ベン・メズリック『facebook』

この本は、フェイスブックを作った、当時のハーバード大の学生、マーク・ザッカーバーグを中心とした、フェイスブックが作られ、世に広がっていった、そのサクセスストーリーに関わった人々の物語になっている。
この本の大きな特徴は、作者マークを「カリスマ」的に描いていない、ことだろう。彼を、あくまでの、一人の学生として、ネクラなコンピュータおたくとして、等身大で描こうとしている。その姿勢に、作者の意図が感じられる。
フェイスブックについては、今さらな感もあり、多くの場所で語られ、実際に、世界で、5億人が使っていると、あとがきにも書いてあるわけで、今さら、これについて語ることは、蛇足にもならないだろう。
ただ、この本を読むと、作者が、どのような、意図のものをイメージしていたのかが、その雰囲気とともによく分かる。
作者が、フェイスブックの作成を始める前に、3つの前段となる開発経験がある。

  • 各学生が取得している授業の閲覧管理システム
  • 大学内の学生の顔写真による、人気投票システム
  • 大学内ナンパ掲示板(作者は、この制作に関わりながら、制作を放棄し、ここから、さまざまなアイデアを盗む。現在は、和解しているとある。)

まず、なによりも、重要なことは、このアイデアが、

  • あくまで、ひとつの大学内での、便利ツールを目指されていたこと

である。そう考えるなら、かなり、ラディカルなまでに、

  • 個人のプライバシーのかなりの量を書き込ませ、公開させる

システムになっていることの有用性も分かるだろう。学校は当然、学生名簿を公開している。じゃあ、これをもっと使いやすく、学生たちの需要にもとづいて「拡張」できていいのではないか。
たしかに、学校内に閉じるなら、この考えは自然に思える。
ソーシャルと、かっこよい言い方がされているが、ようするに、ナンパなんですね。学生がまず直面するのが、どうやって、お近づき、になるかなわけですね。全国から、集まってくる、なんの繋がりもない学生たちが、どうやって、お近づき、になったらいいのか。これができるかできないかで、キャンパスライフが全然違うものになってしまう。では、どうすればいいのか。
ネットの空間に、キャンパスを、
マッピング
する。各学生は、1対1、で、アバターを作る。そして、
ナンパする。

また立ち上がって間もないザ・フェイスブックは、ハーバードの学生の生活を大きく変えてしまった。学生たちの日常生活の中に入り込み始めていたのである。朝、起きるとまずザ・フェイスブックのページを開いて、誰かが「友達になりませんか」と言ってきていないかを確認する。また、「友達になりませんか」という申し出が受け入れられたか拒否されたかを確認する。そのあと、外出して授業などに出て、帰宅すると、教室で見かけた女の子、あるいはダイニングホールで見かけた女の子がいないかを探す。
ザ・フェイスブックで検索をかけて、お目当ての子が見つかったら、「友達になりませんか」というリクエストを送信するのだ。その時、簡単なメッセージを付け加えることもできる。

この仕組みは、キャンパスのような、ところでは、実に自然に思える。学生のだれもが、新しい出会いを求めている。そのための「一つ」の仕組みと考えられる。各自の履歴書を載せることで、相手がどういった人なのか、値踏みができる。こいつは、友達になっておくことが有利になるか。
また、こういった仕組みは、むしろ、会話の苦手な、日本人には、ありがたく思えないだろうか。文章で、アプローチできるわけで。
それは、たとえば、戦後復興で、ほとんどの家に、冷蔵庫やテレビが置かれたのと似ているかもしれない。学生の「夢」をかなえる、ツールであるというだけでなく、実際に、みんなが使った。その、みんなが使っているという事実によって、自分が使う動機になる。
実際、フェイスブックは、学校において、ほとんど、必須となっているだろう。しかし、逆に言うと、こういった、SNS文化は、そういった学校や会社といったような、ある種の、
同郷意識
のようなものには、非常に有効に機能しているのではないだろうか。同じ大学出身者の間には、同じような、モラリティの共有がされやすく、互助の関係となりやすい。
しかし、逆に言えば、基本的には、このツールは、こういったものの延長なのだろうと思う。実際、学校を卒業した後も、使われていくのであるが、その使い方は、あくまでも、学生までの延長としてあるような印象がある。
また、フェイスブックといっても、基本は、これだけのものであって、逆にいえば、このシンプルさが魅力なのだろう。いずれにしろ、ほとんどの学校で、使われたことで、これが、デファクト・スタンダードになった。そして、彼らも学校を卒業した後も「その蓄積の延長で」使い続ける。
たとえば、自分がジャーナリストになろうとしたとき、さまざまな取材相手に取材をしたいと思ったとき、こういったツールは、アポとりの便利なツールとなるかもしれない。
こういった、SNSと twitter との比較ではどうだろうか。twitter は、技術的に興味深い。twitter の方がかなり強引に、相手にコミットしていく特徴があるが、このシンプルな構造が、全体として許容することを容易にする、というところだろうか。日本において、twitter はある意味、成功しているが、2ちゃんユーザーのような、半匿名の書き込みが、かなりの割合となっているのが特徴のようだ。ただ、日本においても、日本の人口から考えれば、twitter をやっている人口は、どう考えても少ない。わざわざ、つぶやいている方々の、
情報発信「強者」
ぶりばかりが、やたらと強調される形になっている。どんどん、昔の村社会に似てきている。けっこう、社会的なステータスを確立している方々の「情報強者」としてのはしゃぎっぷりと、彼らの太鼓持ちのような、よいしょファンの、気持ち悪い傷に舐め合いばかりになっている印象は否めない。
それにしても、こういったソーシャルツールは、眺めれば眺めるほど、驚愕の印象をもつ。情報のリテラシーのある方々であれば、ちょっとした友達同士の日常会話に使われている。そして、そういったものが、こうやって、なんの関係のない私たちが、普通に見れるわけで、その情報量の多さは、さらなる、この分野の、将来について考えさせられる。

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