないことを理由にして、ある路線を廃止する。でも、バスがあるから、なんとかなる。しかしそれも、いつか、採算がとれないと廃止。大丈夫。自分の車があるから。でも、道路さえ、整備されなくなっちゃうかも。
だとすると、もうそれは、公共交通機関じゃないんですよね。そうすると、どこに家を建てて、そこでどんな仕事を始めて、どんな生活を送ろうか、という、人生設計がたたない、ということなんじゃないかな。ようするに、そういう地域って、もう「国家が管理を放棄した」ってことでしょう。
いや、いーですよ。やりたくなきゃ、やらなきゃいい。でも、普通に考えれば、別の国家「のようなもの」がそこに、立ち上がってくるんじゃないかな。だって、必要ですもんね、もし、そこで生きたいという人が、最後まで、その土地にこだわるなら。また、別の組織がなんらか自然発生的に吹き出してきて、民人たちに、公共サービスを提供するようになる。国定忠次のようなものですね。
公共サービスは、インフラのようなものですから、現代の市民社会を維持するには、必要なんでしょ。だったら、「だれかが提供しなくちゃいけない」。もちろん、国家じゃなくてもいいですよ。NGOのような組織でもいい。でも、大事なことは、市民との間に「信頼関係」がなければ、続かないでしょう。ちょっと、もうからないからと、すぐやめるようなサービスは、奴隷サービスとでも呼ぶべきものでしょう。
それにしてもね。郵政民営化ですか。ちゃんちゃら、変でしたね。「かんぽの宿」ですか。二束三文で売り飛ばして、どっかのだれか、全部自分のものにしよーとしたみたいですね。国の政策決定過程に介入して、「もとをとった」って話ですか。でも、郵政事業全体で考えれば、雀の涙ですか。でもそれ、国家の資産ということは、国民の公共財産なんですよねー。それを、商売用の評価額(今の利益率)で、かすめ取ろうってことですか。国という「完全なる独占組織」に、利益追求を義務付けたら、それこそ、国民は奴隷になれ、ってことなんじゃないの? すごいですねー。

世界 2010年 03月号 [雑誌]

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