浅野いにお『素晴らしい世界』

以前、ソラニンについて書いたことがあったが、こちらの作品は、より、作者の言いたいことが、直接描かれているように思える。
こういった、むしろ、有識者の人たちの間で、推薦されるこの漫画を、どのように読めばいいのか...。
各ストーリーは、アンソロジーとして、続く。この都会に住む、いわゆる、
普通の人たち
は、どう見ても、「素晴らしい世界」に住んでいない。彼らは、「エスカレータ」式に、素晴らしくない。未来に、素晴らしい何かが待っていない。
そもそも、どんな、素晴しい未来があるのだろうか。一体、大人になって、自分がどんなふうになっていたら、幸せなのだろうか。自分は、それを満足しているのだろうか。
例えば、今、大人が子供になってほしい仕事が、公務員、だという。しかし、国家は、うるさいくらいに、財政難をのたまっているわけで、普通に考えれば、公務員の給料がどんどん安くなるんじゃないか、と思うところであろう。そもそも、公務員の採用には、「コネ」の問題が長く言われている。2世公務員がどれくらいいるのかは知らないけど、相当な人数になるのだろう。もっと言えば、「今のような」公務員がどこまで必要なのか。
ようするに、大人が子供に「公務員」になってほしい、というのは、
世襲の身分
に上がってほしい、というかなり、露骨にイエ的な欲望なのだろう。「公務員」にさえなれば、子供のコネになる。それによって、世襲で、孫、曾孫、と全員、「公務員」におしこんでしまえばいい。
そもそも、田舎の地方公務員は、村民が少ないなら、それに合わせた人数がいれば十分なのだろうし、別に、回覧板は地域の人たちだけでやっていたわけだから、ほとんど、村民だけで回したっていい(公務員がやっているようなことは、地元の人たち自身でやっちゃえば、そんな「お偉いさん」たちを養うための膨大な給料は必要なくなる)。
たとえば、阿久根市のリコール問題が、ニュースでとりあげられ、話題になっているが、ホリエモンもブログで注目しているように、むしろ、阿久根市を決定的にしているのは、「A-Z スーパーセンター」なのですね。この大型スーパーは、街外れに、24時間365日営業し、自動車をもっていない、人たちのために、送迎バスを、150円くらいで、自宅まで、送り迎えする。
いわゆる、大店舗法問題ですよね。トイザラスが、日本に上陸するということで、当時の自民党は、大型スーパーの出展を完全に、開放した。すると、地方の商店街は、どこであっても
死んだ
駅前も死んだ。それは、県庁所在地でも同じ。
A-Z のように、いずれ、スーパーが、送迎バスのように、「公共的な」サービスでさえ、提供するようになる。だんだん、「公共サービス」を提供するのは、企業(経済)、となっていくだろう。
国家の前に経済、企業が、「独裁的な社長」によって、その地域の「囲い込み」を行う。大型スーパーにとって重要なことは、競争他社に店を畳ませることだと言えるでしょう。そのためには、どんなサービスだって、やりまくり、である。
私がここで何を言いたかったのか。たしかに、A-Z の商売は、無敵の快進撃をするのだろう。しかし、ここまでやれば、まず、地元の競争他社は撤退せざるをえないだろう。もちろん、そうだとしても、A-Z がかなりの労働者を雇うことになるわけだし、お互い様と言いたいかもしれない。しかし、私がこだわりたいことは、そういうことではなく、なんとか、糊口をしのげると、小さいながらにがんばっていた、商店街のようなビジネスモデルを、完全に破壊する商売だということである。そういった、小さい単位で、細々と定年まで生き延びさせてもらえると思って始めた彼らの
期待
は、こうやって、もろくも崩れさる。
私がこだわるところは、ここである。こうやって、自分は生きていけると思ったことが、周りの条件の変化によって維持できなくなっていく。
もし、このことが、このグローバル経済社会においては、あらがうことのできない、常態だというなら、人々が安心を抱ける日が来ることはない、ということになるだろう。
簡単に、経済的な、巨大資本によって、前提条件をひっくりかえされて、庶民は、木の葉のように、海の上をゆらゆら揺られ続けるだけ...。
私は思うのだが、こういった時代に、「将来、なにかになりたい」と考えることの、虚しさ、というのはないだろうか。たとえば、掲題の漫画でも、まず、ほとんど、子供たちが、なにかになりたい、と積極的に語っている場面がない。しいて言うなら、学生時代のように、「友達」とバンドをやりたい。しかし、それは、どういう意味なのか。プロになるのは最初から、数えるくらい。その少なさは、なんで彼らだけなれたのかが、不思議なくらいである。また、アマチュアということなら、サラリーマンをやりながらでもできるわけだ。しかし、彼らがこだわるのは、そういう「サラリーマン」を拒否した生き方みたいなところもあるわけで、むしろ、「サラリーマン」をやるくらいなら、もう訴えることもない、みたいな整理になる。もっとぶっちゃけてしまえば、バンドをやるといっても、それをやることで、「何を訴えるのか」が常に問われるわけで、もし本当に「積極的に」そんなもの(言いたいこと)があるなら、ギターほっぽり出して、それにうちこむんじゃないのか、とも言ってみたくなる。
つまり、バンドそのものが、現在の、うっぷんを表現するものみたいな面があるわけで、あまり、積極的な目標ではない(一種の背理)。
小学生は、いじめられていても、チキンレースで、自殺と変わらないような、玉砕をやっても、逆に、いじめる側になったとしても、彼らは、未来への夢を見ない。
女子高生が、ヤクザに犯罪の手伝いを強制されても、むしろ、進んでヤクザを手伝う。しかし、そのことに理由があるわけではない。ヤクザの方も、この女子学生を巻き込んでまでの行為によって、どれだけの将来の安穏が待っているというのか。どちらも、未来になんの期待もしていない。
彼らには、将来への期待がないだけ、自殺へのハードルも低い。なぜ、自分が自殺しないのかも、たいした理由があるわけじゃない。だから、結果として、死に至ることへのなんの感情もない。
他方において、彼らは、それでも、
生きよう
とする。それが、第16話「16th Program『あおぞら』」である。主人公は、ある公園で、サッカーボールで遊んでいる少年が、道路に飛び出し、前から来るトラックに気づいた後、意識が亡くなり、自分がすでに死んでいることに気付く。主人公は、自分がその少年を助けようとしたから、死んだのだろうと思っていたら、ある死神によって、実は、その少年は、さっさと危険を察知して、逃げていて、むしろ、主人公は、一歩も動けなかった、助けようと動き出すことさえ、できなかった、そこに、むしろ、トラックの方が自分に向かってきたために、自分が死ぬことになった、という事実を教えられる。この事実をいつものように、ニヒルに受け止めた後、しかし、主人公、いざ、この世界を去る(死神に促される)場面になって、その振り返った
この世界
に向かって彼は叫び始める。

......やだ、
なんか
いやだ......
何? これで
俺は終わり?
俺って、
こんなもん?
まだ俺、何も
してねーよ......
やだ......
やだー
ーっ!!

こうやって抵抗する主人公に、ある死神は、彼を地上に戻す決断をする(つまり、主人公は死ななずに、意識を戻す)。
この、第16話以降、作品は、ちょっと変な雰囲気になります。たしかに、なにも変わっていない。しかし、なにか、雰囲気が明るくなります。
なぜなのか。
おそらく、作品そのものの、視点の変化が起きているのだと思います。そういう意味では、最初から、
それ
は描かれていました。
主人公たちは、未来への希望「のために」生きていない。そんなものをロマンティックに想像することを拒否する彼らは、自らが「積極的に」生きる理由をどうしても見つけだせない。
しかし、彼らは、ある「コミット」をします。他人にはなかなか理解されないような慣習、ちょっとした、作法。子犬にささっている、矢を抜こうとしたり、脅されているヤクザを逆に自分からサポートしようとしたり...。
なぜ、主人公は、こういうことをするのか。こういう他人になかなか理解されない、主人公の(内にある、ある連続性に起因する)、こういった個人的な行動は、むしろそこに、「未来への希望」ではなく、
今への快楽
を、作者は、描こうとしていたのだろう。しかし、上記の第16話以降、作者はむしろ、こちらをこそ評価しようという態度変更をしていったのではないだろうか。
はるか未来を空想することは、傲慢であり不遜である。主人公たちは、自らの虚無的な世界観に苦しむ一方で、他人と関係していくこと、友達と「コミット」することをやめることはない。愛がたとえ、セックスの相性や、どれだけ同じ屋根の下で暮らしたか、だけの意味しかないと彼ら自身が悟ってみせたとしたところで、その男女が日常くりひろげる「コミット」の事実性は、まったく「等価」のはずなのだ。
彼らは、
今ここ
で、自らの判断、自らの中から湧き上がってくる、その実践的な「快楽」を、その意味も分からず繰り返す。第16話以降の著者が変わったのは、それを肯定しうる
何か
だと考え始めたところなのではないだろうか...。