宇野常寛『ゼロ年代の想像力』

(だいぶ、意図した内容にならなかった。あまり、掲題の本の具体的な内容の検討を行っていませんが、その辺りは、むしろ、この本が自分の関心に似ているところが原因かと思いました。キーワードは地方ですかね。かなり、アフォリズム的で、箴言を並べるだけの文章になったところもありましたが、ただ、それだけに、その自分との差異こそ、少なくともはっきり書いておこうと思った、という言い方が正しいかと思います。)
私は、どうも、いわゆる「文系」の方々が、前提とされている、「自明性」に、違和感がある、というところから、考え始めてしまう。それは、大学試験を考えてみてもいい。国語の問題を読んで、三択のどれが正解かを選ぶことの、虚しさに似ているだろう。まず、この設問の意味とはなんなのだろう。それが、まったく、クリアになってこない。さらに、その、三つの答えが、なんだかよく分からない文章が、三行くらい並んでいる。言ってしまえば、こんなもの、問題作成者のマスタベーションのようなものだ。
一言で言えば、それらの「言葉」の、定義がない。あるのは、辞書的な、「語源的」な、「言い代え」だけ。
そういったところから、経済学や法学は、かなり、厳密な「形式化」を進めてきた、と言えるだろう。しかし、逆にそのことが、経済学や法学にとっての、クリティカルな部分を照射する形ともなる。
しかし、その事態は、別に、自然科学であろうと、数学、であろうと、変わらないのではないか。
学問は、どうしても、この問題に直面せざるをえない。
例えば、柄谷さんの主著、「探究」において、さかんに以下の問題が検討された。

たとえば ソクラテスという名の人間は大勢いるので、ソクラテスによって個物をあらわすことはできない。それに対して、ラッセルは、「これはソクラテスである」という文における「これ」が、真の固有名(論理的固有名)であり、究極的な主語であるとみなした。ラッセルのいう「これ」は、x (変項)である。正確にいえば、「x が在り、x はソクラテスである」という言い方になる。「ソクラテス」は、この場合、述語となる。これは、外延的にみれば、多くのソクラテスたちの集合であり、内包的にみれば、いわば「ソクラテスするもの」という属性である。
「これ」以外のすべての主語を述語とみなす論理学は、述語論理と呼ばれるが、それが完成するためには、ふつうの固有名を記述(確定記述)に置き換えられるということが前提となる。たとえば、富士山は、「日本一高い山」に置き換えられる。ラッセルは、特定の個物を指示しているようにみえる日常言語の固有名とは、「省略された、あるいは縮約された記述」であるという(「指示について」1905年)。それが、ラッセルの記述理論と呼ばれるものである。
それは、かつて固有名がもっていた例外的な特権(けっして述語にならない基体としての)をはぎとることである。固有名は、他の述語一般と同じ扱いを受けなければならない。しかし、そのことで固有名がもつ奇妙な性質が解消されるわけではない。実際、ラッセルも固有名を拒否したのではなくて、真の固有名を求めて「これ」を見いだしたのである。たしかに固有名は、個体としての対象が実在するという考え方の基盤になっている。先にもいったように、アリストテレスが実体としての個物を考えたのは、固有名からだといってもよい。それは、たとえば、ソクラテスと呼ばれる個体があるという考えにつながる。しかし、ラッセルが「これが在る」というとき、その存在論アリストテレスのそれとは決定的に違っている。
ラッセルのいう「これ」とは何であろうか。「これ」は、私が直接に注意を向けているもの、つまり知覚内容(percepts)のことである。ソクラテスと呼ばれるものが大勢いるのに、知覚内容としての「これ」は、そのつどただ一つのものしか指示しない。つまり、「これ」は私的な「内省」において見いだされるものである。固有名を解消するということは、実は、個物を private(ラッセル)な意識におけるあらわれとして見ることである。これが近代哲学の構えに属することは明瞭である。ラッセルによる論理学の形式化は、現象学的な構えのなかでなされている。というより、一般に、形式化は、そう見えないとしても、実際には「内省」においてしかありえないのである。

探究2 (講談社学術文庫)

探究2 (講談社学術文庫)

上記の試験問題の、あいまいさは、この「固有名」のあいまいさ、と同値と言っていい。だれだれがどうした。だから、その、だれだれ、が「定義」できないのだ。
ソクラテスとは、古代ギリシアの哲学者で、弁証法で対話相手に無知の知を気づかせて、...。
たしかに、こういった「説明」や「言い代え」を続けることはできるが、結局は、それは、ソクラテス、ではない。十全な定義とは言えない。結局最後は、「デルポイの神託を受けた人」、というような、「別の」固有名、で言い代えられていく。
学問は常に、この「固有名」の排除を目指してきたと言っていい。いや、学問と呼ばれてきたものは、すべからく、そうだったと言っていいのかもしれない。学問とは、「一般論」の別名なのだから。
柄谷さんが、ソシュールについて言及していたものも、そういった流れで考えられる。たとえば、私たちは簡単に、日本語などということを言う。しかし、そんなもの、どこに存在するのだろう。地方に行けば、その土地の方言がある。それは、日本語なのだろうか。もっと言えば、一人一人の話している言葉は、その人の、さまざまな体験を通して身に付いたものであり、それそれ違う。
違うのに、同じ???
だから、みんな、「日本語なるもの」ではないのだ。それぞれ、一人一人が話す言葉は、「その人語」であって、それ以上でもそれ以下でもない。
私たちは、だんだん、若い人たちとの会話が難しくなってきていることを感じる。なかなか、相手の日々の興味とツーカーにならない。無理に話題を合わせようとすると、チマタで言う、オヤジギャクになり、オヤジというキワモノ・ネタにされる。その場合、若者は「そのオヤジの言うことを理解する」のではなく、「そのオヤジという生き物を観察する」。オヤジの発する言葉は、「言葉ではない」。動物が発する「奇声」と同じなのだ。どんな場面で、どんな「嬌声を発するか」。心を通じ合わせることは、最初から目指されない、そういう対象ではないのだ。
しかし、そのことは、少なからず、あらゆる人に言えるだろう。なぜなら、だれもが、少なからず、「その人語」しか話せないのだから。
だとするなら、問題は、「それなのに、なぜ、現代は、それなりに、秩序が保たれているのであろう」となるだろう。日本は、ここ何年も、これだけ不況だと言われながら、街にでれば、それなりに、人々は秩序を保って、行きかっている。そこら中で、モメゴトが起きている様子もない。みんなが、それぞれ、違ったルールをもち、みんなが「それこそはルールだ」と思い行動しているにも関わらず、その違いを原因とする、トラブルが少ないことはどう考えればいいのだろう。
それこそ、ウィトゲンシュタインが「ファミリーリセンブランス」と呼んで検討したものだと言える。

この類似性は、「家族的類似性」とよばれている。それは、「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」である。

わたくしは、このような類似性を「家族的類似性」ということばによる以外に、うまく特徴づけるとこができない。なぜなら、一つの家族の構成員の間に成り立っているさまざまな類似性、たとえば体つき、顔の特徴、眼の色、歩きかた、気質、等々も、同じような重なり合い、交差し合っているからである。----だから、わたくしは、「ゲーム」が一つの家族を形成している、と言おう。
同様にして、たとえば数の種類も一家族を形成している。なぜわれわれはあるものを「数」と呼ぶのか。おそらくそれが、これまで数と呼ばれてきた多くのものと一つの----直接的な----連関をもっているからである。そして、そのことによって、それはわれわれもまたそのように呼ぶ他のものとの間接的な連関をもつようになる、と言うことができる。そして、われわれは、ちょうど一本の糸をつむぐのに繊維と繊維をよりあわせていくように、数というわれわれの概念を拡張していくのである。しかも、糸の強さは、ある一本の繊維が糸全体の長さをつらぬいているという点にあるのではなく、たくさんの繊維が互いに重なり合っているという点にあるのである。
ウィトゲンシュタイン哲学探究」67)

探究(1) (講談社学術文庫)

探究(1) (講談社学術文庫)

なぜ、それぞれに、起源も違う、村作法をもって、この都会で、一期一会を繰り返す人々のその作法が、たいていの場合、「不作法を起こさないのか」。つまり、ウィトゲンシュタインの言い方になぞらえるなら、「ある次元において」似ているから、ということになるだろう。しかし、だからと言って、お互いが「ぴったり重なる」ことはない(ということは、何を言っているかというと、「一般理論」が存在しない、ということである。ウィトゲンシュタインの後期の哲学は、俯瞰的な分析を放棄し、どこまでも、現場からの、非常に狭い視点からのアプローチを武器にしていきますね)。
どうしても、不透過性が残り、それが、パラノイアックな全体主義理論家には、耐えられない。「人間とは、こういうものだ」、とどうしても、どちらかに倒してしまいたくなる。
掲題の著者もそうだ。
「現代は、なにもかも、入れ替え可能、な時代だ」。
(これも、宮台用語の一つですよね。)しかし、そんなふうにどんなに、学者が主張しようとも、だれもそれが正しいなど「認めない」(しかし、これを、地域の環境の問題と考えるなら、完全に正しいのだが...)。経営者にとって、現代の、売り手市場の労働者は、よりどりみどり、入れ替え可能、にみえるとしても、あっちこっち行くことになる労働者の側には、それなりに違う現場だ。田舎のスーパーマーケットにしても、そういった、大規模チェーンを地元が受け入れることによって、商店街が衰退していく。なぜ、地元は、そういった、大型チェーン店を簡単に受け入れてしまったのか。そうすれば、このように、商店街が壊滅することは分かっていたのではないか。しかし、いずれにしろ、そういった、大規模チェーン店も、なにもかも、順調とはいかない。他店との競争も始まるだろうし(ネットショッピングなどとの競争もあるだろう)、なにより、地元民には、彼らの村作法がある。「徹底して、土着化しなければ、どちらにしろ、長続きはしない」。
(前の記事で引用した部分に再度戻るが)前にも書いたことだが、南京大虐殺論、戦後民主主義論、は、それなりに、科学的にアプローチできるのだろう。だったら、学者はその研究を愚直にやってればいーわけだ。しかし、そうやって、続けていく、証明活動が、なにが正しいかを決めるための議論であると勝手に極論しているのは、むしろ、この二人であって、だれも、そんなことは言っていない。科学とは、一つのルールに基いたゲームであって、実際、一方の側の証明活動を続けているうちに、相手に有利な証拠が決定的であれば、「今までの自分の研究成果を全て捨てる」。これが科学者でしょう。そういう意味では、最初から、大きな物語も小さな物語もない。
前から書いているが、そういった政治活動が、「現場レベルでの衝突を介したトラブル対応」以上に、マキャベリでいう、技術知、以上の、理論的な枠組みがありうるのか、ということであった。
著者は、さかんに、「選びたい大きな物語を選ぶ」事態を、問題視する。そんな選びたいものを選ぶだけなんて。そういった、自堕落な今の事態に対し、提示する著者の「処方箋」は、どこまでも、凡庸である。

同じように、決断主義者たちの動員ゲーム=バトルロワイヤルを終わらせるためには、いや、より徹底することで次のものへと変化させるには、これを批判するのではなく受け入れることからはじめなければならない。
私たちは、多様すぎる選択肢の中(もちろん、これはあくまで単一化の進むアーキテクチャーの枠内での選択である)から無根拠を踏まえた上で選択し、決断し、他の誰かと傷つけあって生きていかなければならない。この身も蓋もない現実を徹底して前提化し、より自由に、そして優雅にバトルロワイヤルを戦う方法を模索することで、決断主義を発展解消させてしまえばいいのだ。
ひとつの時代を乗り越えるために必要なのは、それに背を向けることではない。むしろ祝福し、めいっぱい楽しみながら克服することなのだ。

この、上から目線ですよね。上から、「これが幸福だよ」と押し付ける。
しかしね。お前や、東や、宮台や、こういった、(夏目漱石が言う)「高等遊民」に、地べたをはいずる、現場の人間のことを理解できる「はずがない」。しかし、それは少しも悲しい事態ではない。学問とはそういうもので、研究者は、自分の立場として、言えることを愚直に表明してくれてればいい。
著者は、最初の見出しで、保守主義の定義のようになっている、ある言葉を引用する。

変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さえを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を、われらに与えたまえ。 ----ラインホールド・ニーバー

問題は、「変えることのできるものと、変えることのできないもの」が、人間には、多くの場合、「非決定」だということである。人間には、どちらなのかが、いつまでたっても分からない...。
橋爪大三郎は、80年代に、ある野心的な本を書いている。

この本で、彼は、理論社会学とウィトゲンシュタインの「統合理論」を目指した。しかし、明らかに、失敗している。それは、その後、この延長の議論がまったく、あらわれないことからも明らかだろう。
彼の視点はよかったのだろう。ウィトゲンシュタインが、同じドイツを中心に発展してきた、理論社会学とどこか、異質であることから、この二つの理論の統合が、今の社会学のブレイクスルーとなるだろう。しかし、うまくいかない。一言で言えば、ウィトゲンシュタインが、あまりに、毛色が違うからだろう。彼には、どこか、不可知論の色彩が色濃い。それは、理論社会学の、「常に時の政権に理論的な回答を提示することを宿命づけられている」性質と、両立しないからなのだろう。ウィトゲンシュタインのこの、不可知論は、完全に、カントから、由来していると言っていいと思う。カントが強調する「理性の越権行為」は、この現代を席巻する、ヘーゲル的な(先進国によって主導される)平和プロジェクトと、どうしても、齟齬を発する。
ウィトゲンシュタインの「ファミリーリセンブランス」とは、ドゥルーズの「リゾーム」を理論的に補強するもと、と考えられるだろう。
たとえば、アニメ「デュラララ」第11話で、主人公の、竜ヶ峰帝は、自らが始めた、ダラーズのメンバーをメールで池袋のセンター街に招集し、製薬会社の犯罪者たちを、囲い込む。しかし、ここに集まってきた人たち、完全に、パンピーである。それぞれが、それぞれの出自をもち、それぞれの生活圏をもち、ただ時間があったからこの「オフ会」のようなものに参加しただけの彼らは、完全に、烏合の衆であり、ただ一緒にいるだけ。まったく会話すら、噛み合うことはないだろう。しかし、唯一共通していることは、帝からのメールを読んでいたことである。
おそらく、こういった「集団」こそ、21世紀における、大衆や「リゾーム」のイメージにふさわしい。彼ら全員が、同じ幸福イメージに統一される必要もないし、政治家の言う、説教や動員イメージ通り行動しなければならない、理由もない。
私は、以前紹介した、

アメリカ憲法の呪縛

アメリカ憲法の呪縛

を評価する。それは、この本における、政治学が、マキャベリ的技術知(テクネー)の集積しかありえない、という部分で一貫しているからだ(その評価が、著者の地方分権を重視するアイデアの起因となっている)。
政治という利害関係の場に、あらゆることに、答える、一般理論などない。もし、そんなものがあるとするなら、それこそ、プラトンが夢見た、独裁政治である。マキャベリ的技術知をベースに、現場から、つみ上げていくしかない、と思うのだが...。

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力