本田一成『主婦パート 最大の非正規雇用』

とうとう、自民党一党独裁政権の、陥落とともに、民主党政権が、はなばなしくも、成立した。
民主党政権は、もともと、非常に、モチベーションの高い政党であった。若手の、優秀な政策通が、さまざまな、革新的な政策を、意欲的に研究し、提言していた。それらは、多くは、世界のトレンドに通じた、日本の、ガラパゴス的後進性に、積極的にメスを入れていこう、というチャレンジングなアイデアであった。
しかし、民主党
待てど暮せど、一向に、選挙前に言っていた、政策を始めない。
聞こえてくるのは、ただ、一言。
消費税上げたいー、消費税上げたいー、消費税上げたいー...。
消費税! 消費税! 消費税!...
しょっうっひっぜっー!!!
(自己嫌悪...。)
そんなにショーヒゼーやりたい方は、自主的にお払いになったらどーでしょう? 確定申告、別に、払い過ぎは、法律違反でタイホされませんよ。自主的、消費税ゾーゼー、大歓迎。一人消費税50%って、どーです? そこまでやるなら、憂国の士、真正保守として、一定の発言権があると、お宅の意見に耳を傾けましょー。
掲題の本は、非常に、よくまとまっていると思う。
オレってケーザイマニア! なとかのほーそくー!
とか言ってるやつに限って、こういう問題、テッテーガンムシ、ですよね。まず、そーいうこと言ってるやつって、ジョージョーしてない企業は、企業じゃないと思ってますからね。まず、資本金うん億の会社しか、目に入らない。そーゆー会社しか、就職活動しないで、「就職氷河期、厳しいなー」。付き合う恋人も、最初の一言が、「あんたの務めてる会社、資本金いくら?」。
「勘違いしてんじゃねーよ。うぶなおぼこ。私が愛したのは、あんたじゃなくて、あんたの務めてる、会社の資本金、なの。そんだけあれば、私が死ぬまでの、年金からなにから、ナンクセつけて、むしり取れるだろ?」。
愛=ダーリンの会社の資本金。
まあ、ちょっとひねくれてるけど、いーんじゃねーの。会社が大きくなれば、奥さん、見直してくれるってことだろ。がんばりがいがあるってものさ。
しかしね。
そんなこと言ってた奥さんも、「日本中で、働いているんですけど、その愛の値段はおいくら?」。
この、パートって、雇用形態は「つまづきの石」だ。
日本は、もともと、階級社会だっただけに、簡単に、「身分制」が復活する。日本人はどーも、身分の別が好きなようだ。日本人は身分を前に「安心する」。身分差があるということは、自分が額付く相手がいるということだ。どんなに卑屈な姿に思えても、それが、身分。「あえてする」土下座。苦しゅうないぞ。
いーじゃねーか。それで、仕事がもらえるんだ。この不況のご時世、稼ぎ口があるだけ、ましな方でしょ。贅沢も言ってられないって話さ。
そう思って働き始めると、あら、不思議。どうも、人間には、二種類いたようです。

  • 人間
  • パート(人間を除いたなにか)

人間(正規社員)は、パートに、こう言う。「明日から、もう来なくていーよ、あんた使えないんで」。「ご迷惑をおかけしました。なんのお役に立てませんで。今後とも、がんばって下さい」。
けっこう、使えてたと思うよ、「払ってる金額の割には」。

厚生労働省「賃金構造基本統計調査」によると、1980年の、賞与を除く一時間あたりの賃金は、男性正社員を100とすると、女性パートの場合は、45・1という低水準であった。スーパーなど先進的な産業はすでにパートの戦力化に突入し始めていたが、一般にはパートが、正社員のお手伝いとか縁辺労働力といわれていた時代である。
ところが本格的なパート基幹化時代に入った2008年でも1・8ポイント上昇しただけの46・9なのだ。

それくらい、寝転がっててもやれるような「らくちんな」仕事だけやらせてくれるんなら、半額以下、そんなもんなのかと納得できただろうが、でも時代は、パート基幹化時代。
企業は、この、不況のご時世、合言葉は、
「企業努力」。
俺たちは、ここまでやったぞー。でも、だれでも、自分の給料が減るのは嫌だよね。あっ、ちょーど、いくらでも、給料を減らしても「いい」虫ケラが、目の前にいたじゃないか。
それが、ごーりか、ごーりか、ご立派ジョートー。
おたくの、企業努力。お見それしやした。まさに、ダウンサイジング。逆転の発想でしたね。すごいですよ、「人間の」仕事量がここまで減らせるだなんて(あとは虫ケラを、どうやって、おだてて、仕事に「生きがい」を与えてやるかですね、それが、人間様の腕の見せどころ。そのために、口先のうまいお前を雇ったんだ)。
好きこそ、ものの上手なれ。しかし、彼らも、彼らの得意技「自らを騙す」ことだけは、誰にも負けないって自信満々。

その賃金格差がある理由は何かと問えば、多くの企業は「責任の重さが違うから(65・0%)、「職務内容が違うから」(62・6%)、「勤務時間の自由度が違うから」(45・1%)、「もともとそういった契約内容で労働者も納得しているから」(32・3%)と回答している。
この回答には、二つの重要なポイントがある。一つは、たとえ正社員と同じ職種で主婦パートが働いていても、労働時間の自由度などが違い、しかも両者の職務内容や責任の重さが違うと企業が考えていることである。つまり、企業は、正社員と主婦パートとでは、同じように働いているように見えても「よく見ると違う」といいたいのだ。ここに巧妙な賃金格差に対する言い逃れがあるのだ。
企業のもう一つの言い訳、「パートタイマーが納得しているから賃金格差がある」というのは、それに比べればセンスがない。
しかも、「基幹化」した主婦パートが抱く正社員との賃金格差への不満は強いので、この言い訳には無理がある。主婦パートが納得しているかどうかに関係なく、単にその賃金で契約しているという以上の何ものでもないのだ。

別に、この株式会社。正社員に「無限責任」があるわけでもない。責任感をもって、がんばらっしゃる、正社員の方々は、立派だと思いますけど、それが何時間も残業して、「始めて達成できる」とするなら、逆にそれが、「みょうな負債感」になってなければいいですけどね。
しかし、そうやって、正社員の方々の、ご苦労に、難癖をつけるには、限界がある。問題は、最初から、無理なスリム化にあった。正社員をパートに代えろ。なんてったって、「半分以下のお金」ですむんだ。
その時から、会社運営とは、いかに、社員を少なくできるか、になった。つまり、究極は、社長一人が社員で、あと全員、パートにする。これこそ、経営の極意、とされたというわけだ。半分以下のお金で同じ労働力なら、もしかしたら、最近のちょっと豊かになってきた、中国へのアウトソーシングよりも、割に合うかもしれない。
しかし、これが、本来あるべき、経営努力なのであろうか。
キリスト教コミュニティにおいては、「フェア」というのは、一つのヴァーチュである。もし、同じ作業を行っている二人が、たんに、「雇い方の違い」だけで、もらえるお金が半分以上の差がつくなら、その現場の雰囲気は、あまり、いい感じにならないとは考えないだろうか。
問題は、同じ作業、というところにある。
しかし、なぜ、パートなどというものが生まれたのだろう。この事態。世にも不思議な、国民と政府との「バーター取引」によって、なり立っていた。いわゆる、「130万の壁」。パートは、税制や年金で優遇される、「仕事をやらないことで」。こういう制度こそ、「悪」であろう。人々に、働くモチベーションを無くさせる国家は滅びる。

「若干の小遣いを得たい」とか、パート収入は、「子供の教育費や自分の衣服・見回品の購入に当てたい」という程度で、むしろ「余暇を有効に過ごしたい」とか「自分の経験を生かしたい」とか、パート労働を通じての「生き甲斐」と「社会参加」を追求する意欲の方が大勢を占めている。(高梨昌編『パートタイマーの活用と管理』)

つまり、サラリーマン家庭の普通の生活をよりよく、もう一歩豊かにしようという動機で、時間に余裕のある妻がちょっとした「社会参加」を果たす就業形態だった。
ところがこの文章の直前には、以下の記述がある。

ひと昔前までは、家庭の主婦が収入をともなう労働に就くことは、「生活苦」のためで、夫婦共稼ぎは、貧乏の代名詞ですらあった。ここには、生活の貧しさと、労働に就くことの「みじめさ」や「うしろめたさ」があった。

私たちは、系譜学を忘れる。このパートタイマー制度が導入されるとき、なぜ、この制度が許されたのか。「小遣い稼ぎ、にはいーかな」。しかし、今は、みんな、「生活苦」。みんな、企業の社員並み基幹業務を、当然のように、代行するようになった。それでもまだ、この制度は、正当性があるというのだろうか。
民主党は、抜本的な、年金制度の改正をもくろむと同時に、この、130万円の壁、の撤廃を模索している。著者は、この先にあるものこそ、「パートタイム社員」だと言う。当然である。主婦にとって問題は、子育てに忙しく、フルタイムで働けない、というだけだ。しかし、そういう意味で言うなら、あらゆる、人々が、本当はそうだろう。その割合が多い。それだけのことであるし、いやむしろ、子育てこそ、この国家の、屋台骨、そのものではないか。子供を産むことが、働くことに不利になるような制度がある限り、少子化は止まらないのだろう。
そもそも、こういった状況を、「差別」と考えるかどうかの、その人のヴァーチュが問われている。
経営者と、従業員の関係は、永遠のテーマだ。ただ、一つだけはっきりしていることは、お金の関係は分かりやすい、ということだろう。夫婦も、徹底して、金銭関係をクリアにしておいた方が、お互い、気がねしないですむ。専業主婦という形態にしても、最初から、一般的な「相場」を考慮して、「給料」を払うべきだ。
むしろ、なぜ、そうなっていないのか、を考えてみると、パートと似た事情が垣間見られる。専業主婦は、「主婦を選べない」。パートも、近くに自分が通えるような、仕事場が少ない。
しかし、だからと言って、相手の足元を見て、130万の壁を超える残業をさせて、残業申請をさせずに働かせる。「どうせ、ほかに働く所もないんだろ。こっちには、世の中、いくらでも、お前の代わりはいるんだ」。
著者の主唱する、「パートタイム社員」とは、「社員」である。ただし、「労働時間」に、最初から、制限が入っている。それだけの違いである。ヨーロッパも、さかんに、ワークシェアリングを導入してきたが、ようするに、これに、従業員側が、働きたい時間指定があるだけだ。
しかし、これは、当然の主張なのではないだろうか。なぜ、会社の都合で、いつもいつも、自分の働く時間が左右されなければいけないのか。少なくとも、これでは、子育てはできない。その会社が、子育てに「敵対的」かどうかをはかる、メルクマールとなるだろう。
スーパーマーケットの東急は、業界で、一早く、この、「パートタイム社員」制度にチャレンジしているそうだ。

なぜ、東急ストアはあえて「S職」を導入したのか。ある管理職はこう説明する。
「一日八時間のフルタイム勤務の社員を優遇するのをやめない限り、優秀なパートをいくら上級パートとして待遇してもだめです。「壁」をとっぱらわない限り、組織がおかしくなり、生産性が上がらないのです」

東急ストアが目先のコスト増に目を奪われることなく、「パートタイム社員」制度の導入に踏み切ることができた背景には、実は、労働組合が大きな役割を果たし、会社の背中を押したという事実があった。

この本にも、何度も書かれているが、問題は常に、「現場に伏在する」。どんなに経営者が、いいアイデアだと思っても、現場の雰囲気が悪くなるような政策は、「不安定要因である」。いくら経営者が、「それは現場のせいだ」、と責任をなすりつけてみても、現場は上司の人間を見ている。幼稚な経営者にはいずれ、だれも付いて来なくなるだけだ。
最近は、評論家気取りの奴が多すぎる。評論家まで、まるで評論家のようなことを言ってるご時世だ。その前にお前は、労働者だろう。だったら、もう少し、労働者の「団結」を語ろうとは思わないのだろうか。
あらゆる会社は、自分のところで、面倒をみている、労働者の社員、パート、契約社員、それぞれの、一時間あたりの賃金比率を、必ず、会社の入口に張り出させればいいんじゃないですかね。
(東急がうまくいってるのかどうかは、まったく知識はないが)重要なことは、こういった運動が、労働組合から始まっていることである。労働者一人一人が弱いことは自明だ。だったら、あらゆる、この国で「働こう」、この国の力になろう、としている人たちと、繋がっていこうとするのは、当然ではないだろうか。どのようなフェアネスがありうるのかを考えることのない、社会は、いずれ滅びるだろう(それが、この国の世界に先がけての、少子化傾向となっているような予感もしないでもないが)。

主婦パート 最大の非正規雇用 (集英社新書 528B)

主婦パート 最大の非正規雇用 (集英社新書 528B)