上野千鶴子『当事者主権』

中西正司という方との共著。2003年の初版。
病院に行くと、ちょっとした風邪でも、両手いっぱいの薬を持たされて、帰される。どう考えても、あと数日もいらないくらいで、治るわけだし、会社に、インフルエンザのような症状で、現場に迷惑をかけないため、くらいの気持ちで、確認程度で来ているのに、これだ。
だいたい、大の大人が、本当に風邪くらいで、薬がいるのだろうか。私が言ってることは変だろうか。結局、なにが間違ってるのだろう。よく言われるのが、日本の医療が社会主義だから、ということになるのだろうか。日本の医療は、医者が薬を売れば売るほど、もうかるのだから、医者にしたら、患者が薬を持って帰ってくれなきゃ困るのだろう。いいじゃない。どうせ、保険で、たいして払うわけじゃないわけだし。
しかし、こうまでしないと、医者が儲からないと言うんだ。
しかし、そんなホンネをえそうな医者が言うわけがない。
あなたのためだから。
本音ではどんなことを考えていようと、建前は、「患者にはそれが必要」。私は医者だ。病気のことなどなにも分からない、シロートがゴチャゴチャ言うんじゃねーよ。嫌なら、今すぐここから出ていけ。こっちは、医師免許だってあるんだ。俺を誰だと思ってんだ。あー不快。むかつく。仕事をやる気をなくさせる。
しかし、どうだろう。こんな感じで、例えば、精神病じゃないかと、精神医学の病院に行ったら、速攻、あんたビョーキだから、抗欝剤や睡眠薬、あげますねー、って、こんなのばっか飲んでたら、逆にこれで、頭おかしくなっちまわないだろーか(自殺した人で、こういった薬の中毒症状だった人って、多いんじゃないだろうか。そういう統計を見たことがないから、適当なことを言っていて、怒られそうだけど)。
そもそも、薬ってなんで飲むんだ?
だって、そんな「ゲテモノ」薬品、俺は生まれてから、一度も口に入れたことはないはずだ。そんなものを、あなたのためだからと渡されて、ホントに飲むのか? 今まで一度も口に入れてないということは、食料じゃない、ということだろう。ということは、なんだ。食料じゃないということは、

なんでしょ。でも、対症療法と言って、毒には毒、みたいなところがあって、人間のある発症している症状がよろしくないから、それを「抑える」のに、毒でやっちゃおう、と。だから、一時的なショック療法ですよね。でも、
毒は毒
でしょ。健康な時には必要ないのに、今はいる、って、そりゃあ、毒なら、健康なときに必要なはずはないわけだ。
明らかに、私たちが必要なのは、医者による、「あなたのためだから」で押し付けられる、薬の山という「マテリアリズム」ではないはずだ。私たちが必要としているのは、たんに、「正確な診断」ではないのか。私は、たんなる、風邪なら、働きざかりのいい体のおっさんに、薬なんているわけない。こんなやつ、どんなフラフラしてても、寝てりゃ治る。とにかく、「お前のその症状はなんだ」という見立てだけやってくれればいいんじゃないだろうか。それが、
当事者主権
である。「あなたのためだから」の薬の山、は余計なお世話なのである。きつく言えば、エリート主義丸出しなわけだ、こっちがなんにも知らないのに付け込みやがって。

専門家とはだれか。専門家とは、当事者に代わって、当事者よりも本人の状態や利益について、より適切な判断を下すことができると考えられている第三者のことである。そのために専門家には、ふつうの人にはない権威や資格が与えられている。そういう専門家が「あなたのことは、あなた以上に私が知っています。あなたにとって、何がいちばんいいかを、私が代わって判断してあげましょう」という態度をとることを、パターナリズム(温情的庇護主義)と呼んできた。パターナリズムはパーター(父親)という語源から来ており、家父長的温情主義とも訳す。夫が妻に「悪いようにはいないから、黙ってオレについてこい」とか、母親が受験生の息子に「あなたは何も考えなくていいのよ、お母さんが決めてあげるから」というのも、パターナリズムの一種である。
パターナリズムは医療の世界でもっとも横行してきた。しかも医療の世界におけるパターナリズムは、制度と法律に守られてきた。医療行為は医師資格のある人しかおこなうことができず、看護師の看護も「医師の指示のもとで」と法律で決められている。たとえ能力があっても、資格のない人が医療をおこなえば、違法行為と見なされる。
医療におけるインフォームド・コンセントは、医療モデルをくつがえし、医師の専制を、医師と患者による共同の意思決定に変えてきた。

けっこう前に、竹中平蔵さんが大臣をやっていた頃、自民党の応援演説で、街の人々に向かって、「みなさん、
無料(ただ)より恐いものはない、
んですよ」と、さかんにオルグしていた姿が思い出される。恐らく彼は、経済学の常識を国民に「授業」していたつもりだったのだろう。でも、私はそれを「おどし」と受け取った。
なぜ、戦中、日本の軍人たちは、自らの命を捨てたのだろうか。それは、
今の自分の命を捨てること
の「対価」として、
今まで自分や自分の家族を育ててくださった、「国家」の、御恩(贈与)に報いなければならない、
と考えたからなのではないだろうか。
たとえば、私たちは、この日本の大地に、生を受け、生まれてきた。しかし、
だれが、この大地に生まれていいって言った。だれの許可とって、そんなことをしてんだ。
この日本という国が、だれのものか。それは、戦前であれば、天皇様「のもの」だったわけだ。私たちが生まれて、生きても「よかった」のは、天皇様が「いいよ」と言ってくれたから、私たちのご先祖は、この地に生まれ、育つことができた。
ということは、生まれることも、育つことも、すべて、「国家に借りを作りまくり」なのだ。「国家が許してくれなかったら、こんなことやっちゃいけなかったのだから」。だったら、
いつかその借りを返さなきゃいけない。
そうやって、借りを返し続けること(死ねと言われたら死ぬこと)で、自分の同族は、この国で生きる「権利」を得ていく(実際は、女子供を残して、だれもいなくなったわけですが...)。
こうやって見ると、ナチスとまったく違いますね。彼らは、明らかに、生への執念があった。軍人は自分から死を選ぶなんて、その理由すら思い浮ばなかったのではないだろうか。
そう考えると、この「当事者主権」という言葉は、相当に強烈な「ラディカリズム」であることが分かります。私はある日、この国に生まれ落ちました。だれの許可を取るわけでもなく。だれの許しを得たわけでもなく。だって、
私はこの国に生まれる権利をアプリオリに持っていたのだから。
私は、アプリオリにこの国に生まれることを「許されていた」のだ。それだけじゃない。私は生まれる前から、アプリオリに、
さまざまな「当事者主権を持って」生まれてきた。
私がこの国に生まれ落ちたときには、私の両手は、さまざまな「当事者主権」で、てんこ盛りだったのだ。
あれをやってもいい。これをやってもいい。
ということは、つまり、「自分でどうするかを決める権利」を持って生まれてきたのだ。

  • 明日の夕御飯に、何を食べるか、「自分で決めていい権」。
  • これから、家に帰って、アイス食べながら、ごろごろ「していい権」。
  • あ。ちょっと背中がかゆいや。「背中をかく権」。

大事なことは、基本的にあらゆる決定は、究極的には、本人が決める、というルールのことを言っている。主権は「当の本人」にあるのだ。
私たちの国は、民主主義の国だと言われる。それは、憲法に議会制が定義されていることにもある。それを憲法の中では、「国民主権」という言葉で表現されている。ところが、この「当事者主権」という考えは、ある意味、このさらにその可能性を、究極的に極め、その先を行く。
たとえば、私は毎日、なにも考えることなく、普通に生活しているが、ある日突然、障害者になるかもしれない。しかし、どうだろうか。ある日、自分が障害者になったとして、
この街で生きていけるのか?
この街の、都市設計を眺めてみればいい。私がある日障害者となった途端に、この街は、「あんたいらない」とでも言いたいかのように、私の居場所がなくなる。つまり、この街は、そういった障害者の方々が、存在を許されることを前提として作られているスペースが、
ひとつとしてない。
道は段差だらけで、どう考えても、車椅子は、転んで一歩も先に進まない。バスだって、どう考えても、車椅子の人が、一人で中に入れる仕組みになっていない。近くのデパートだって、入口に辿り着いた時点で、もう身動きがとれそうにない。
ということは、どういうことか。「あんた邪魔だから、どっか行って。私たちの街は、健常者のための街なの。そんなマイノリティのために、使うお金ないの」。
しかし、それは「当事者主権」の考えからは認められない。なぜなら、「だれでも、ある日、突然、こういった障害に襲われる可能性があるから」。
もちろん、主権が自分にないのなら、いいだろう。実は、主権なるものは、国家が持っていて、主権とは、その国家から一時的に分け与えられている、官僚だけが持っているのなら、むしろ、私たちは進んで、この命を国家に捧げなければならないのだろう。
障害を受け、「お国のために」役に立たなくなった、私は、これ以上、お国の邪魔になってまで生きることは、もうしわけが立たない。死んで、おわびをさせてもらいます。今まで私を育ててくれて、ありがとうございました。
しかし、そういうわけにはいかない。私たちのこの、「当事者主権」スキームにおいては、自分がどうするかは自分で決めなればならないのだ。発想がまったくの逆なのだ。

車椅子の人がハンディを感じずにすむような都市や、建築のあり方をユニバーサル・デザインと呼び、この考え方がようやく拡がってきた。デザインとは「設計」や「計画」のことでもあるから、社会の設計をユニバーサル・デザインでおこなえば、多くの「障害」を「障害」でなくすることは可能である。私たちは社会の設計を変えるだけで、「障害者」を減らすことができる。
それなら「障害者」に「問題」や「障害」を抱えこませた原因は、社会のしくみの側にあるのだから、それを補填する責任が社会の側にあって当然だろう。そのように社会の設計を変えるということは、「障害」を持った(持たされた)人がハンディを感じずにすむだけでなく、障害のない(と見なされる)人々にとっても、住みやすい社会となるはずだ。

なぜ、国はあるのか。各個人が持つ「当事者主権」スキームを実効的に機能「させるためにきまってる」。各個人が自分のことを自分で決められるような、
都市設計(インフラ)
をするために、国家はその「目的を目指し、活動する」。なぜなら、だれもがある日突然障害者になるのだから。

当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

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