福嶋亮大『神話が考える』

なかなかおもしろかったですね。バランス感覚もあって、今後もたのしみな方ですね。
著者が、「神話」と言っているのは、直接には、レヴィ・ストロースや、ジャン・ボードリヤールや、ロラン・バルト。こういった、延長で考えているのだが、この本で、直接えぐりだされているのは、以下の場所になる。

たとえば、カール・シュミットは一九二〇年代の著書『現代議会主義の精神史的地位』でこう記している。

人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置によってよりも喝采(acclamatio)によって、すなわち反論の余地を許さない自明のものによる方が、むしろいっそうよく民主主義的に表現され得るのである。民主主義的な感情の力が強ければ強いほど、民主主義は秘密投票の計算組織とは違った何ものかである、という認識がますます深くなって行くのである。

シュミットは議会制に対して最も強力な批判を加えた思想家だが、この一節は、すでに綻びていた議会制の代替となり得るものとして提示されたものである。ここでシュミットは、統計(秘密投票)の原理と感情(拍手喝采)の原理を----彼の用語系では「自由主義」と「民主主義」を----分けている。その上でシュミットは、前者を批判し、後者においてこそ真の政治が顕現すると見なしている。
ここで「人民の意志」と言われるのは、それほど古い主題ではなく、政治学的には一八世紀のルソー以降に本格化した新しい領域である。それはさしあたり、不定型で揺らぎに満ちた大衆的欲望を指している。シュミットはこの新しい「意志」(欲望)というパラメータの処理方法としては、統計よりも感情が相応しいと考えた。柄谷行人が言ったように、このシュミットの論法は、まさに「拍手喝采」に基づくヒットラーの感情の政治そのものである。
その前提の上で、シュミットは「拍手喝采」の領域を最もよく体現するものとして「神話的なイメージ」を挙げている。「神話の理論は、議会主義的思想の相対的な合理主義が自明性を失ったということを示す最も力強い表現である。無政府主義的な著作家たちが、権威と統一に対する敵意から神話的なものの意義を発見したとすれば、彼らは無意識のうちに、新たな権威の基礎づけ、したがって秩序、規律および階層制に対する新たな感情の基礎づけに協力していたのである」。

著者は、上記の後で、ボードリヤールの認識を援用しつつ、上記の神話は、このインターネットの時代には、統計(無記名投票)、にこそ見られるようになっている、と補足する。
ここのところの私の関心は、どちらかと言うと、経済自由主義の方々が、むしろ、民主主義不要論を唱え始めていることへの、懸念であった。なぜ、経済がうまくいかないか。それは、政治が邪魔しているからではないか。または、政治の決定が、あまりに遅いから。
たとえば、G7が、G20、になることで、なにが起きているか。
なにも決まらなくなった。
各国は、それぞれの事情を主張するので、そもそも、決まらない。おそらく、これから、そういった、いらだちを反映するように、多くの、民主主義不要論がでてくるであろう。民主主義でやるから、衆愚政治になる。だったら、どうするか。この分野のエキスパートに決めてもらえばいい。その通りなのだが、そういう意味でいうなら、今だってこういうふうになっているわけだ。じゃあ、なにが、今に不満なのか。今は、エキスパートは、「最初の」どういう方向性に向かうのか、の判断だけは(つまり、マニフェスト国民の選択、つまり、選挙の産物(マニフェスト)となっている。たしかに、2大政党。なんの違いもなくなってきたことは確かだが。
ただ思うのだが、今せっかく、民主党という、リベラル政権になっているわけで、私たちは、リベラルに正論を通せば、どんなリベラルな政策も、「反論できない」政党が政権を取っているんだから、もっと、主張すればいいんじゃないか、とも言ってみたくなる。今まで、さんざん、自民党時代に、自民党政治を罵倒してきた、リベラリストの方々は、今こそ、もっと主張されたら、と思うのですけど、子ども手当や高校無償化、がいろいろもめたら、途端に大人しくなってしまった。
私は、「無記名投票=衆愚」論に、半分は賛成だが、半分は反対、の立場となる。それは、以前紹介した、

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

の立場を継承するからで、ようするに、「俯瞰的に」どちらが「正しい」かを自分が判断できない「はずだ」という立場をとるから、になる(不可知論)。近年の、集合知テクノロジーは強力で、みたいな議論は知らないし、興味もない。一見、衆愚な多数決になったとしても、それは「よりまし」的な、大衆知の反映だとするなら、そういった意見はそう簡単に無視できない。逆の観点で言えば、大事なことは、「より強力な」正当性の獲得だ、という考え方である。その正当性がより強力であればあるほど、政策は、強力に押し進められるが、より弱い正当性は、内部の反逆者を生みやすく、苦労する。無記名(ブログでいえば、匿名)であることは、その人の意見が、「自由」であることを意味し、多数決であることは、単純にYESとNOに分けることで、明確な意志を確認できる(この枠組みに反対の人は、投票をしないだろうし、投票率が低いということは、どんなに多数決で上回っても、正当性は低い)。
しかし、私たちの隣には、まさに、プロレタリア独裁を地で行く、中国があるわけで、こことの比較なしの議論は、無意味であろう。この国には、まさに「拍手喝采」の部分は多々ある。ありながら、やはり、大衆の欲望をすべてシカトするわけにもいかない。
上記のシュミットの延長で考える、「神話」とは、ある意味、カント以降のドイツ観念論ヘーゲルフィヒテシェリング)、や、フロイト以降のユング、こういったものの再評価、になるのだろう。なぜ、彼らが、カントやフロイトに反発したのか。それは、反発せずにいられなかったから、とも言えるのだろう。
逆に言うと、それによって、なにか新しいことを「言えているのか」という問題はある(柄谷さんの最近の著作

世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)

世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)

も、「はじめに」で書いてあるように、ヘーゲルの『法の哲学』の再評価から始まっている。当分は、そういったチャレンジングな時代が続くのではないだろうか)。
次に、この本でも、何度も、「縮約」という言葉がでてくる。情報をなんらかの方法で、「一般」化する、ということなのだろうが、その例として、JPEG があげられる。一般に圧縮というと、暗号化がある(そういう意味では、プログラミング言語も、こういった圧縮の一種である)。これは、暗号によって、復元可能という意味では、情報量は減っていない。他方、JPEG は、人間の視覚が、そもそも、本来の情報量を処理できず、知覚の時点で、「縮約」されていることを利用した、技術である。情報を均等に、間抜きしても、人間の視覚では、気にならない程度にできる、というアイデアである。
では、問題は、一般的な人間の間で交わされる情報が、「縮約」できるのか、となる。この本にもあるように、ルーマンのアイデアは「意味」という媒介で考える、というところにあるが、ここでは、いったん、その議論には立ち入らない。たとえば、今までこの問題が、どのように扱われてきたのか、と問うてみたい。すると簡単で、ようするにこれは、科学の場面での、帰納と演繹、の話だと分かる。

と言っても、外界がまったく何の作用も及ぼさないというわけでもない。フランスの社会学ブルデューの言葉を借りれば、そこには「屈折効果」が働くから。
たとえば、今あなたがマンションに住んでいて、天上から何らかの振動を感じているとしよう。それは上の住人が無意味に飛び跳ねているのかもしれないし、あるいは強盗と格闘しているのかもしれない。さらには、友人とどんちゃん騒ぎをしているのかもしれない。その有力が現実に何であれ、すべては「天上の振動」という情報に変換=屈折されて、あなたに伝達される。あなたはそれで上階に怒鳴り込みにいくのかもしれないし、諦めて寝つこうとするかもしれないし、あるいは警察に電話するのかもしない。いずれにせよ、あなたの行動は、可能な範囲内で変わってくる。

この「天上の振動」が、神話、である。著者は、「屈折率」という言葉で、この事態を整理する。「率」と言ってしまうと、その割合が算出が可能なように、形式化されているような印象がある。もちろん、あまりに天上の振動が、ただの振動のようなものの場合と、かなり、上の階の会話まで、けっこう聞こえる立て付けの悪いアパートのようなところには、大きな「違い」があるのだろうが、それを「率」と呼ぶことはどうなのか、と思う(上記の帰納と演繹でいえば、そこに、「法則」性があることを「仮説」としてしまえば、それにもとづいて「率」と言うことは、「正しい」ということも言えるようになるのだろうが)。
結局、科学というのは「仮説」の体系であって、「真説」が一つとして存在しないのが、科学なのだ、という特徴が分かってくると、こういう表現に慣れてくる。科学とは言わば、無限の未来に向けての裁判であって、決して決裁しない。
でも、実際に、多くの科学の知見を使って、商品が作られているじゃないか、というのは、一つの「帰納」の産物なんですね。だから、そういうふうに言うなら、ニュートン物理学だって、「指示」ということでは、「正しい」。問題は、リテラルな「一般表現」にこそあっただけで、これがマテリアリズム(唯物論)の立場なのだろう。
シュミットが、神話と言うとき、彼はそれが合意の調達に成功すると思って言っている。私は、こういったものを、別に否定しない。G20でなく、G7だろうと、別にどっちだろうと興味はない。問題は常に、正当性だったのだから、それが、神話というマインドコントロールでうまくいくと思うなら、勝手にやればいいし、歴史は常にそれでやってきた。大衆をポピュリズムと言ってみようが、大衆が本気で変えたいのなら、村一揆を起こしてでも変えるだろうし、そういった、
大衆史
を否定しても、しょうがないと思っている。
この本のかなりの部分は、村上春樹について書かれている。その内容が説得的かどうかは、あまり興味はないが、村上春樹レイモンド・チャンドラーによって理解しようという姿勢は、完全に正しい、とは私も思う。
村上春樹は、最近のものは読んでいない。ただ、今考えて印象的に残っているのは、『ノルウェイの森』の最初にでてくる、右翼の少年(「突撃隊」)だ。
毎日、朝、日の丸に敬礼するんだったかなんだっか、その辺りは思い出せないが、「僕(主人公)」と直子たちは、何度も彼の話で笑い合うわけですね。ところが、その彼は、突然、退寮し、まったく、行方知れずになる。
そのことで、著者は、この、どこか、頭の弱い、純粋なところのある、少年が、都会の人間関係に傷つき、人生を続けられなくなった(サナトリウムのようなところにでも行ったってことでしょうか)、ことを示唆しているんだと思うのですね。
ただ、なぜか直子は、この彼の話を聞くとき「だけ」は、純粋に楽しそうだったわけですね。
明らかに、直子がこのエピソードを聞いて幸せそうにしているのと、「僕(主人公)」がこのエピソードを話して、おもしろおかしくなっているのとの、その態度が明らかに違っているし、お互いがその違いを分かりあっていない。
そうやって考えると、「僕」と直子は、
まったく心が通い合っていない。
作者は、こういった、「僕」という

を書くのがうまいですよね(村上さんは、こういった構造に、かなり自覚的だったのじゃないだろうか、と再評価してみる)。
「僕(主人公)」は直子が死ぬということを本気で考えていない。ところが、直子は十分に「覚悟」している。大事なことは、彼女が死ぬことに「僕」が、ほとんど「無関係」の構造になっているわけですね。まったく、コミットできていない。「僕」がどこまでも、この感情をひきずり、傷つくのは、どこまでも「僕」が、直子に対してなんの影響も与えられなかった構造になっていることを自覚しているからなのだろう。そう考えると、あの右翼の少年のエピソードを、なぜ、わざわざ、作者は、前半においたのか、みたいなことが、ちょっと分かってくる。
つまり、この本の文脈で言えば、「僕(主人公)」にとっては直子は神話だったが、直子にとって「僕」は神話でなかった(むしろ、彼女にとっての神話は、その右翼の少年だった)。
こんな感じだろうか。つまり、言いたかったのは、こんな村上さんの本について、延々と書いている掲題の著者も、そんな掲題の著者の主張を読んでいる私も、自分がいかに、その
右翼の少年(「突撃隊」)
の側の人間であるか、を自覚できているか、なんだと思う。しかし、それは悲観することではない。だって、あの、
直子が最後まで肯定した、
立場なのだから(あいかわらず、好き勝手な、意味不明な文章で、すみません)。

神話が考える ネットワーク社会の文化論

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