椎名林檎「宗教」

この資本主義の世界は、なにもかも、最初から、答えが用意されている。
私たちは、ただ、答案用紙に、こう書けばいい。
強いものが勝ち、弱いものが負ける。
お金のあるものが幸福になり、お金のないものが不幸になる。
強者に服従を誓うものが生き残り、強者に盾突くものが滅ぼされる。
徒党を組むものがひとときの食事にありつけ、孤高に天を仰ぐものが飢えと渇きの死神と目を合わせずにいられない。
なにを、今さら言ってるんだ。
そうやって、人類は、命を繋いできたのではないか。
生きることだけが生きる目的。
今さら、なにを、そんな。
汚濁にまみれ、権力者に、おべっかを使い...。
権力だけが、存在。
パワーだけが、お前のパートナー。
人をだませ。知能の足りない無能者を罠に落し、そいつの分け前をかすめ取るんだ。
分かってるのか。そいつは頭が悪いから、騙されるんだ。そいつの不幸は、すべて、そいつの頭が悪いせいなんだ、なんの罪悪感ももつ必要なんてないんだ。
もっと、気をしっかりもてよ。
なに、びくびくしてんだよ。善人ほど、かっこうのカモはいないだろ。舌先三寸で、たぶらかすんだよ。あのアホズラ見たかよ、ありゃ絶対救われねー顔だよな。だから、骨の髄まで、しゃぶれったら。
分かってんのか、そうしなきゃ、お前がやられるんだぞ。そうしなかったら、お前があの立場になるんだ。
いいか、お前は、ただ一つのことだけを、唯一心にとめるんだ。
死ぬな。
そのためなら、なにもかもをやるんだ。あらゆるお前を注ぎ込むんだ。
一瞬でも長く生きることだけが、お前の目的であり、それに失敗した奴は、それだけ、不幸な報われない、人間として生まれてくる価値のなかった人生だったってことなんだ。
そんな、答案用紙を書けば、どんな大学だって、どんな会社だって、どんな法律だって、どんな憲法改正だって、お前の後陣を拝することになるだろう。
もし。
もし、人類が、あと。
1年。
10年。
100年。
1000年。
10000年。
100000年。
...。
生き残った後の、人類は、何を思っているのであろう。
???
はて、お前は、人類なのか?
いや。
1年前。
10年前。
100年前。
1000年前。
10000年前。
100000年前。
...。
それくらい以前に生きていた人たちは、この平らな大地を見て、なにを思っていたのであろう。
???
はて、お前は、人類なのか?

「立て」「撃て」「切り裂いても敬ひ去れ」「歇(や)むな」「惡(にく)むな」
「吐け」「出せ」「引き摺っても歩き行け」「振り向くべからず」

私は、絶望という表現に、どこまでも、冷静になる。そうすると、その絶望なるもので呼ばれているものの周辺が、もう少し、俯瞰的に広く見えてくる。もちろん、だからって何も変わらない。
私は、これが答えだと言う奴に出会うと、その全部の反対が答えだと主張したい衝動にかられる。そして、不安そうな相手の顔を見て安心する。さらにその直後、そんな自分に気付いて、不安になる。
しかし、そういった自分も自分のごく一部にすぎない。
おそらく、未来のユートピアは、不条理、非合理、無意味、非意味...。こういった、決して、「幸せ」に到達しないような、コード、形式によってしか、構成されないのではないのか、という、ちょっと幼稚な空想をしてみる。
そういった形でしか、ユートピアを頭に描けないというのは、どこか、「健康な気がするのだ...」。

「待て」「伏せ」「不可解でも崇め逝け」「病むな」「憎むな」
「視ろ」「嗅げ」「不愉快でも味わひ識(し)れ」「覚悟を極めろ」

椎名林檎の、この中期(といっていいのか)のアルバムを、あらためて、私は考えさせられる。前期のまだどこか、ロマンティックな部分を残していた作品。最近の、もう、完全に、「ミュージシャン」として、エンターテイメントにひらき直っている作品。
このアルバムはまさに、その間に、はさまって、あらわれた、なんとも、なにに分類していいのかもよく分からないような、不思議なアルバムだ(丸山眞男でいえば、『忠誠と反逆』、にあたると言えばいいだろうか...)。
彼女が、どんな顔をして、このアルバムを作っていたのかを、私は「想像できない」(そういう作品は、傑作と言っていい)。
(もちろん、この音楽がどうなのかとか、そういうことを私は、なにも言っていないのだが。)
たとえば、アニメ「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」の、この未来の村では、奇妙な世界観を示している。この世界において、日本語の文章は、「古代の遺物」として、存在するが、基本的には、それを「だれも読めない」。
(どう見ても、今の世界の「小学校の教室」のような、「世界戦争前の」廃墟の中で、主人公のカナタは、小学校の国語の教科書を拾うが、そこに書いてある「日本語」を読めずに、カナタはくやしく思う。)
修道女の、16歳の、ユミナ、の所属する、教会は、なぜか、日本の八百万(やおよろず)の神々を信仰している。
なぜ、この世界では、あいかわらず、戦争が存在するのか、それは分からない。一つだけはっきりしていることは、ユミナ、の宗教活動が、戦争によって、親を失った孤児たちと共にある、ということである。孤児たちに、「行くところはない」。しかし、彼らがもし生きていくとするなら、「どこかにいなければならない」。
そう考えたとき、宗教とは、人々が、軽蔑し、嘲笑し、「マジ」でウザいと敬遠する、すべての人間の存在形態からの、ある、「アジール空間」であることが分かってくる。自らを、そういった、価値無な場所とすることで、エアポケットを作る。さかしらな、私たちの理性、常識人の、世俗知では、たんなる、「嘘」であり、非科学、であり、ということは、たんなる、人生の負け組、となる、ぐらいの意味しかもたない存在と扱われられる、宗教。
しかし、それゆえに、である。
あらゆる、人間間の世情の「縁(えにし)」、人間同士のつながりを失った、彼ら孤児たちの「居場所」になれるのだ。しかし、なぜ、そんなことが「許されるのであろう」。ひとえに、
ユミナ
のパワーである。彼女の「実践」がそうさせているのであって、それ以上でもそれ以下でもない。

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