畑村洋太郎『失敗学実践講義』

それにしても、トヨタのリコール問題が、まったく収束の気配がない。一体、この現象を私たちは、どのように受けとればいいのであろうか。
そもそも、トヨタは、何を追求されているのであろうか。それは、最も、一般的な言い方をすれば、以下である。
製造者責任。
また、責任論である。責任という言葉は、まさに「つまづきの石」である。
戦後、GHQによる、A級戦犯の裁判は、なにが問われたのであろうか。日本の保守派の人たちは、さかんに、A級戦犯の正当性の疑わしさをめぐって、戦った。
彼らの主張には、たしかに、理由があった。つまり、戦中には、A級戦犯の人たちが問われた、罪状が、存在しなかったからである。だから、A級戦犯たちは、戦中、大手を奮って、末端の兵士に、人殺しを命令できた。なぜなら、それによって、自分が、人に罪を問われる、社会的な根拠がなかったからだ。人殺し命令、やり放題だったのである。
さんざん、自分の部下に人殺しを命令しておいて、戦争が負けそうになると、自分が相手兵士に殺されそうになる前に、はい、降参。
生きのびちまえば、こっちのものだ。
だって、俺を、「裁く」法的根拠など、この地球上の、どこにもないことだけは確かなんだから。俺みたいな、「頭のいい」エリートが、こんなところで、ヘマするわけないだろ。
やった。
うまく、やりぬけた。
ところがね。
国際社会。こいつらエリートたちが、考える以上に「野蛮」だったようです。戦後になって、勝手に、未来まで、遡及できるような「罪」を、その場で、みつくろいやがった。
話が違うじゃねーか。
これが、エリートである。エリートたちは、どーも、「頭がよすぎたよーだ」。
さんざん、人を殺せ、と命令しておいて、いざ、自分が殺されよーとなると、大衆の、アホ! マヌケ! なにやってんだよ、戦争はもうとっくに終わってんだぞ。
こんなことやって、いーと思ってんのか。
責任という言葉は、難しい。難しすぎて、
「手に負えない」。
たとえば、日本では、消費税の、商品の種類による、比率の差別を行っていない。一律である。しかし、たとえば、家電製品だけを、嗜好品だということで、消費税を、何倍にもしたら、どうなるであろう。もちろん、その税金の分だけ、所得税法人税相続税の減税ができる。そうなれば、もっと、消費税をひき上げても、なんとかなりそうだ。
ところが、これには、一つ、問題がある。限りなく、家電製品が値上りしてしまうのだ。すると、日本人は、日本人が作る、家電製品を使わなくなる。
一瞬で、日本は、「ものつくり」、をやめる。
すると、この国に、何が起きるだろう。資源のない、この国のだれも、ものを作らなくなるということは、「ものつくり」を成立させていた知識が、この日本から、なくなる。日本は、「価値を生み出せなくなる」。かといって、日本国内から、世界に提供できるような、一次原材料が眠っているわけではない。
実は、このあたりにこそ、なぜ、日本の消費税をこれ以上に、上げられないのか、なぜ、かといって、所得税法人税、を国際競争力を考えて、これ以上、下げられないのか、の理由になっている。
こういった状況は、多くの「経済合理主義者」に、不評を買う事態のようだ。中期的に考えれば、あまりに、ジリ貧にしか思えないからだろう。
しかし、それは、「これからずっと、平時が続くと思うからである」。もちろん、日本が発火点となって、第三次世界大戦の、一翼を、中心的に日本が、担うことになることは、現在ではあまり考えられない(この、平和憲法がある限り、なかなか、想像は難しい)。しかし、世界大戦とは、多くの国々とが、いり乱れることになる。世界の多くの国々の関係がねじれていくことは、容易に想像できる。しかし、だからといって、日本が、対岸の火事を決めこめるとは限らない。また、そういったときこそ、国民の「ものつくり」地力の、レベルの維持が効いてくるかもしれない。
なんにせよ、国民の、知のレベルの底上げは、中期的に、決定的な意味をもってくるはずだ。それを、捨てたときが、日本が滅びるときであろう(そういう意味で、ゆとり教育こそ、日本の「自殺行為であった」)。
そういう意味で、日本は、国民をあげて、「バーター取引」をやってきたのだ。それを、自分たちは、世界を独占したんだから、「いくら高い値段にしても、売れないわけがない」と思うことは、おごり、というものだろう。日本人は、日本の製品を買ってきた。それが、バーター取引であることの自覚もないまま。
しかし、そのことが、日本の、ものつくり、の国際競争力を、支えていたのだとしたら、安易に「滅ぼせば、全てを失うことにさえ、なりかねない」。
しかし、もの、というものは、やっかいだ。まず、商品を作って、売るまでには、一度、倉庫に貯めておく必要がある。問題は、この量があまりに、ふくれ上がる事態である。しかし、このトラウマと折合いがつけられたとして、その商品を買う人々って、「なにをしでかすの?」
彼らが、なにものなのかは、だれにも分からない。なんに使うのかも、定かでない。どんな、突拍子もない使い方をするかもしれない。そのために、相手に傷を負わせたとしたら、「一体、どんな顔をすればいいのだろう」。

山中さんによれば、日本では1960年から、子どもの死亡原因の第一位は病気ではなく「不慮の事故」だということです。こうした事故の多くは子どもの強い好奇心から引き起こされます。たとえば、子どもは目の前で透明できれいなドアが回転しているのを見たら、周りのことなど気にせずに一直線に入ってみたくなるものなのです。あるいはガラス越しに見える別のものに反応して、ドアが閉まりかかっていることなどおかまいなしに一秒でも早くその場所に行こうとするかもしれません。子どものこうした衝動を周りが制御することは、非常に難しいことです。

ここからも、安全対策を機械を利用する側の「個人の自覚」に頼る考え方に無理があることは、よく分かるだろう。
一つだけはっきりしているのは、どちらが悪いのかをどんなに考えようと、まず、やるべきことは、同じトラブルを再現しないための、防御や啓蒙活動だということである。相手の責任追求を、どんなに、極めてみても、そこから、未来の展望が開けるわけではない。
ここは、非常に重要なポイントである。個人への責任追求や、正義の実現は、一見、人々の安寧をもたらし、個人の経済的な利益を追求という意味でも、重要に思えるが、しかし、むしろ、「人類レベルで」求められるものは、それ以上に、「災害対策」である。

私がこれまで公的機関を主体とする数多くの事故調に参加した経験があります。そこでいつも感じていたのは次のような問題でした。一般的な事故調は、背後で必ず警察・検察が責任追求を行うべく控えています。そのことで当事者から真相解明に必要な情報が思うように得られないのです。また、お役所仕事特有の厳密さが要求されるという特徴もあり、委員会の中で事故原因の真相に迫る議論が行われても明確な根拠のない見方は決して採用されません。そのため最終報告書には誰もが納得できる無難な見方しか示されず、せっかくの調査が事故の再発防止にまったく役立てられないことが多かったのです。

むしろ、犯罪者にこそ、原因究明の、キープレイヤーを演じてもらわなければならない。
こうやって考えてくると、つくづく、物を作って売る、という行為が、あまりにも、責任の重い事態であるかを考えさせる。ある意味、一生、「サポセン」をやっていかなければならないだろう。一つだけ、忠告しておけば、なるべく、物を作って売る、なんて、責任ばっかり、一生つきまとって、やらないにこしたことはない。
トヨタの技術者が、トヨタの車は、急スピードアップなんて、起きない、と「主張すればするほど」、アメリカの庶民の反応はエスカレートしていく。そこには、「トヨタ技術者側にこそ」根本的な、誤解があるように思う。
庶民が「求めていることがあるのである」。それな何か。
製造物責任
である。庶民は、「どんな間違いも起きてもらっては困る」。つまり、100%でなければ、だめだ、という最後通牒なのだ。ところが、トヨタ技術者の言っていることは、「ある条件で行った、デバックでは、問題なかった」だけなのだ。そこに、庶民との感覚のズレがあると言っていい。もちろん、「それを売っていいよ」の法の範囲内の実験であることは間違いないのだろう。しかし、庶民にとって、一つのミスも「許せない」。だって、生と死がかかっているのだ。死んだ人間は、もう、生き返られない。そのためには、絶対に一つのミスを許すことは、ありえないのだ。
そういう意味では、あまり、娯楽のために、自動車のような「凶器」を乗り回すことは、恐ろしくも思える(一時期、週刊金曜日などで、そんな記事がありましたね)。
しかし、ここに、さらに、やっかいな問題が間にかかわってくる。
コンピュータ・プログラミング、である。
パソコンで、あるソフトウェアを使おうとインストールをしていると、必ずといっていいほど、「同意する」ボタンを押させられる。しょうがない。だって、それ押さないと、インストールされないんだから。しかし、その規約に書いてあることは、一つ、「一切の責任は取りません」。
これが、現代の、ソフトウェアだと言っていい。もちろん、コンピュータは、さまざまな、レイアーによって、構成され、それぞれのレイアー内で、自律したルールが制御している。ようするに、「バグ取り」が、そう簡単に片付くものじゃないわけだ。どんなに完璧に、自分のレイアーのプログラムをチェックしても、使用しているミドルウェア内に、問題がある限り、その問題を回避できない。
しかし、こと、制御系において、「そんなことでは困るのである」。しかし、それが、現代のソフトウェアなのだ。その問題を、制御系であろうと、逃れることはできない。
どんなに、ロボット3原則を作って、ロボットに命令しても、「そのロボットがバグを忍ばせている限り」人間を襲い続けることを避けることはできない。普通は、こう思うであろう。だったか、完璧にしろよ。ところが、完璧というのが、どういう状態なのかを定義できないから、ずっと困っているのだ。とりあえずは、ヒューマン・オリエンテッドな、観点で、制御することで、大抵の場合に問題がないところまで、バグ出しをする。
意外に思うかもしれないが、これ以上に、「安全なテスト」は存在しない、ということなのだ。
人間には、結局のところ、プログラミングを完全に、自らの管理下で、「完全な」服従状態に置くことに、成功することはありえないのではないか。
だとするなら、この現代をサバイブするための、我々が取るべき「作法」とは、どのようなものなのか。
自動車は、人々の利便性と、機械の危険性、を考えたとき、まさに、最も、その「間に存在する」例だと言えるのだろう。それだけに、ラルフ・ネーダーの頃から、先進国で最もクリティカルになりやすい現場だと言える。
日本企業の唯一、盲点だったのは、サポート、トラブル対応の、軽視だったのだろう。グローバル・パーツのアイデアは、一見、効率的な世界をリードするシステムに思えるが、「問題は常に現場にこそ、伏在する」。国家政府に、地方の末端の我々の日々の苦しみが「分かるわけがない」ように、日本本社の、経営責任者たちに、世界中の末端の事情が、「分かるわけがないのだ」。むしろ、なんでも、理解できると思うことこそ、エリートの驕りと言っていい。唯一の盲点とは、あまりにも、起業した頃から考えて、事業を拡大しすぎていることなのだろう。
しかし、掲題の著者の立場は、どこまでも、未来志向だ。たとえ今、悲惨な事故に、人々が喪に服そうと、その死は無駄にならない。無駄にしてはならない。六本木ヒルズ回転ドアにはさまれた、6歳の男の子の死は、この後の子供たちの「命を救う」。失敗学の完成を目指す、この
「終りのない」倫理的運動。

失敗学実践講義 だから失敗は繰り返される

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