マーク・ブキャナン『歴史は「べき乗則」で動く』

(掲題の本も、紀伊国屋新宿の福嶋さん書店で紹介されていたもの。)
湯浅さん書店を見て、一点だけ、違和感を感じたのは、まったく自然科学系の書物がなかったことだろうか。
例えば、少し前の日本では、ほとんどの人が百姓であった。みんな農民であった。農民は、ただ、そういう「職業」ということではなく、実際に、自然を相手にしている。なぜ、稲は実るのか。なぜ、毎年、花は咲き、果実をみのらせ、我々に提供してくれるのか。
農民たちは、日々、そういった「自然科学」と対峙している。そういった事実が、彼らの内部でどういった「表現」によって現されているかは問題ではない。ルドルフ・シュタイナーの神秘学がそうであったように、土俗的農民は、むしろ、神秘学と親和的であったわけだが、それは彼らが科学的でないからそうなのではなく、まったくの逆。彼らが「科学的」であろうとしたときに、そういった魔術的表現を使っていた、という方がただしいのだろう。
つまり、一般の庶民が日々格闘しているのは、そういった「自然科学」である、ということは往々にしてないだろうか。大工は釘と木材で、何十年と彼らの日々の暮しを支え続けうる家屋を提供しなければならない。配管工は、何十年と壊れない形で、土管の結合を提供しなければならない。
知識人は机に座って、思索にふけって、文章を書いていれば、とりあえず、毎日の食い扶持にはありつける。しかし、庶民は、体一つを売り物に、足を使って稼ぐしかない。しかし、むしろ、そういった所にこそ、ある重要なヒントが往々にしてないだろうか(つまり、むしろ、知識人の人文学的な知識が青天上だから、一般市民がついてこれない、どうのこうのではなく、逆に、一般の庶民が日々格闘している、そういった「自然科学」の知識に、知識人が「降りてこない」。こういった面での、関心のデバイドにこそ、知識人と大衆の認識の齟齬があるようにも思うのだが...。)
庶民は、この「自然」に、
「形式」を投げ入れる(カント)。
その実践的な営みは、まさに実験的であり、知識人たちの一般論のように、サロン的な網羅性にとぼしいだけで、それを、愚民だとかポピュリズムだとか言ってみても、だからなんだってもんなのだろう。
たとえば、掲題の本を私が重要だと思っているのは、日本にとって非常に重要なことが書いてあるから、である。それはもちろん、
地震
である。地震とはなんなのだろうか。なんだか分からないが、少なくとも、
日本人に重大な損害を与え続けてきたもの
である。日本に住んでいれば、多くの人たちが、地震で亡くなっている。おそらく、かなりの日本の慣習や日本人の心性を決定付けてきた面も多々あるだろう。
これだけ重要な問題に、「知識人」が関心を持たないわけがない。しかし、たしかに、地震が起きたとき、どのような行政政策が必要とされるか、や、なんとか地震を予知するための研究施設は十分か、みたいなことでは関心はあっても、じゃあ、地震って結局なんなのか、というところでは、
専門外的スルー。
ジャパン(専門外的)パッシング。
しかし、どうなのだろう。そんなことでいいのだろうか。地震というリバイアサン地震というモービーディック。地震を前にして、倒れ伏し、恐れおののいてきた、私たち先輩たちは、まずもって、こいつがなんなのかを知りたかったのではないだろうか。

現在科学者は、地殻のある部分の隆起、沈下、移動のセンチメートル単位の正確さで測定するという、信じられないような技術をもっている。しかし東京大学の地球物理学者ロバート・ゲラーは、1997年に地震予知の現状を総説したなかで、ただ悲観的な考えを示すばかりだった。

地震予知の研究は、100年以上もの間、目立った成功もなく続けられてきた。成功したという主張はことごとく、綿密な調査をくぐり抜けられなかった。大規模な調査でも、信頼できる前兆現象は見つけられなかった。差し迫った大地震に対して信頼性の高い警報を発することは、事実上不可能であろう。

よく、東海地震は、いつくるのか、どれくらいの規模になるのか、そのとき、東京の被害はどれくらいになるのか、みたいな話がある。そんなに「来る来る」言われると、いいかげん、いつごろ起きそうかくらい「予想」くらいできないのか、と言ってみたくなる。
しかし、有識者に言わせるとそれは、「事実上不可能」となる。はあ? なにそれ? って感じであろう。あんたら、それで飯食ってんなら、もうちょっとがんばれよ。大規模地震がもし来るなら、多くの庶民の生活に多くの影響を与えるだろう。完全な「免震」なんて無理にきまってるんだから、なんとか、予期的避難ができないか。ところがこの、学者って生き物、もう
あきらめちゃった。
しかし、問題は、なぜこの学者が不可能だと言いきるのか、そこにあるわけです。というのは、この現象が、そもそも、どういうものなのかを一般の方々がどこまで、想像できているのか、ということになるでしょう。

地震には小さなものも大きなものも、中間のものもあるということを、我々は知っている。しかしそのなかに、他の地震よりも一般的な地震というものはあるのだろうか? 地震の典型的な大きさとはどのくらいなのだろうか? グーテンベルグとリヒターは、地震の統計を取ることで何か興味深いことが分かるのではないかと期待した。地震のほとんどは、マグニチュード三とか七になるのだろうか? マグニチュード二とか五とか八の地震は稀なのだろうか? いつどこで地震が起きるかを予知できなくても、少なくとも次の地震をどのくらいの大きさになるか、あるいはもっと確実にどのくらいの大きさにはならないかを予知できるかもしれない。
この二人の研究者は、何百という本や論文を詳しく調べ、世界中で起きたたくさんの地震に関する詳細を集めた。

さて、どのような集計結果になったのでしょうか。正規分布ですかね。どうも、
そうではないようです。

マグニチュードが一増えると、解放されるエネルギーは一〇倍に増える、ということを思い出してほしい。エネルギーで考えれば、グーテンベルグ=リヒターの法則は、ある非常に単純な規則へと還元できる。それは、タイプAの地震はタイプBの地震の二倍のエネルギーを解放するとすれば、タイプAの地震はタイプBの四分の一の回数しか発生しない、というものである。つまり、エネルギーが二倍になると、その地震の起きる確率な四分の一になる----これがこのグラフの意味である。この単純なパターンは、非常に幅広いエネルギーの地震に通用する。
物理学者たちはこのような関係を「べき(羃)乗則」と呼んでおり、この法則はその単純な見た目からは想像できないほど重要なものになっている。

地震の場合、マグニチュードでなくエネルギーの大きさで考えてみると、グーテンベルク=リヒター曲線は、あるEというエネルギーの地震の頻度がEの二乗(E^2)に反比例するということを示している。

地震のエネルギーはべき乗則に従うので、その分布はスケール不変的になる。大きな地震が小さな地震とは違う原因で起こると示唆するものは、まったく何もないのだ。大きな地震が特別なものである理由がないという事実は、小さな地震を引き起こすものと大きな地震を引き起すものはまったく同じであるという、逆説的な結果を示唆している。この考え方にもとづけば、大地震に対する特別な説明を探しても意味がないことになる。そこには、我々の足下で絶えず起こっている微小な振動と比べて、特別で異常なことは何もないのだ。
きわめて重要なこととして、この結果はべき乗則以外のどんな数学法則からも導くことができない。いかし、べき乗則からは必然的にこの結論が出てくる。

地球内部の熱によって起こるプレートの運動は、地殻に一定の歪みを与えつづけている。この歪みは蓄積していき、断層のごく一部分の岩石が滑るげんかい に達すると、それは滑り出す。この初めに滑る部分は、一ミリ程度の長さかもしれないし、あるいは目には見えないほど小さいかもいれない。しかし、それに引きつづいて起こることはそんなに小さいとは限らない。最終的な影響の大きさは、その初めの原因の大きさとは何の関係もないからだ。
もし地殻が、この地震ゲームや、あるいはその親戚の砂山ゲームのような仕組みになっているとしたら、様々な岩石の断片にかかる歪みと圧力は、時間とともに臨界状態へと組織化されていくはずだ。地殻は、あらゆる大きさの不安定性という見えざる手によって穴だらけにされている。したがって、どこか最初の岩石の断片が滑れば、その後には文字通り何でも起こりうるのだ。地震はすぐに止められるかもしれない。るいは最初の動きが近くの岩石に強い歪みを与えて、さらなる滑りを引き起こすかもいれない。最終的な地震の規模は、おそらく永遠に我々の調査の及ぶことのない非常に細かな詳細、つまり初めの微小な滑りが発生した場所での見えざる手の大きさに左右されるのだ。

私たちが根本的に勘違いしているのは、地震は、
いつも起きている
ということである。この本でも強調されているように、地震国日本においては、毎日、「微小な地震」、人間でさえ感じられないようなものが、けっこう起きていたりする。つまり、地震とは、そんな
普通な現象
なわけである。ところが、それがまさに「雪崩」のように、一気に来たとき、甚大な被害を残す(雪崩、とは、まったく比喩ではない。地滑りゲームと、地震ゲームは、まったく同じ、「べき乗則」に従うわけだから)。
少し、著者の筆ぶりにつられて、興奮ぎみに語ってきたが、ここからは、もう少し冷静にこの問題を検討して終わりたい。
まず一点目は、

である。この本が、やたらと、大きな声で叫ぶ、この「べき乗」なるものは、今までの数学でどのように考えられてきたものなのか。
それについては以下の、本屋で見つけた、

複雑系のための基礎数理―べき乗則とツァリスエントロピーの数理 (数理情報科学シリーズ)

複雑系のための基礎数理―べき乗則とツァリスエントロピーの数理 (数理情報科学シリーズ)

の第一章、第二章の部分は、まさに、この本のためのイントロダクションになっている(実際、参考文献にも、掲題の本が紹介されている)。
べき乗ということなのだから、確率密度関数が、

  • f(x) = c x^(-r)

の形をしている。対数グラフで比べるとよく分かるが、指数分布の確率密度関数べき分布と比べると、0に収束する速度が圧倒的に速い。つまり、べき分布は、最近はやりの、
ロングテール
である、ということである。しっぽが長ーい、のである。
(余談だが、学部時代、微積分で、収束の次元、ということを学んだと思うが、ある関数はどんどん0に近づくのに、ある関数は、いつまでたっても、0に近づいていかない。しかし計算すると、0には収束する。その速さのレベルが違うわけである。じゃあ、最も、収束の遅い関数って、どんな段階でイメージできるのかな、なんてよく考えたものだ。)
こういったべき分布の例として、有名でありよく研究されてきたものに、コーシー分布がある。しかし、(詳しくは書かないが)ガウス分布正規分布)、と、コーシー分布の間をつなぐものに、
自由度 n の t 分布
という、べき分布、がある。つまりこれは、n = 1、がコーシー分布なのだが、n --> ∞ でガウス分布(という、べき分布じゃない分布)になる。
どうも、なにか関係がありそうですねえ(なんか、つながってそうですねえ)、というところなのだが、そのあたりが、べき分布の「スケール不変的」に関係してくる。
この、「スケール不変的」というのが、フラクタル次元なんかと関係してくるアイデアなわけですが(どんな小さな地震も大きな地震も、同じ「べき乗」関係がなりたっている)、その関係をパラフレーズすると、

で、後者の非線形微分方程式が完全な、スケールフリーになっている。しかし、この後者。べき乗になってないんじゃない? と思うかもしれないが、(q-1)x が 1 より、圧倒的に大きい範囲で x をとれば、

  • y = exp_p(-x) = (1 + (q-1)x)^(1/(1-q)) ≒ ( (q-1)x)^(1/(1-q) )

だから、べき乗と「近似していい」ということのようですね(やっと、上記の啓蒙書の言っている意味が、「数学的に」分かった)。
さて、こういった感じの話から、カオスや非線形の数学が、なかなか、20世紀までの現代数学ブルバキ以降ですね)のアナロジーが通用しないという方に話を進めてももいいのですが、私としてはもっと直接に、二番目として、

について強調しておきたい。掲題の本では、べき乗という関係がさまざまな場所にみられることが強調されているわけだが、それは、大量の対象が相互関係などをくりかえしているうちに、ある臨界点に達して、相転移を起こす、という、かなり
集団
的な一般現象を記述したもので、こういったものを一般に研究してきたものに、
統計力学
がある。私は、物理学の中で、最も興味深いのはこの分野だと思っているわけですが、意外と世間の関心は低い。よく考えてみれば、この世の中の目に入ってくるものはすべて、
原子の塊
である。人間だろうと、空だろうと雲だろうと大地だろうと、すべて、そういった原子や分子や分子群の塊である。これらが、どういった「運動」の法則の下にあるのか。
臨界点、や、相転移、がどのように起きていくのか。
そう考えると、これは、熱力学などの、非常に狭い自然現象の研究にとどまらないことが分かってくる。ちまたにある、すべての
集団現象
は、すべて、統計力学的なモデルを適用できるわけである。
たとえば、

統計力学―相転移の数理 (確率論教程シリーズ)

統計力学―相転移の数理 (確率論教程シリーズ)

では、数学の教科書、確率論のシリーズの一冊として、統計力学、として、パーコレーションのような、かなり、おもしろい現象の数理的な面が紹介されている。
これからの、若い人たちが、こういった知識をどんどん吸収されて、自然科学にとどまらず、人文科学の
集団現象
にどんどんチャレンジしていってもらえれば、いいんじゃないでしょうかね。
よく考えてもらいたい。
上記のようなロングテール現象が、いったいどこまで、一般的に見られる現象であるか。地震や雪崩や山火事や生物大量絶滅...。いや。
そんなものにとどまらないわけです。
売れる本の傾向、電話を受ける傾向、ウェブの閲覧、ウェブの引用、はたまた、科学の学説の流行...。
私たちは一方においては、こういった集団現象に謙虚であらねばなりませんが、他方において、もっと
かかんに攻めていく必要があるはずなんですね。
特に、金融市場の暴落、戦争の開始、さまざまな政治的な民主主義場面において、あらわれている現象は、かなり「人間自身の活動」において、深刻な事態を引き起すわけで、こういったアイデア(皮膚感覚)、が喫緊の課題として、
人間の叡智として、
必要とされていると言えないでしょうか。

歴史は「べき乗則」で動く――種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

歴史は「べき乗則」で動く――種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)