東浩紀『動物化するポストモダン』

(東京都青少年条例が話題ですが、それにはふれません。)
本当は、あまり、多くの人が議論しているような話題をとりあげるのは、嫌なのだが、この前、最近話題の、

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

を読んでいて、やはり、掲題の本について、ちょっと書いてみようかと思った。
宇野さんのゼロ年代本については、まだ、最初の方しか読んでいないが、ようするに、掲題の著者による掲題の本から始まる一連の議論に対する、宣戦布告と言っていいのだろう。
しかし、その議論は、一言で言えば、凡庸である。たとえば、著者によって整理される、ゼロ年代とは、小説「バトルロワイヤル」に代表されるような、サバイバル系のサブカルチャーが、近年多いことを重要視する(彼の分類では、桜庭一樹もこの中にはいる)。つまり、そこに、90年代から急速に普及した、ITネット文化とからんで、「新しい時代」に突入した、という認識があるということらしい(少なくとも、前半はそんなことが書いてある)。
つまり、それが、ゼロ年代が新しいフェーズに移行している、特徴として、批評家は現代を捉えるべきだ、ということらしい。しかし、つまらない指摘だが、バブル以降、さらに、冷戦崩壊以降、日本国内に、そういった深刻な対立や、挫折が蔓延していることは、明らかでしょう。だったら、そういったサブカルチャーばかりになるのは、当然でしょう。別に、なにか、新しい時代が始まった、みたいに吹聴することの方が、大人げないんじゃないですかね。
実際、宇野さんの書いている内容は、あまり、私の、このブログとも変わらないような、凡庸な、どこにでもあるような、昔からある分析の羅列にしか見えない。
ただ、はっきり言えることは、宮台さんをすごく意識していて、実際、彼の仕事も考察の対象になっていることでしょうか。
そもそも、社会学なるものをどんなふうに捉えればいいのでしょうか。

南京大虐殺が捏造か実在か、戦後民主主義が虚妄か否か、好きなほうを信じればよい。そのレベルでは、どの物語を選んでも変わらない。だからこそ東浩紀は物語の内容ではなく、その形式に注目し議論を展開してきた。
「真正な物語」をめぐる議論に意味がないという東の主張に、私は同意する。たしかに、物語の真正さ、比喩的に表現すればイデオロギーの選択には意味がない。現代社会においては、どんな物語も(究極的には無根拠であるにもかかわらず、決断主義的に選ばれた)「小さな物語」にすぎないのだから。だが、この「どんな物語を選んでも変わらない」という態度は、「ならば信じたい物語を信じればいい」という思考停止をなし崩し的に肯定してしまう。
「政治と文学」という古く、そして新しい問題意識に照らし合わせて考えるのなら、「政治」の問題としては、それで構わない。たとえば小さな物語同士の動員ゲームを調整する社会設計を組み上げ、その社会設計を担う権力の可能な限りの透明化、自由化を考える、という順序で進めばいいのだから、方向性はともかく議論の筋道は明白だ。
しかし、私たちは「文学」の問題----ひとりひとりがどう生き、他者と関わり、死ぬのかという問題から逃れられない。そのときに、物語の形式だけを考えていればよいのだと思考停止し、ただ動物のようにデータベースから欲望する記号を読み込み、信じたい物語を信じればいい、というのは安易な態度に他ならない。
ゼロ年代の想像力

社会学とはなんなのか、私は知りませんが、おそらく、柳田國男民俗学をイメージすればいいのだろうと思う。たとえば、マックス・ウェーバーは、どう考えても、政治学という枠組みだけで考えるには、あまりに広い分野の研究をしている。
ただ、発想は単純だと思う。
古代国家においては、朝貢政治が当たり前だった。つまり、帝国の皇帝は、世界の末端に関心もないし、そんなところに興味をもつ必要もない。必要なことは、そういった、世界の末端が、彼に「朝貢」に訪れることだった。そのことによって、相手が自分の野に下ることを潔しとしているかを判断すれば、相手は攻めてこないのだから、こちらがなにかアクションを起さなければならない、いわれもない。
その関係は、封建領主と、奴隷の関係も同じである。奴隷は、封建領主に、恭順の意を表明しているわけだから、封建領主は、彼らに対する、戦闘準備に、それほど関わる必要もない。
ところが、近代になり、奴隷制度が廃止され、帝国がなくなると、そもそも、国家のコントロールというものが、どういうものなのかが分からなくなる。なにをもって、「支配できている」とすればいいのか...。そういった場合、二つのアプローチがある。まず、現場を徹底して、調査することである。現場で何が起きているのか。その知をかたっぱしから集めることで、民人がどういった存在なのかの情報を「民人支配の道具にする」。もう一つが、統計である。現場一つ一つは、あまりに広く深く、完全な調査は望めない。だったら、その現場で記録されている、さまざまな情報の統計値を集めれば、なんらかの「全体を現した」傾向がつかめるかもしれない。
しかし、後者の問題は、その統計という、「いかがわしさ」である。もちろん、数学としての、統計学は、見事なまでに、道具としては、完成している。ところが、問題は、その「標本空間」や、計算の方向の選択、の恣意性にある。そこに、人間が介在する限り、さまざまなバイアスが入ると思って間違いない。
しかし、いずれにしろ、その意図するところは、「社会のコントロール」にある。つまり、政治学が、政治「内部」間の力学の学問だとするなら、社会学は、政治中枢から民人を支配するための道具、世界理論の研究、だと極論してもいいだろう。
もちろん、支配という言葉を使ったからといって、奴隷のようなものをイメージしなくてもいい。民人は自分が奴隷だと思わなければ、どんなに「実態として」奴隷的な扱いを受けても文句を言ってくることはない。
たとえば、民主主義という、多数決制度にしても、問題はこのシステムを使うことによって、国をコントロールできればいいわけである。国民のガス抜きになるなら、なんの問題もない。大事なことは、この社会のさまざまな取り決め、秩序が、維持できなくなり、国内のさまざまな個所で内戦状態が日常化し、応仁の乱のような、無秩序な状態が日常化する事態の回避、と考える。
その場合に、彼らが重要視することは、いわば、民主主義的プロセスを経ての、「人々の合意」となる。私はそれについて、以前、竹田青嗣さんの考えについて、書いたことがある。さまざまな、宗教の対立が続く。これらの「和解」はありえないのだろうか。それぞれの理論を徹底して、議論することで、お互いが納得できる地平に辿りつけないのだろうか。そうやって、統合主義者は、あらゆるトラブルは対話によって、合意できないことはないんだ、と考える。彼らが目指すことは、究極の統合理論である。
同じことは、大学の先生と生徒にも言えるだろう。先生は自分の持論を生徒に語る。しかし、その持論に違和感をもつ生徒はどうすればいいのか。反論してみてもいい。しかし、いずれにしろ、相手を論破して、ねじ伏せなければ、その反論は「和解できない」となる。生徒は、そのゼミを去っていくことになるかもしれない。
上記の引用で、宇野さんは、そういった政治的な政策プログラムとしては、動員ゲーム、は、きっと、有効なんだろうから、別に、それについて、なにも言うことはない、という態度をとりながら、結論としては、でも、実際の個々人「にとっては」、そういうわけにもいかないんでしょ、という、しごく「常識的な」(まるで、私のこのブログのような)結論になっている。
さて、では、掲題の本の議論の検討に入ってみたい。
まずは、著者の使う、メインの用語「データベース」、である。

ところがポストモダンの到来によって、そのツリー型の世界像は崩壊してしまった。ではポストモダンの世界はどのような構造をしているのか。1980年代の日本では、そのひとつの候補として、深層が消滅し、表層の記号だけが多様に結合していく「リゾーム」というモデルが示されることが多かった。しかし著者の考えでは、ポストモダンの世界は、むしろ図3bのような[深層(大きな物語)と自分の間を無数の表層が繋ぐ]データベース・モデル(読み込みモデル)で捉えたほうが理解しやすい。

その例として、著者はインターネットを例とするのだが、このデータベースのポイントは、その深層(大きな物語)が、なんらかの恣意性によって、「無数の表層となって、我々が知覚する、というアイデア」であろう。この是非はともかく、いずれにしろ、著者がそのイメージを、「リゾーム」の「言い換え」でしかないと考えている意味では、私は激しく同意する(私はむしろ、これから21世紀こそ、ヴィジョンとして「リゾーム」型のイメージが重要になってくると思う)。
さて、もう一つの用語「動物」である。

コジェーヴは、戦後のアメリカで台頭してきた消費者の姿を「動物」と呼ぶ。このような強い表現が使われるのは、ヘーゲル哲学独特の「人間」の規定と関係している。ヘーゲルによれば(より正確にはコジェーヴの解釈するヘーゲルによれば)、ホモ・サピエンスはそのままで人間的なわけではない。人間が人間であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。言い換えれば、自然との闘争がなけれなならない。

上記の宇野さんの引用でも、これほど注目された本でさえ、安易に、動物を堕落した人間くらいのイメージで使っているが、著者は、最初から、コジェーブの「厳密な定義」の延長で議論している。人間が人間であるためには、(コジェーブの意味での)奴隷としての人間が、主人と対決しなければならない、ことを意味している。その対決を通して、弁証法的に、「市民としての権利」を獲得し、「社会の和解」が成立する、という見通しとなる。
しかし、コジェーヴアメリカや日本のスノビズムを歴史の終り以降の人間として分析し、著者が、あくまで、その延長で考えようとすることの意味を考える必要がある。
確かに、フランス革命以降、世界の多くの国は、民主主義を制度としてとりいれ、国民主権を獲得したという意味では、「世界は終わった」。しかし、世界中の人々のだれも、「国民が主権をとった」などと思っている人はいない。貧富の差は、究極まで広がり、地元有力者とその他パンピーが、このロビーイング型政治システムで、「平等な一票」だと本気で思っている人はいない。
それはつまり、人間は今だに(コジェーヴの言う意味で)人間になっていない、奴隷のまま、ということである。しかし、その奴隷のままのはずの、奴隷たち一人一人が、それなりに自由を感じている(ということは、いずれにしろ、自由を享受していると思っている)ということの意味こそ、日本の江戸時代のスノビズムとの類比の重要性がある。
いずれにしろ、掲題の本の議論において、人々は、意味を議論しあうような「大きな物語」ではなく、たこつぼ型の、少人数のコミュニティの内輪ネタだけで、もりあがるような、もはや、意味など無意味な、キャラや萌えといった、自動車パーツのような、アッセンブリング的な表象イメージしかなくなっていく事態を(コジェーヴ的に)整理しておきながらも、そう単純にも言えない面にも注目する。

それを考えるうえで注目すべきなのは、この10年間、オタク系文化では、大きな物語の凋落と反比例するように、作品内のドラマへの関心がますます高まってきたという事実である。筆者はいままで、いまやオタク系文化において大きな物語は必要とされないと論じてきた。しかし現実には、『エヴァンゲリオン』以降、ノベルズのブームやコミックの物語回帰に見られるように、読者や視聴者を一定時間飽きさせず、適度に感動させ、適度に考えさせるウェルメイドな物語への欲求はむしろ高まっているように思われる。そして筆者の考えでは、まさにこの矛盾にこそ、データベース消費を担う主体の性質がもっともはっきる現れている。

そこから、掲題の本の後半は、物語そのもののパーツ化(テレビゲーム)と、心理学で言われる「解離」との関係が議論されているのだが(その辺りは、それ以前の、誤配や郵便的不安などの議論とも、つながるのだろう)、いずれにしろ、重要なことは、著者自身、現代の、「相変わらずの」物語優勢の事態を、重要視していることである(それを、上記の引用では「適度」と呼んでいるが、問題はむしろ、ここにあると言っていい。文学も確かに終わった。しかし、「適度」レベルでは続く、つまり、需要があるから)。
そういう意味では、上記の宇野さんのゼロ年代本での、「サバイバル系物語の隆盛」の強調は、なんら新しい事態ではなく、掲題の著者の議論の範疇の出来事と言っていい。宇野の議論は、そういう意味では、掲題の著者の議論を、補足しているレベルと言えるだろう。
ただ、一つだけ、付け加えておくなら、著者の言う、キャラや萌えが、さまざまに、コミュニケーションツールとして消費されることや、大きな物語でさえ、ネタとして消費されるということなのである。事態は、認識としては、宮台さんのブルセラ論を、完全に踏襲するわけで、あいかわらず、「まったり革命」は続いている(「まったり革命」とはコジェーヴ的世界の品の悪い言い換えにすぎないわけで、私は今でも、以前引用した、宮台さんの本

世紀末の作法―終ワリナキ日常ヲ生キル知恵

世紀末の作法―終ワリナキ日常ヲ生キル知恵

での柳田國男的な認識は、簡単に無視できないと思っている)。基本的に、この議論の認識から出発している、ということなのだろう。
コジェーヴ的世界では、主人と奴隷との闘争が展開されないかわりに、終わることのない、友達「共感 - いじめ」ゲームが続く。そういったネタとしては、宇野さんが言うような、サバイバルだとかの、倫理的な作法は「うざい」のだ(私のこのブログもうざいが)。コミュニケーションツールとして、自然に流通しないからこそ、あえて、著者は、こういったネタの拾い方をしているのであろう。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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