経済原論

経済とは、差異を突く運動である。その目的は、ひたすら、金銭の獲得にある。金銭を獲得するためには、借金も厭わない。つまり、見通しを間違えば、莫大な借金を負うことさえ、その末路の一つとして想定される、そういった運動である。
ここで、問題は、「主体」は誰なのか、となる。普通は、企業なら、社長になるだろう。社長は、さまざまな戦略の全責任を負うことになるが、その利益も、すべて、その人のもの、である。つまり、経済主体は、常に、個人であるわけだ。
そう考えると、企業とは、悲しいことに、一つの「手段」でしかないことが分かる。
煎じ詰めれば、あるサービスをお金を払ってでも欲しいと思っている人に、提供することで、お金を儲けるのだが、問題は、その儲け方にあると言える。
相手が欲しいのは、ただ、ひたすら、そのサービスである。相手は、そのサービスさえもらえるなら、あとのことは、どうでもいいのである。それが、どのような過程を経て、提供されるようになったか。その人の関心ではないのだ。
だとするなら、問題は、ひたすら、「いかにコストをかけないでそのサービスを相手に提供するか」になるでしょう。つまり、少しでも、コストをかけさえしなければ、社長の懐は、ウハウハになる。
しかし、ここが本質なわけだ。とにかく、使うお金さえ、少なくできれば、さまざまな「余裕」が生まれる。ちょっとした、冒険的なチャレンジだって、難しくない。だって、それくらいの目減りは、どってことないわけだから。
では、どうやってそのサービスを獲得するか。
とにかく、だれもが思い付くことは、
一番安い給料の奴に、「その安い給料の範囲で」、とにかく、なんとかさせる
のが一番、儲かる。
人間は、日々の生活に、それほどのお金がいるわけではない。その月にどれだけあれば、どれだけの生活ができるか。そう考えると、人々はそれほど、労働量と金銭的収入の比例関係を望んでいるわけでもないことが分かる。世界には、まだまだ、「秘境」のような物価が、びっくりするくらいの、ちょろちょろのお金でやりくりしている(つまり、お金なんて、ないような自給自足の)ところは多くあり、そういった若者に、ちょっと大きいお金を掴ませてあげると言えば、ちょっとくらい辛くても、ふんばってやり通すだろう。つまり、どういうことだろう。
生産市場は、世界の労働市場を睨んで、どこまでも、流動していく
ということである。もし、その労働が、オートメーション化できるなら、丸投げがきくわけだ。丸投げが無理というのは、絶えず、相手の顔色を窺うような部分だか、それは、言ってみれば、「設計図書き」みたいなもので、つまり、オートメーション化作りと同値になる。
たとえば、そのサービスを提供するには、あるパーツと別のパーツを組み合わせればできる、と分かっていたとする。すると、そこでの「コスト削減圧力」は、どこに見出されるか。その二つのパーツを作っている、または、作れる能力のある相手から、買うという選択肢が考えられる。しかし、ただ買ってはならない。
いかに安く買い叩くか
こそが本質である。その部品を作る相手同士を競争させ、最も、手頃な値段を提供した所からいただく。それを「全部品」に対して行う。
私は、ここまでの議論で、はたと困惑するわけである。こうしたとき、「企業ってなんなのだろう」。企業は、上記のような一連の富金活動を担う集団、だと言っていいだろう。もっと言えば、社長が上記活動を実現させるために、身近に置く、駒、ということだ。
ということは、どういうことか。彼らも、一つの「手段」でしかない、ということである。よく、同じ会社の人たちの連帯感と言うが、それは、「戦場における、現場の連帯感」のことであって、社長から見れば、なんの思い入れもない、ということになる。そんなことより重要なのは、「上記の目的」であって、それが実現できなければ、そもそも、企業は倒産して、みんな、てんでんバラバラに生きてもらうしかないわけだから。
もちろん、こんな見方は、ある意味、「倒錯」している(そんなふうに、全然思わない人がほとんどかもしれないが)。企業とは、あるサービス、ある目的を、市場に提供することを目的として、立ち上げられた集団のはずだ。実際、企業の登録段階で、その企業の活動内容を提示するわけだし。だとするなら、企業が企業存続を目的とすることに、それほどの正当性があるのだろうか。むしろ、企業がある成功を収めて、しかし、近年、そのビジネスモデルが通用しなくなったとするなら、潔く、解散すべきなのではないか。その企業の歴史的な役割が終わったのだから。その方が、今ある、資産を有効に活用できるかもしれない。また、もっと画期的なビジネスモデルが思い浮かんだとき、活動を始めてもいいだろう。
ところが、そういった方向にならない。それは、多くの社員が高い給料を毎日もらっているからである。彼らには、彼らの人生設計がある。そう簡単に、今の、地位を逃すわけにはいかないのである。彼らが今、高い給料をもらっているということは、彼らは、その分だけ「権力者」であるということである。
ところが、社員たちには、「この先、自分たちが、どれだけ儲けられるか」という視点が弱い。そして、さかんに近年言われたことが、「企業努力」であった。今の、民主党がやっている、事業仕分けみたいなものである。あらゆる無駄の削除。もちろん、それで近場の「相対的な」支出は減るだろうが、そもそも、自分たちが今提供しているサービスの需要がどれくらいあるのか(どれくらいの価格なのか)で考えれば、問題はむしろ、
もうかる仕事をしているのか
になるはずである。だとするなら、「ここでいったん考えを変えてみる」というのは一つの選択肢としてないのか。むしろ、そのビジネスモデルは、もうこれから、もうからないんじゃないのか。または、そうとうの低価格競争にさらされる。ならどうするのか。そういった低価格になっても、サバイブできるような、国内物価にもって行くか(つまり、それくらいの、国家インフラ・サービスを低下させるか)。しかし、インフラの質の低下は、国民サービスのさまざまな不便をもたらすことになり、さまざまなライフスタイルの変更を余儀なくさせるだろう。
たとえば、本気で一人一人が、自分のビジネス・モデルの変更について考えたら、どういった結論になるだろう。今の時代は、どういったビジネスモデルがありうるのか。ホリエモンが言うように、在庫をもたず、社員をもたず、しかし、定期的な収入が入ってくるような、(ちょっと、金持ち父さん臭いですね、マンション経営みたいな)そういったビジネスモデルが、たとえ一番いい(気が楽)だったとして、どれだけの人がそういったビジネスモデルに巡りあい、それを選択していくのか。
このグローバル社会において、本格的な世界大戦は、そう簡単に起きえなくなった。なぜなら、金融がそれだけ複雑になっているからです。殲滅戦をしても、戦勝国の国民の金融資産が減るだけであり、国家はその「補償」に負われることになるでしょう。金融がさまざまな、未来の「信用」を折り込んでしまっているため、もう、国家そのものに、そういった、グローバル企業(の利害)と「戦争してまで」他国侵略は難しくなっている。
そうするとどうなるか。グローバル企業が「グローバル」になるわけです。つまり、上記で指摘した、「生産者のグローバル市場からの獲得」ができる。上記で言いたかったことは、これなわけです。つまり、本質的に日本のような物価の高い国で、「生産」戦略は、「相当の情勢の変化でもない限り」ジリ貧だということなわけですね。
しかし、日本がこうやって先進国になったのは、明らかに、「生産(加工)」戦略、によってであった。
このジレンマを前に、しかし、マルクスが言っていたことは、こういうことだったわけではないのか、とも思うわけです。相対的利益率の低下。その先に、どんな未来があるのか。どう考えても明るくはなれそうにない。貧しい人はどんどん貧しくなるわけだが、富者だって、そのセレンクションは激しく、もはや、中間層をなんとか、貧困層に落とすこと(企業努力)によって、富者の今の成功収入の維持が目指される。(一部の勘違い金持ちエリートを除き、)みんながスラムに住み、ほとんどの人がスラムで生まれ、スラムで育ち、スラムで死んでいく。日々稼ぐ小銭だけが、唯一の明日への糧の手段となり、さて、昔のSF作家たちが思い描いた、あの輝かしい未来の姿は、一体、どこにあるのでしょうね。