野口さんの経済エッセイ

ここのところ、野口さんの、経済エッセイが、おもしろく、よく読んでいる。
野口さんが言った、「経済学は常識学」、っていう言い方が、おもしろく、気に入ったのだろうか。そうやって、この人の書いているものを読むと、その「姿勢」が、よく分かり、好感がもてる。
たとえば、円キャリーの話がある。なんで、日本は、こんなに、低金利なのか。よく言われるのが、あまり金利が高くなると、国債の利子も上るから、困るみたいな。しかし、その問題を考える前に、そもそも、金利が低くて助かるのは、企業だろう。個人の貯金が増えないわけで、あきらかに、ここには、企業優先の考えが反映している。最近は、日本の法人税は高すぎて、国際競争力がどうのこうの、ということを言うが、まずもって、ここまで、低金利なのだから、企業は、それなりに優遇されているんじゃないのか、とも言ってみたくなる。
しかし、世界の中で一国だけ、この極端な低金利政策で、世界中のギャンブラーは、日本円にベットして、利ざやを稼ぎまくる。だいたい、これだけグローバル化が言われてるのに、「日本だけ」というのは、なんだったのだろうか。
円キャリーという「錬金術」は、たいしたもので、ほんとうに、うちでのこづちのように、お金がどんどんどんどん増える。笑っちゃうくらいに。これが都合がよかったのは、これによって、円安になっていたことであった。日本車を海外で売れたわけだ。ところが、リーマン・ショック。それ以降、笑っちゃうくらいに、円高になりましたね。

サブプライムローン問題の影響で日本の株価が下落したのは、前回述べたように、サブプライムローンを組み込んだファンドが日本にあって、それが値下がりしたためではない。そうではなく、欧米金利の低下によって円キャリートレイドの巻き戻しが生じて急激な円高になり、それが輸出産業の収益に悪影響を及ぼすと考えられたためだ。
この背景には、日本の異常な低金利と輸出産業中心の経済構造がある。つまり、今回の騒動は、古い産業構造を維持しつつ、異常な低金利政策を継続したことのツケである。新しいタイプのリスクが日本にも登場したために起こった問題ではない。円高と輸出産業という、きわめて古典的なルートを通じる株価下落だ。
実際、仮に日本が異常な金融政策を継続していなければ、円キャリートレイドが大規模に行なわれることはなく、したがって、円巻き戻しによる円高が起こることもなかったろう。また、輸出産業中心の経済構造から脱却していけば、為替レートが円高に触れたところで、日本企業の収益が大きな打撃を受けることはなかったろう。
screenshot

いつのまに、日本はアメリカの国債をこんなに買ったのだろうかと思うだろうが、あれは、為替介入のときに、買いまくったのだろう。しかし、為替介入って、円高にあまりに行ってしまうと、日本の商品が海外で売れないから、円でドルを買う。つまり、アメリカの国債を買う。でも、これって、中国が、ドルペッグとか言ってやってる、「固定相場制」とほとんど違いがありませんよね。そもそも、あんまり円高になると、売れないからといって、無理に円安にするために、国がお金を使いまくるって、なんなのかな、とは思ってしまう。まあ、アメリカの国債なんだから、それなりに、値段はつくのだろうとは思うけど、日本と中国とインドが、アメリカの国債を買わなかったら、アメリカはあんなに軍事費を使えないんでしょうかね。
そう考えると、イラク戦争サブプライムローンも、みんな日本のせい、ということになって、リアル・セカイ系、って感じ。
こういう話を聞くほど、こんなになるんなら、もう、ものづくりなんてやめてしまってどうでしょうか、とは言いたくなるってものでしょう。
円安にするために、ここまで、国がお金を使う。ということは、日本の「モノ」を、国が買ってるのと、あまり変わりがないのだろう。
当たり前の話で、近代工業品を作ると、その地域の土地や物価が上がっていく。でも、そうなったら、その地域より、ほかの、物価も土地も安い国で作った方が、もうかりますよね。一度は、中国に行って、物価も土地も給料も安い、と。それで、企業は、利鞘がすごい、と。でも、そのうち、物価も土地も給料も上がっていく。中国は今は、ドルペッグで、無理矢理、為替介入(ドル国債買い)で、中国製品を安くして、世界に売ろうとしている。でも、早晩、無理がたたる。インドの方が、いい条件だ、とインドに移動していく。そして、また、別の所へ...。
これが、経済、ですよと言われますと、はあ、そうですか。ようするに、技術と経済は違う力学で動いている、ということだと。
(そもそも、世界中の、この物価の差って、なんなのだろうか。やはり、交通の便や、住みやすい地域かどうか、なども関係しているのだろうか。)
つまり、近年中に、そういった中小企業のモノツクリは、「重要文化財」的な存在になっていくだろうし、むしろ、そういう形で、今から、知の継承をできる体勢を調えることの方が重要なのかもしれない。
じゃあ、そこまでして、日本の方々、ものづくりをされてるって、なんなのかいな。やっぱり、こういった、「ロボット」(フィギア)信仰、偶像崇拝的な、アニミズム的な日本人の感性が、やらせている、と言うべきで、むしろ、もうけをどがえしで、
楽しい
からやってるのだろうか。だとすると、これを「ガラパゴス」とか言ってるのは、まさに、「自虐」史観(こっちは間違いなく真正ですね。歴史教育の方は、トンデモっぽいけど)。いつも思うけど、文系の「ブリッジ」たちが、世界中のさまざまな、地域に営業にかけにいく、その営業能力の「非力」を、「ガラパゴス」という言い訳に使っているだけのようにも思えてくるんですよね。だって、変でしょ。「ガラパゴス」だって言うなら、ちょっとアレンジして、その地域に合うように、変えてもらえばいいんじゃないんでしょうかね。ガラパゴスってことは、「やりすぎ」ってことでしょ。ということは、庶民向けだろうがなんだろうが、「高級品」ってことでしょ。
日本の、TRON OS が外圧で、抑圧されてきた過程とか思い出すと、思いっきり、ナショナリストになりたくなりませんかね。むしろ、これだけテクノロジーは、オープンになっているわけですから、もっと、保護貿易的であってもいいんじゃないか、と言いたくもなる。
話は変わるが、私は、最近の、アップル社のエンベッデッドな製品の流行を見ながら、もう一つの、「オープンソース」勢力との、台頭を予感している。たしかに、こういった企業製品ものは、開発も早く、市場の独占も早い。それに対して、「オープンソース」勢力は、対応が遅いし、あまり、初心者向け、という意識がない。でも、少しずつは広がっていくのではないか。
私のコンピュータのイメージは、emacs エディタに近い。このエディタは、lisp 言語で書かれているだけでなく、いくらでも「この中で」プログラミングができる。ブログで文章を書くように、エディタでプログラムを書いて、エディタ自体を、
違うエディタ
にできる。こういった感覚こそ、私のコンピュータのイメージに近い。いろいろ日々のことをエディタで書きながら、そもそも、この環境自体があまり、コンフォタブルじゃなかったら、自分で作り変えてしまう。そこに、ライセンスもなにもない。だって、自分が不快なんだから、自分で快感になるように、変えるしかない。
大事なことは、この二つに区別がないことだ。
ただ、こういう感覚は、最近はあまり主流ではないように思える。SAP の思想にしても、「全ての企業が、この SAP のアイデアに、むしろ合わせて、企業活動をすべき」というところにあるわけですし、コンテンツの消費ということでは、それは合理的でもある。ただ、私がここで言っている、コンピュータ・ハッキング・ライフは、そういう発想をとらない。長い年月をつき合う、こういった、世界が、自分に合わなければ、続かない。それを無理矢理慣れろ、という「民主主義」は、性に合わない。だれもがだれもの「気づき」のプロセスがあるはずで、人それぞれの段階を踏んで、「発見」していく、というようなのが、私のコンピュータ・ハッキング・ライフとしては正しいと思う。だったら、自分が長く続くように、快適な環境に作り変えればいい。しかし、それは、誰がやるのか。自分のことは自分でやればいいし、最終的には、それしか答えはない、という考え方だ。
(そういう意味でこれは、かなり、スローライフに近い、と思っている。)
コンピュータライフは、三つに大別できる。

  • エディテイング(文章作成作業)l
  • プログラミング(コンピュータ命令記述)
  • カリキュレーション(計算)

一般的には、これらの他に、「コンテンツの消費」がある。ただ、これは、受動的なものであり、別に、コンピュータに限った話ではないので、あえて、同列にしない。
今週の、videonews.com は柴田明夫さんで、石油文明の終焉、についての話であった。メキシコ湾の石油流出は、そもそも、なんで、メジャーは、あんなリスキーな海底深すぎな所を掘らなきゃならなかったのか、となるのだが、つまりは、その他の浅瀬の石油は、みんな、どこかの国の「国有」になっているから、自由に掘れなくなってきている、ということらしい。それにしても、国有ということは、どういうことか。つまり、それぞれの国の都合で、簡単に、石油が、世界市場に流通しなくなる、ということを意味している。ちょっとした保護貿易で、簡単に、石油ショックの再来、ということである。
なぜ、石油なのか。それは、石油のエネルギー濃縮の濃さにある。これだけ、エネルギーが濃くあるものは、他にほとんどない。それだけ、使いやすい、エネルギーということらしい。
しかし、上記のメジャーの行動にも分かるように、石油は、いずれなくなる。ところが、中国やインドも市場化してきて、世界中で、「これから」石油を使いたいのだ。
あと何十年かすれば、すぐに、石油をあてにできない「世界」がやってくる。それなのに、私たちは「今」、おもいっきり、石油無駄使い、しまくり、である。
じゃあ、太陽光発電か。しかし、こんなの少しも「濃くない」。ぺらっぺら。しかも、夜や曇りの日は、まったく、増えすらしない。
私は、「今はなんとかの時代だ」みたいな議論が大嫌いだ。どうせ、いずれ、江戸時代のような生活を人々はし始めるに決まってるのに、そんなこと言っててなんになる。しかし、もし、そうであっても、なにかが変わっているとするなら、それはなんだろうか。サイエンスであり、そういった、文化的な蓄積(や、そういったものへの誇り)、じゃないだろうか。