井田徹治『生物多様性とは何か』

生態系というアイデアは、多くのことを考えさせる。
たとえば、友敵というアイデアがある。人はだれでも、友達とそれ以外で区別する。友達でない存在は、状況によって、敵と分類される。
しかし、生態系のシステムにおいて、この分類はどうなるのだろうか。ライオンは、たしかに、シカに襲いかかり、食料とする。しかし、シカがいなくなったら、ライオンは食料がなくなり、存在できなくなる。実際、ライオンだって、「食料として」必要なだけで、死肉を保存できるわけもないので、かたっぱしから殺すことはない。お腹いっぱいになって寝ているライオンの近くを、シカが歩いていく。
つまり、ここでの、友と敵は、ある意味での、均衡関係を、「アプリオリ」に要請されている。
しかし、話はこれで終わらない。つまり、この関係は、地球中に「繋がっている」。植物性プランクトンから、クジラやイヌワシまで、完全な均衡関係になっている。
近年話題になった、ハチの大量死は、非常に重要な事態と考えられた。ミツバチこそが、さまざまな植物の受粉に大きな役割を演じていたため、彼らが、急にいなくなるということは、動植物「ことごとくの」大量死を帰結するのではないか。
そこで、海外から、より繁殖力の強いハチを放したとしたら、どうなるだろうか。たしかに、一見、元に戻る。しかし、誰もが不安に思う。同じハチでも、種類が違う。以前は存在しなかった、種を、別の環境に持って来て、本当に大丈夫なのか。上記で言う、
均衡
は保たれるのか。こういった事態は、この資本主義社会では、日常的に起きている。毎日、飛行機や船で、世界中の生物が、この日本にも、連れて来られている。こうやって持ち込まれる生物が、もし、この日本の生態系に定着したとき、どういった影響を与えるか。
資本主義は、分業のシステムとして、各機能を、物流や通信などで、「繋ぐ」。しかし、それによって、さまざまな、自給自足をしていた頃にはありえなかった、「移動」が起きる(つまり、交通)。
ただ、そういったものは、以前から、渡り鳥のようなものによっても、人間の移動によっても、風に乗っても、来ていなかったのか、といえば、そんなことはない。
つまり、人間活動によって、そういった移動が桁違いの速さで動いている、ということなのだろう。
さまざまな人間活動が、この地球の生態系に、どういった影響を与えているのか。
さまざまな発展途上国プランテーション農場をやるのは、それが世界的に売れる商品になる、という経済上の理由から、となる。つまり、分業ということなのだろうが、本当にそれでいいのか、はあるのだろう。自給自足を考えるなら、その土地の人たちが食べるものをその土地で作ることこそ優先すべきことのように思うが、
その土地の人に売るより、先進国の人たちの方が、高く買ってくれる。
ここのところ、日本のサブカルチャーでは、セカイ系という言葉がはやった。私たちの日常の、学校で授業を受けたり、恋人とケンカしたり、ということが、
このセカイの浮沈と直結する。
しかし、なんのことはない。最初から、繋がりまくりなのだ。マグロを日本中が世界から買い漁る。マグロだけじゃない。あらゆることが、先進国の都合で動く。
こういった問題を一言で表現するなら、生物多様性(バイオダイバーシティ)となる。生物の子孫保存の方法(タクティクス)は、さまざまに違っている。同じ生物といっても、種によって、遺伝子を未来に残す戦略は違う。多くの高等生物は、受精という戦略をとる。つまり、遺伝子の組み合わせ、である。しかし、そのためには、種は一個体だけいても、しょうがないのだ(ここに、個人主義アポリアがある)。同一の遺伝子は、同一の環境の傾向に、適合したり適合できなかったりする。しかし、これが「全て同じ遺伝子」なら、どういうことになるだろうか。一気に、極限まで増えるか、一気に、極限まで滅びるか、のどちらかになるだろう。ということは、どういうことか。アプリオリに、種は、多様性を「要求されている」ことを意味している。
生物は、最初から、多様でなければならない。そうでなければ、未来に存在できない。ところが、この人間活動によって、直接または間接に、生物の間引きが起き、生存がおびやかされる。
さて。こういった事態に対し、学者たちの処方箋とは、いかがなものなのでしょう。

進歩してきた自然再生の手法を活用し、生物多様性保全と回復を図る上で注目を集めている新しい考え方に、「ノーネットロス」というものがある。
開発の際に、これまでは不可避とされてきた生態系や生物多様性の損失を実質的にゼロにしようというのが「ノーネットロス」の考え方だ。生物多様性の危機を招いた大きな原因は、湿地の埋め立てや森林の伐採、沿岸の埋め立てといった生物の生息地の破壊だった。先進国では環境影響評価の法制化などが進んだが、結局は自然の生態系が失われてきたという反省がる。
ノーネットロスは、1950年代後半にアメリカの開発規制と生態系保護の法体系の中に最初に盛り込まれた。森林や草地を開発して住宅地や工場などを造成する場合、どうしても生態系の破壊は避けられない。この場合でも、開発地の周辺に、開発によって失われるのと同等の生態系を復元、再生することで、生態系の損失を実質的になくすことを目指すのである。
アメリカでは、開発時に生態系のノーネットロスの実現を義務付けたことによって、各地で事業者の出資による自然生態系の再生や復元が進み、また再生された自然や生物多様性を評価する手法の開発も進んだ。

私たちは人間である。人間には人間の方法でしかアプローチできない。そして、その工学的な自然再生の手法の発達とともに、生まれてきたアイデアが、
周縁
であった。私がこの毎日暮らす、生活圏は、一つの数学的なモデルと言っていいだろう。それは、その「機能」や「構造」を満たしていれば、コンフォタブルであって、十全なわけだ。しかし、この自然環境は「稠密」なのであって、その生活圏の「後(うしろ)」には、無限の「空間」が存在する。都市計画において、人間が生活する視点の部分を設計すれば、ある意味、「人間にとって」十分なのだが、「あえて」その後を設計する。つまり、そこには、
徹底した、生物ダイバーシティをサバイブさせるための仕掛け
を。人間が日々生活するには、意識しないその周縁を、人間が生存していくには、なくてはならない、環境として、維持していく。
しかし、話はここで終わらない。もし、環境が「価値」つまり、「人間にとっての」価値だとするなら、どういうことになるだろうか。当然そこには、
交換
が生まれる。つまり、マルクスの言う資本論が適用される。

温室効果ガスの場合、実現された削減分を「排出枠(クレジット)」として国際市場で売買する「排出量取引」の制度が欧州連合(EU)諸国をはじめとする各国で始まっている。生物多様性の場合もこれにならって、ある場所で実施した生物多様性保全や生態系復元などの「価値」を、温室効果ガス排出枠と同様の「生物多様性クレジット」として蓄えて、それを売買する取引市場が考えられ始めている。

アダム・スミスマルクスが構想した、資本の論理は、その
論理性
にこそ、本質がある。その論理を徹底するとは、どういうことなのか。「あらゆる」価値の市場化。あらゆる、倫理的要請が、「価値」だとするなら「当然」、その
市場
が生まれる。意外にも、世界は倫理的な「徹底」が実現されていくのかもしれない。むしろ、私たちがその可能性に気付いていないだけで...。

生物多様性とは何か (岩波新書)

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