ロラン・バルト『文学の記号学』

また例の、福嶋さんの紀伊国屋新宿店で紹介している一つ。バルトの、コレージュ・ド・フランスの講義録。
私は、ほとんどネットって見ない。読まない。読むとしたら、ニュースくらいで、たまに、自分の興味で、いろいろ読んだりするけど、まず、定期的に読むというのがない。
基本的に、ネットは落書きだ。多くの記述は、ほとんど、本人の「忘備録」。メモ帳だと思っている。今まで多くの人が、学校で授業を受けるときには、ノートに書いてたように、会社で指示を受けたら、メモ帳にメモしてるように。
じゃあ、なぜそれを「公開」しているのか。たいした意味はないんじゃないだろうか。
私は、人々の「知識の非対称性」を重要視する。多くの人たちは、真面目でも、真剣でもない。基本的に、勉強をしない。例えば、ある方が、多くの本を書かれている。しかし、そういった発信される情報の「全て」をリアルタイムで、トレースしている人って、ほとんどいない。いるとしたら、出版関係の人たちか、卒論のテーマにでもしようと大学で勉強している学生か、あとは、相当のマニアか。
基本的に、シロートは、忙しい。毎日、やることがある。それが、他人にどんなに、どーでもいーことにしか見えなかろうと、こっちは、それで飯を食ってる。もちろん、定年までこんなことやれるのかと考えれば、バカな話に思えるだろうが、他人の飯のタネをどーのこーの言われる筋合はない。
いずれにしろ、多くの人たちは、「偏見」の塊なのだ。みんな非常に、極端に偏った情報をまるで「全体」のように考える。
こいつ、なんにも分かってないな。てゆーか、「だれ一人」分かってねーじゃん。みんなゴミ。
でも、それが「現代」なのだ。
そういう意味で、学者の価値というのは、なにも変わっていないのではないだろうか。彼らは、いずれにしろ、「歴史」を勉強している。歴史とは、高校の授業でやるようなことを言っているわけではない。例えば、ある理論物理の研究をしている人がいる。とする。彼は、ある定説の周辺の定理の研究をしている。もう少し、この辺りに、知見を拡げられる分野が開拓できるのじゃないか。
そういった、学者は、少なくとも、その分野の研究の「歴史」に通暁する。何年に、誰が、どんな定理を発見したか。次に、それを踏まえて、誰が、どんな命題に至ったか。そう考えると、彼が、こういった方向に考えを延長させていったことは、自然に思える。
これが、歴史である。
しかし、である。こういったことは、非常に多くの時間を要求される。そう簡単に確保できるような時間ではない。ちょっと、会社なんか通っている場合じゃないだろう。金持ちの道楽でやらせてもらうか、あるいは、学校の先生のように、
これを仕事にしてしまう
か。それくらいでないと、どーしよーもない。
つまり、「それくらい」でないと、話のレベルが低すぎて議論の叩き台にすらならないわけだ(それが、私がネットをゴミだと言う意味になる)。
人それぞれで、知識が非対称的、だということをどう考えたらいいのだろうか。
一つだけ重要なヒントは、ネットは確かにゴミかもしれないけど、
インデックス
付きだということだ。つまり、そこには「索引(さくいん)」がある。つまり、「専門家への入口」がある、とも言えるわけである。実際、多くの「専門家」も、このネット空間上で発信しているわけで、そういったものの、それなりの割合は、実際、レフリーにジャッジされた論文でもあるのだろう。
しかし、こうやって、つらつらと、まるで私の持論のように「正論」を開陳しておきながら、以降、まったく逆のこと(のように聞こえること)を言ってみようではないか。
ネットに書いてある、それぞれは、それぞれその「専門性」がある。
たとえ、どんなにつまらなく、退屈なだけの記述の羅列だったとしても、そこには、ある「専門性」があるのではないか。つまり、各個人は、その人にとっての、「専門性」を生きている。つまり、その人のさまざまな今まで生きてきて、考えるようになる、側面から、書かれているわけで、これらとまったく同じ「側面」をもつ人は「この世にこの人しかいない」。

文学は、言語活動を単に手段として利用するかわりに、見世物として舞台にのせる以上、知を無限反射の歯車に巻き込む。エクリチュールを媒介として、知は、もはや認識論的ではなく演劇的なものとなった言説に従い、たえず知を反射(反省)することになるのだ。

掲題の本では、何度も「権力」という言葉が登場する。つまり、逆なのだ。
あらゆる権力の現場は、言葉のアリーナ、
だということだ。そもそも、どうして言葉が人々を「強制」するのだろう。法律が犯罪者を逮捕し、国家は死刑にする。アメリカは、アメリカ国民を徴兵して、イラクに連れて行き、一気にバグダットを陥落し、フセイン像をぶっ倒す。すべて、言葉による「命令(コマンド)」を伴う一連の事態だ。
こういったことは、人々に、ある「錯覚」をもたらす。たとえば、この地球上の「言葉」を、意味も分からずに、監視している宇宙人がいるとする。彼らは、なんのことなのか分からないけど、とにかく、言葉と言われているものを、収拾する。そして、ただ、ひたすらそれらを眺めるのだ。するとどうなるだろう。彼らは、
ある規則性
に気付くのではないか。どうも「同じようなパターン」が、
ずっと生き残っていく
というような表現がふさわしい。これが、リチャード・ドーキンスの、「ミーム」のアイデアであった。どうも、言葉も生物の遺伝子と同じように、
さまざまな媒体上をヴィークル(乗り物)として、
さまざまな言葉のパターンが、「生き残っていっている」ように見える。もちろん、そのヴィークルの一つとして、「人間」もいる。人々がよく口にする、言語パターンは、
一つの「種」
なのだ。その「言語パターン民族」は、繁殖力が強く、よく、人々の口に登り、それを聞いた、人々は、影響を受け、考え込むようで、今までそんなことを一度も口にしたことのない人でも、その日を境に、まるで口パクのように、吹聴するようになる(繁殖地域の拡大)。こうやって見ると、これはなにも、人間に限る必要もない、
ネットというヴィークル
だってそうだ。実に、さまざまな「言語パターン」が、拡がっては、一斉を風靡し、多くは衰退し滅びていく中、一部のアイデアは何度も何度も呼び覚まされ、復活を遂げ、まるで、
生きた化石
のように、生物誕生(言語の誕生)と共に、サヴァイヴァルするものもある。
どうも変だな。私はこれを錯覚と言ったわけだが、本当にそうなのだろうか。これにはこれの、リアリティがあるのではないだろうか。
こういった考えを、「構造主義」と言う。私たちは、人間である。人間は、ある行動をとるときには「意志」によると「当然」思っている。ならば、あらゆることは、その意志の中身を分析すれば、分かると思う。しかし、案外そんなに単純でないことが多い。
キリンは木の上にある、若芽が食べたい。あんなに緑に生い茂っていて、水々しく見えて、もうちょっと、首が伸びたら、食べられるんだよな。もうちょっと、あとちょっと...、やった食えた。こうやって、なんでも努力してみるもんだな。やっぱりなんでも、「やろう」って思わないことには始まらないね。
これが、ラマルク流「聖書進化論」。努力した分だけ報われるんだよ。しかしね。ちょっと考えてみてよ。そもそも、「最初」っから、首が長い奴らは、
生き残りやすい
環境ってことなんでしょ。どういった個体が生き延びやすくて、どういった個体が早死しやすい環境なのか。こんな、木の上の若芽が、「比較優位」なビジネスモデルなら(他の動物(競争他社)に容易にマネされにくい)、あまり「個人の意志」は関係なかったみたいですね(つまり、首が長い個体が優位の「構造」がそこにはある、ということ)。
多くのことは、さまざまな構造関係で決まる。むしろ、誰も意識していない結論の方が多い。例えば、ある法律があると、自然と人々は、ある傾向の行動をしやすくなる。つまりこれをどうして、「ある構造」があると言っていけないのだ、となる。
そうなると、もう、めんどくさくなるのである。
一回、人間の存在を「忘れてみません」?
もう、この世界、言葉(記号)しかない、ってことにしてみません?
(少なくとも)自分のことを棚に上げて。
そうかー。やっぱ、言葉って、なんかあるよなー。そこには、きっと、すごいことが眠ってるんだよ。これを「比較」「分析」すれば、きっとなにか、すごい
錬金術
が埋まっている。いや違う。そう考えたっていいくらいの、
幽霊(マルクス共産党宣言」)
が、そこから動き始める。きっとそうなはずだ。そうでないはずがない。だって、それくらい「すごい」んだから。
そんな勢いで、バルトが、今、ここで、はなばなしく立ち上げる学問
記号学
を胸張って、宣伝されてるのかなー、と思って読んでみると、なんだろう。全然、そんなことがないことが、意外なのだ。

私がいま話している記号学は、「消極的」なものであり、能動的なものでもある。言語活動という魔の仕業が、良きにつけ悪しきにつけ、一生のあいだ、身内で盛んにおこなわれてきた者としては、言語活動の空虚性----これは空疎であることの正反対である----のさまざまな形式に魅惑されざるをえない。それゆえ、ここで提案される記号学は、消極的なものとなる----あるいはもっと適切に言うなら、用語はいかにも重苦しいが、「否定神学」(apophatique)なものとなる。それは、この記号学が記号を否定するからではない。記号学に対して、積極的な、固定した、非歴史的な、非身体的な、要するに科学的な諸性格を付与しうる、ということを否定するからである。

これこそまさに、ここのところ私が言っている「保守主義」的な知性と言えるだろう。そういったものは、相対的なものであり、歴史的であり、連続から考えることを要請されるような、そんなプラグマティックな実践であるわけである。
うーん。そういう意味では、やはり、こういったことは、消極的なアイデアなのだろう(人文科学がそもそも、そういったものであるように...)。