松井孝典『人類を救う「レンタルの思想」』

著者が、あの、仕分人の一人で、スパコンで話題になった人だ(ウィキでは、固体地球物理学者、惑星物理学者、比較惑星学者、とある)。
著者にとって、まず、課題となるのは、人類圏の、長期的な維持が、可能なのか、いや、そもそも、現代のさまざまな制度が、こういった、「太陽系規模の」長期的スパンに立脚しているのか、という疑問から始まる。
人類圏とは、この地球の自然システムの中での、人間が、さまざまに、相互作用をしている部分、つまり、人間の文化と言えるだろう。この範囲が、ある意味「恒常性(ホメオスタシス)」を保ってきたから、人間の存続が可能であった。しかし、人間のさまざまな、生産消費活動が、さまざまに、地球圏そのものに、影響を与えていくことで、この人類圏が、人間が自らの存続を維持することさえ難しくするのではないか。
こういった地球規模での秩序の必要性を考えると、著者にとって、最大の問題こそ、「所有」ではないか、と思えてくる。そして、その所有に対立するアイデアとして、「レンタル」という表現を使ってみる。こう考えると、一般に言われている、レンタル商売とも少し違ったアイデアであることが分かる。
たとえば、江戸時代の日本人圏は、レンタルであった、と著者は考える。家屋や日用品や衣類、もちろん、食物も、ほんどすべてが、日本国内の動植物で作られていた。これらの植物を加工し、人間の排泄物は、肥溜めとなって、食糧生産などに、利用されていき、日本国内には、また、季節が巡れば、植物が繁茂し、動物たちもそれを餌として、栄える。この循環の特徴は、どこまでも、「減少」していく、資源のパーツがないことである。唯一の「外」からの、資源が、太陽光である。著者は、光合成こそまさに、レンタルなんだ、と言う。ところが、現代の資本主義において、例えば、石油資源を消費すると、確実に、量が減る。量は有限ですから、それが意味することは、いずれ無くなる、ということである。その他の鉱物資源、鉄なども、加工して使って、ごみ埋立場に埋めるだけなら、無くなっていくことと変わらない。
ということは、中期的に、今の、石油などの資源に依存する、人間圏は、継続不可能であることを意味している。
また、そもそも、地球上に、人間が住める場所というのは、限られている。ほとんどが海だし、地上の多くの場所は、「砂漠」だ。しかし、その砂漠も、昔はそれほど広くなかったのではないか、という人もいる。人間が増え、目先の食糧に飛びつき、木々を切り倒し、育てることをやらず、さんざん荒らして、刈り取って、商品にして、世界中に売って、刈り取り尽したら、はい、さよーならー。さんざん、お金、貯めさせてもらいました、今度は、この儲けたお金を元手に、違う商売させてもらいまーす。その荒れ果てた土地は、もう、人間の近寄れる場所ではなくなっている...。
また、一時期、公害問題など、自然界には「人間が作らなければ存在しなかった」人間が生み出した化学物質の環境への影響が、さかんに言われた。そもそも、そうやって、人間が人工的に生み出した、化学物質とやらは、本当に、野に放って大丈夫なのだろうか。どんな、環境への影響を与えるかも分からない。どんな奇形を生み出すかも分からない。しかし、そんなことと、科学の発展は関係ない。どんどん、人間は、錬金術オタッキーにのめり込み、この地上に、「モンスター」を降臨させ、経済原理は、それを、地球中に、ばらまく。それらが、人間圏、地球圏に、中長期的に、どんな影響を与えていくのかは、まさに、「神のみぞ知る」。なんで、こんな、ギャンブルをやんなきゃいけないのか。江戸時代システムなら、そもそも、こんな将来のことにビクビク心配する必要さえなかった。
経済原理の本質は、その自由性にある。ということは、「なにをしてもいい」。どんな、この地球システムに深刻な影響を及ぼす可能性のあるものを、「金儲けのために」流通させてもいい。
あれもいい、これもいい、気持ちいい(なにを言ってるのか)。
これが、経済の「逃げ切り」である。タッチの差でいい。地球が滅びる前に、自分の寿命が来れば、「私は幸せだった」。問題は、自分が死ぬまで、自分が幸せをかみしめられることだ、と言える。それは、そんなに長くなくていい。ちょっと。自分が死ぬ、ちょっと前まででいい。
会社もそうだ。アメリカの、CEOが、さんざん、会社に損害を出して辞めるとしても、自分が辞める直前まで、その会社が、俺に、莫大なお金を、つぎ込んでくれればいい。自分が辞めた後、こんな会社がどうなろうと、俺には関係ない。そのお金で、ハッピーな老後生活をゴルフでもやってエンジョイしよー。会社のトップは、そうやって、逃げ切ることしか考えない。新入社員が中堅になる頃には、そんなCEOに骨の髄まで、しゃぶられて、この会社は、上記の、砂漠になった大地、のように使えなくなるのに、なんで、俺たち新入社員は、こんな安月給で、へーこら付いて行かなきゃいけないのか。それは、そんな新入社員たちも、なんか、うまい話が転がってないか、探してるからだろう。なんとか、他の新入社員をだしぬいて、自分が、上司に気に入られれば、自分だけは、「上がり」になれるかもしれない。
逃げ切れ。
だれも、「この会社がこれからも発展するために」がんばってない。この会社が、どんなに尊敬され、人々の役に立てる存在になれるように一緒に育って行こうと思っていない。
会社は自分の金儲けの「手段」。
ようするに、それが、資本主義なのだろう(もちろん、上記の思考実験こそ、国家に一番あてはまるのは言うまでもない)。
確かに、そんな村作法しかもたない、民人しか、生まれて来ないなら、この通りかもしれない。しかしね。人間は、もう少し、「できが悪いみたいだ」。「利口ロボット」としての人間。どーも「性能がいまいち」。大事なところが、潜在バグで使い物にならないって、どーよ。
つまり、一方で、利己的に母なる大地を壊し、人が住めない大地を広げて、金を儲けている連中がいる、他方で、やっぱり、この人間圏が維持できなくなるような、経済活動は、抑制的にできないか、と考え始める人々が現れる。
アダム・スミスの頃からそうだ。経済は倫理なのだ。「結果として」自由放任が、人々の富の増大に寄与する「なら」、認められる、というのが経済学であって、経済学とは、最初から、倫理学だった。その前提には、人々が、倫理的なのだろう、という前提があった、ということである。
つまり、「人間圏破壊ビジネス」という、倫理的にムリ、なものを、最初から、経済学は含まない、ということである。
私は、この対談集を読んでいて、やはり、「全共闘世代」というものがキーワードなのかなと思った。たとえば、糸井重里さんと対談をしていて、二人とも、「全共闘世代」という体験をベースに思考されているということを感じる。ということは、その世代というのは、それに対する、なんらかの、堕落、転向、の言い訳とならざるをえない面があるということです。もちろん、それが問題なのではなくて、そういう面が独特の傾向を示すというです。
たとえば、著者の、所有批判というのも、実に、マルクス主義的と言えないこともない。つまりは、人間には所有欲というものが、明確にあって、人間の文化とは、それとの対決のことなんだ、となる。
例えば、別の対談者である、生物学者の、長谷川眞理子は、なぜ、貧しい間は、人口増大がトレンドでありながら、こと、「先進国」において、子供を産まなくなるのか、について考察している。

長谷川 (略)いろいろモデルをたてて研究している人がいます。そこから見えてきたのは、べつにこういう先進国だけではなく、牧畜民の社会とか、農耕社会とか、少しでも富の蓄積ができたあとには、子供だけではなくて----子供も富と数えて----人は持っている富の全体を最大化しようとするみたいなのです。
松井 残すことまで考えるわけですか。自分一代ではなくて?
長谷川 結局、自分のものというのは死ねば残せるわけだから、自分のものでもいいんですけど、持っているものを子供で割る、その子供一人頭につけられる富を最大化しようとしているみたいです。持つものが多くなればなるほど自分の生涯のなかでその持つものを最大化したくなってくる。

これは、いわゆる、「イエ制度」を言っていると考えてもいいのだろう。私たちにとって、自分の寿命が「終わり」ではない、と考える。つまり、もし、そこで終わると考えるのなら、老人の所有欲は、砂上の楼閣となるが、実際には、そんな様子は微塵もない。バルザックの傑作『従兄ポンス』のように、まったく衰えることはない。そこには、おそらく、自分が死んだ後にも、「なにかが繋がる」という観念があるからではないだろうか。貧しい国では、とにかく、「一人でも」生き延びてほしい。ところが、富裕国では、自らの富を繋げる、というアイデアが支配的になる。たとえば、3人の子供がいれば、その3人が「自分」という富を繋いでいく。昔の「イエ制度」なら、長男が全部を継承するのだろう。もちろん、そうであってもいい。しかし、平等に割るとするなら、各一人は、「今のその老人の富の」3分の1にしか、あづかれない。ということは、「自分は3分の1しか、繋がらない」と考える。貧乏感が漂うのだろう。そこが、富裕国において、あまり子供を増やすことに、消極的になる理由であり、老人の所有欲が一向に減らない原因ということらしい。
こういった傾向を示す、各個人に対して、著者の、レンタルの立場では、各個人のこの、所有欲と対決していかなければならないのだろう。しかし、その方向性は、「国家による強制」という側面を著しく示すことになる。著者は、自分も若い頃は、反国家主義だったけど、海外を旅行するようになって変わった、という。海外に一人旅をすれば、その土地で、自分を守ってくれるのは、唯一「日本大使館」である。パスポートにそう書いてある。海外生活を体験した人であればあるほど、ナショナリストになる。
たとえば、著者の江戸論のネタ元である、水谷三公は、封建制を次のように定義する。

水谷 ええ。そこで封建制というものの定義ですが、「封建」という言葉が、頑迷とか時代遅れとかいった意味で使われることがよくありますね。しかし、ヨーロッパには封建制(フューダリズム)のはっきりした定義があって、土地を保有する権利を認める代わりに、政治的な忠誠を尽くし、一定の物的・軍事的負担をするなどして社会の政治秩序を成り立たせるということでしょう。土地とりわけ農地保有に公権力支配の基礎を置く制度と言い換えることもできます。封建制のもとでは、自分の家のものは引き継いでいくことが原則なんですね。

そういう意味で、江戸の武士たちは、興味深い。彼らには、所有物というアイデアがなかった、と言うのだ。彼らは、土地を所有していなかった。所有していたのは、むしろ、農民であり、商人であった。武士は、いわば、「国家の私物」を、レンタル、して生きていた、と言っていい。国家から、国家の所有物を借りて、それを、子々孫々まで、引き継ぎ、借り続ける。お国の私物、借り物、なんだから、「粗末にできない」。勢い、大事に扱う。
著者のレンタルのイメージとは、こういうものになる。どこか、社会主義的でないだろうか。実際、明治以降の、北一輝の革命思想は、社会主義そのものであった。日本の、官僚の伝統には、社会主義的な「エリートの先導による」平等政策、のイメージが根強くある。
水谷は、このイメージを決定的に破壊したものこそ、戦後のGHQ主導による、農地改革であった、と考える。

水谷 日本の都市と田園を悪くした原因を一つ挙げるなら、私は戦後の農地改革だと思います。農地改革は、家産つまり代々受け継いだものを守っていくことが大事なんだという考え方を、頭から否定しちゃったわけですからね。営々として集め、守ってきた農地を、ある日突然、再分配するぞと言われた人たち、安い値段で手に入れた人びと、どちらも土地への愛着はかつてほどにはもてませんよ。

この点において、水谷と松井は、激しく同意する。農地が「荒れた」。まさに、農地の荒廃こそ、戦後の特徴と言えるのかもしれない。休耕地が増え、宅地化されていく。
しかし、この二人が、なぜ、農地改革に「すべての原因を帰着させるのだろう」。
この辺りで、水谷の、モチベーションの起源が現れているのかもしれない。
農地改革の評価というのは、まさに、微妙な問題と言えるだろう。坂口安吾は、戦後すぐに、この農地改革を支持した。平和憲法以上に、評価したと言っていい。その理由は、戦中を生きてきて、「そんなきれいごとでない」現場を、さんざん見ていたからであろう。稲作地域に行くと、必ずと言っていいほど、「大地主」という人が住んでいた、家が博物館になっている。聞くと、この地平線のかなたまで、「その地主のものだった」。農民とは、小作人のことであり、土地を借り、いくら耕しても、「ぜんぶ地主に取られる」。今の、契約社員のようなものだ。最低賃金以外は地主の懐。彼ら、大地主は、「莫大な財産をもっている」。坂口安吾も、親は、地元の議員だったかで、そういった、いいとこの子供だったわけだ(そういう意味で、上記の、水谷と松井の農地改革批判は、実際にそこで生活している人々への想像力を欠いたロマンティックな空想と言わなくてはならない)。
しかし、経済原理主義者は、「なんとしても、農地改革を認めるわけにはいかない」。しかし、そう考えてみると、明治で、武士を完全に、平民にした政策は、どうなんだろうか。彼らには、なんらかの資産や権利が残されるべきだったのではないか。しかし、そういった扱いは、徳川家などの一部上級武士が、華族にシフトしただけで、末端の武士は、「国家に捨てられた」。
水谷と松井の上記の反応には、こういった、資産家たちは、なんの理由もなく、資産を国家によって、奪われて来た過去への、怨恨を感じなくもない。
現鳩山政権が、今後の政策で、平等政策をすることは、望めない。なぜなら、鳩山自身が、国民の経済感覚を超越するレベルの資産家であるからだ。そういった人間に、国民間の平等を志向するような政策は望めない。子ども手当にしても、「お恵みレベル」である。さまざまな金持ち減税政策を進めることになるだろう(なぜなら、そういう階級の人間なのだから)。そういった政権が、松井さんに、仕分け人を依頼するということは、どこか、そういった人々の意見を代表するような思想を感じるからであろう。
やはり、現政権の周辺にいるような、お金持ちたちには、上記のようなトラウマがあるのではないだろうか。
もう一度、農地改革をする前の、農地に戻してくれ。
もう一度、武士階級だった頃の、待遇に戻してくれ。
もう一度、日本陸軍日本海軍、の上級将校だった自分にふさわしい、役職を塩梅してくれ。
その衝動には、理由がある。確かに、国家による、「不平等な」収奪に思えて、しょうがないのだろう。しかし、いずれにしても、明治革命体制は、武士階級の権利剥奪から始まり、戦後体制は、農地改革によって完成した。我々は、この体制を受け入れた末裔なのだろう。しかし、そういった勢力が、ここにおいて、こと、環境問題という切り口によって、再度貴族的な階級を役割として復活できるなら、というモチベーションを強くしていく傾向が生まれることはないだろうか。
国家とは、国家利権に群がり、国家貴族(公務員)としての待遇を自分に与えることを迫る、利権の巣窟と、必ずなっていく。それは、国家が存在する限り、終わることはないのかもしれない。そういう意味で、経済学が主唱する、「小さな国家」に私は、理論的には、賛同するが、問題は、たとえ、「小さな国家」であっても、この利権に群がる連中の運動が止むことはない、ということである。「小さな国家」として、より機能が小さくなることで、「よりピンポイントで」効果的な国家貴族(公務員)への、貢ぎ物がみつくろわれるようになる、ということでしかない。金額の大きさの問題ではないのだ。
著者の、私的所有、への疑いが、なぜ、こうやって政府によって、賛同をもって迎えられることになるのだろうか。それはやはり、どこかに、著者の主張に、「新たな貴族主義」の息吹きを感じるから、ではないだろうか。地球規模の問題から、この地球をどのように、人間がコントロールしなければならないかが「証明」されれば、その役割を、国家が収奪してくるだろう。つまり、新たな、国家貴族(公務員)の、利権の誕生である。北一輝社会主義をなぜ、当時の革新官僚が熱狂的に迎えたか。なぜなら、たしかに、一見、この社会主義的な政策は、金持ちの資産を奪うように見えますが、逆に、国家の役割は、どこまでも、極大化してるわけですね。だから、国家の内部にいる、国家貴族(公務員)のパワーが極大化することを意味するわけです。彼らにとっては、おいしくないはずがないんですね。
私は、そうは言っても、こういった、松井さんのような、専門家の重要さを理解しないわけではない。私は、ある意味、こういったものをネタに、からかっているレベルにすぎない。やはり、専門家には、その専門に没頭するための、多くの時間があるのだから、やはり、その蓄積は、一目に値する。
たとえば、対談で合原一幸さんは、ニューロン一つにおいてさえ、「カオス」が発生することを強調される。

合原 (略)そのとき、ヤリイカ神経細胞ニューロン)がカオスを生み出すことを発見したんです。
松井 何かを入力すると、カオス的なものが出力されるという意味ですか。
合原 悩のなかには発振状態にあるニューロンがあって、ほぼ一定の周期で電気パルスを出していますが、イカの巨大神経を取り出して低カルシウム溶液中に置くと、刺激を加えなくても周期的にパルスえお出すようになるんです。そこにさらに電流による周期的な刺激を加える。
松井 すると、カオス現象が出たと。
合原 ええ、カオスというのは、この場合、パルスが不規則に出る状態です。それまでの理論では、悩は非常にスタティック(静的)で論理的な演算をやる装置であると考えられていました。ところがイカの神経を調べてみると、悩は一個の神経細胞でもカオスを出すような、非常に動的なダイナミックな仕掛けでできているという、まったくいままでとは違う見方ができるようになった。

このことは、私たち人間の、神経ネットワークの、あまりにもの、複雑さを示唆しています。今までの、人工知能論が、いかに、リニアーなスタティックなモデルに依拠していたかを考えさせられます。

合原 従来のカオスを考えない連想記憶の理論はどういうものだったかと言うと、ある初期状態から、それに依存したある特定の平衡パターンに収束して止まる。要するに、ワンステップの連想なんです。夏から花火となると、永久に花火を想起する。
松井 花火からビールというような連想にはいかないということですね。
合原 いかないんです。カオスのない安定な平衡状態が前提ですから。
松井 一回平衡状態になったら、もう抜け出せないと。
合原 ところがカオス的なものだと、そこから平気で抜け出し次の連想をする。
松井 ビールだったり、浴衣だったり次々と。
合原 そうです。つまり、一定の状態をきちんと保っているのはあまりにも固い安定状態というか、非発展的なんですね。そういう意味では「安定性」という概念を多分、拡張しなくてはいけなくて、カオス的なダイナミカルな安定性というものがある。

そう簡単に、ロボットは、人間にはなれない。どんなに、人間になることを、夢見ても。
サイボーグは、もっと、「構造的に」人間の神経に近い物理的な形態を求めて行くのではないだろうか。つまり、そこまでしないと、人間的な人工知能が、サイボーグに「生まれる」ことは想像できないのかもしれない。
たとえば、以下の例は、人間の神経系は、むしろ、「意識していない所で」ものすごい量の情報の計算をしているのではないか、という考えを裏付けています。

合原 (略)ポアンカレという科学者の有名な話があります。彼がフックス関数の問題をずっと考え続けていたんですが、答えはわからない。ところが、馬車に乗ろうとステップに足を乗せた瞬間、つまりぜんぜんその問題を考えていないときに答えがパッと出てきたといいます。つまり人間の悩は意識の下で、実はいろいろなことをやっているように思えます。
松井 よくわかります。身構えて一生懸命そのことを考えようとしているときには新しいアイデアは思いつかず、そういう状態ではないある瞬間に突然ひらめく。
合原 その場合、一つの必要条件は多分、パッと思いつく前に、かなり集中して考えている時期があるということ。

徹底的に、あることを考え抜いたが、その時は、答が出ず、生煮え状態。ちょっと休憩じゃないけど、ぼーっと関係ないことをやってたら、「突然」そのアイデアが「悩に降ってくる」。インスピレーション。ソクラテスの巫女の神託。
合原さんは、それらは、必ずしも、不合理、不条理な、神秘体験ではない、と言う。つまり、例えば、睡眠時や、リラックスしている悩の、裏っ側、バックグラウンドで、悩がカリカリ計算していた、というふうに考えるべきだ、というのだ。
こういう意味で、専門家は、その自らの、専門において、この上記の活動に専念してもらえるなら、多くの隅々まで考え極め抜いた、アイデアを提供してくれるだろう。専門家が不要になることなどない。
問題があるとするなら、上記でも言ったように、そういった立場の人たちが、その特権、その立場の有利さを利用して、「多角経営」を始めたときなのだろう。ある学者は、その分野では、大変な成果を上げられた。国家も一目置いて、それなりの、研究所を提供する。しかし、その学者は、その「国家御用達」の立場を利用して、お金を稼ぎ始める。お前のその研究は、その研究所の研究のために唯一使われると思っていたら、その研究成果を自分の私腹を肥やすビジネスに使う。しかしその、お前の能力は、その研究所が、さまざまな支援をしたから、研究に没頭でき、生まれた、と言えなくもない。
しかし、さらに、この学者は「進化」する。こうやって、人生の「勝ち組」に成り上ると、平気で、庶民を愚弄し始める。江戸時代で言えば、ちょっと気に入らないことがあったら、片っ端から、問答無用=切捨御免。いったん、この地位についてしまえば、こっちのものだと、自分たちの特権的階級に得になる政策ばかり推奨するようになる。国民を引っ張って行ってくれるはずの、リーダーが、より利己的で享楽的になればなるほど、社会の世相が乱れていく。だれも、人々は尊敬の感情をもたなくなる。しかし、そうは言っても、国家も、そういった能力者を無下に扱えない。
まさに、世紀末的な頽廃的な空気が世間を覆うようになっていく。
せいぜい言えることは、ノブリス・オブリージュじゃないけど、それなりのバランス感覚をもってもらえれば、そんなに、炎上することもない。自分の立場の「割合」に応じて、パブリック・サーバント的に(つまり、庶民に共感的に)振る舞ってもらっていれば、大抵、人々は、気にならないないものだ(そもそも、人は他人に興味がないのだから)。
最後に、やはり、例の、石原都知事「ババア発言」にふれないわけには、いかないだろう。石原は「ある科学者が言ってる」と今でも主張しているそうだが、そのネタ元は、松井さんのようで、これに関連した、松井さんのアイデアは、長谷川眞理子との、この本にある、対談からではないだろうか。

長谷川 男が長生きになるのは不思議はないのですけれど、女の人が長生きになるのは本当にわからないのです。男性の場合は生殖能力はだんだん低くなっても続くから、長く生きていていいわけです。病気などのストレスが取り除かれれば長く生きられるようになるでしょう。だけど女性というのはある日突然卵がなくなってしまうのに、その後なぜ生きているのかというのは、すごく進化論的に不思議なことなのです。

長谷川 そうですね。あれ[更年期障害]でみんな死んでしまうのです。哺乳類は全部そうです。だから、卵が出ないおばあさんというのがなぜ本当の意味で生きているかというのは、進化的には分からないのです。

この、長谷川って人は、いろいろ、進化論の通俗本を書いていて、物議をかもしているようですが、いずれにしろ、上記については、祖母の知恵による、娘が母親になるときの孫の生存率を上げることに、貢献しているのだろうという仮説をあげて、その説明としています。
これが、石原慎太郎、にかかると、以下になる。

  • 「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは「ババア」なんだそうだ。女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪ですって」。
  • 「本質的に余剰なものは、つまり存在の使命を失ったものが、生命体、しかも人間であるということだけでいろんな消費を許され、収奪を許される」。
  • 「そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね」。

どっかで聞いたような話ですね。
貧乏なユダヤ人は、どこの国も、そんなのいらないと「買ってくれない」。貧乏なだけで、なんの役にも立たないのに、食事代は、いっちょ前にかかりやがる。あんたたちにやる、「福祉予算、残ってねーんだ」。俺たちの、福祉で、せいいっぱい。リゾート旅行もやんなきゃってなると、もう、お金ないのよ。しょーがないよ、死んでもらうしかない。でも、一人一人、鉄砲使っちゃ、鉄砲玉が「もったいない」。裏庭に、毒ガスで、穴掘って埋めれば、ほとんど、「お金がかからない」。合理的、科学的。まさに、「エコ」だね。
石原慎太郎は、日本人は日本という「国家」のために、命を賭けない連中、使えない連中「すべて」が、余剰であり、「存在の使命を失っている」んだから、つまり、「この国家に役に立たないのだから、お願いだから、死んで下さい」、と言いたいんでしょうね。だったら、お前の言うその「ババア」を、お前の好きな、自衛隊の「鉄砲玉」にでも使ってみろよ。
民主主義制度において、国民主権によって、戦後、国民一人一人に、主権が発生している。つまり、だれもが、選挙の一票をもっている。「お前はどうせ、俺に投票しないんだから死ねよ」、と言ってるようなものでしょう。そんなに民主主義が嫌いなら、お前が、独裁国家にしてみろよ。
(もう、とりあげるの、3回目くらいですかね。一体、このアニメ、どれくらいの人が見てるんだろう)アニメ「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」の第10話は、主人公カナタの、喇叭手の教育係でもある、リオ先輩との別れの回となった。
リオは、村の外れで、一人で暮すジャコットお婆さんが、なんの冬の備えもせず、そこで、一人で生きようとすることに、怒りを爆発させる。なんで、こんな後向きな生き方をするのか。リオが、そのおばあちゃんにいらだつのは、彼女が、自分の母親に生き方が似ているからであった。彼女は、若い頃、妻子持ちの商人と、不倫関係になり、子供を授かる。その商人に子供がいなかったこともあり、その商人はその産まれた子供を連れてこの町を去って行った。ただ、「いつか帰ってくる」とだけ言って。
リオの母親も、不倫の関係から、リオを産んで、リオは母親と二人で隠れるように育った。リオには、母親が、そうやって、父親を待って生きる姿に、重なったのだろう。
しかし、ジャコットお婆さんは、自分の生き方を後悔していない、と言う。
リオは、その姿に、最後まで理解できずに亡くなった母親が胸にしまっていた気持ちが少し分かったように思ったのかもしれない。
リオは、自分が目をそらし逃げていたここでの人生を離れて、もう一度、自分のやるべきことをやるために、この砦を去る。

人類を救う「レンタルの思想」―松井孝典対談集

人類を救う「レンタルの思想」―松井孝典対談集