セス・ゴーディン『パーミションマーケティング』

私たちは、よくもまあ、生まれてたら今まで、あきもせず、よくもまあ、これだけの
広告
を消費してきたものだろうか。テレビをつけて、チャンネルを民法に合わせれば、何分おきかには、必ず、見ていた番組とは、なんの関係のない、自分には
どーでもいい
ある商品の自慢話を、
突然
これでもかと、30秒くらい、マインド・コントロールされ、悩に摺り込まれる。
強制的に。
これを、生まれてから、今まで、毎日毎日、やられてきた。
やられて、やられて、やられて、やられ疲れて、
どうやら、感覚が麻痺してしまったようだ。よく考えてみよう。私が見ようとしていたのは、その番組であって、CMではない。つまり、CMは、私が求めていたものではない。それを、番組を見るため、という理由だけで、見「させ」られるというのは、
苦痛
である。なんで、こんな「苦行」のような、毎日に耐えねばならないのか。何回言わせたら分かるんだ。
不快
なんだよ。やめてくれ。
ところが、世の中の、すっかり、悩のひだの一つ一つまで、焼き付けられた、御仁がたは、どうも、このように考えないようだ。テレビは無料なんだから、それくらいの、不利益は甘受しろ。ただより高いものなんてねーんだよ。この、バカ、アホ、ボケ。
うーん。よくもまあ、ここまで、奴隷根性丸出しなもんだなー。
まず、考えよう。
街を歩けば、そこら中に、広告だらけだ。あっちを向いたら、企業宣伝看板。どっちを向いても、企業宣伝看板。おれは、そんなもの見たくないんだ。見たくないのに、なぜ見せられなきゃならないんだ。
よく考えよう。
この世界は、私たちが生きやすくするためにある。私たち自身が、自分が生きにくいセカイにするために、わざわざ、自分にいやがらせをする人はいないだろう。だとするなら、「だれも」求めていない、企業広告をなぜ、
なんの関係のない
市井の市民が、企業広告シャワーを浴びて生きなければならないのか。
そもそも、なぜ、企業は、こんなに、国民がやめてくれ、と言ってるのに、広告をばらまくのか。だれだって考えれば分かるじゃないか。テレビのドラマを見ていて、なぜ、いい所で、自分の感情移入を邪魔する、CM、を見させられることで、思考の邪魔をされなきゃなんないわけですか。
なんで、企業は、国民みんなの、嫌がることを「あえて」やるのか。
なぜか。なぜなら、企業は、それが「常識」だと思っているからである。
そうするもんだ。
しかし、どうだろう。そのことの意味していることは、なんなのだろう。
まず、企業は、ひとたび「広告」という建前さえ手に入れれば、国民の五感を、企業情報で塗り潰していい、ということになる。国民の感覚が麻痺するまで、さまざまな感覚を国民に浴びせ、国民の感覚がおかしくなる、壊れて、正常な感覚がバカになって、容易に企業が、この国民に、買わせたいと思っている商品を、買わずにはいられなくなる位までにする。
どうやって、そうするか。
世間一般に言われるのが、まず、「マインド・コントロール」一般というところだろうか。さまざまな、言葉の魔術で、相手に冷静に考えさせない。世間一般の庶民は、しょせん、学歴の低い「ばか」ですから、いいとこの大学でた、エリートには、簡単に口先三寸で、まるめこまれてしまう。
しかし、そんな高等テクニックは、まだるっこしい。もっと、簡単な方法がある。暴力や恫喝で脅すのだ。買わなきゃ、後で、さんざんな目に合わせられるんじゃないか、と思ったら、だれだって、いらないものでも買うだろう。恐いのに比べたら、はしたお金なんて、安いもんだ。
ようするに、どっちでもいい。企業の「やらせたい」ことを、国民に「自ら進んで」、
主体的に
行動させるのだ。彼らに、疑問を抱かせない。それを、まるで、「自分で考えたかのように」常に企業擁護の行動を動機付けさせる。
まさに「調教」だ。
もちろん、こういったことは、普通に考えば、そう簡単ではないように思えなくもない。しかし、相変わらず、人格改造セミナーみたいなものは、無くならず、続いているわけであり、さまざまに、他者支配の「技術」が宣伝されない日はない。
しかし、こういったやり方は、リスクも大きいし、そう簡単に成功もしないだろう、と考えると、無駄なんじゃないか、努力のわりに、得るものは小さいんじゃないか、と思われるかもしれないが、それは相対的な話である。
一部の金持ち年寄りは、使いきれないくらいに、お金を持っている。多少強引でも、こういった連中から、大金をまきあげられれば、なまじっか、お金をもっている連中だから、一度に入ってくる金額も桁違いだろう。また逆に、彼らにしたって、そんなふうに取られるお金など、そんな
はしたお金
なんも痛くも痒くもない。それより、この年になって、暴力で脅される方が恐い。こんなふうな感じで、意外に簡単に「脅し」戦略はマーケティングとして成功してしまうかもしれない。
しかし、どうだろう。こんな世界。これのどこが、私たちが夢見た、理想の世界であろう。私たちの未来は、朝起きたら、毎秒毎秒、どこかの企業からの、「勧誘」電話の対応で、夜寝るまで、時間を取られ、一秒たりとも、自分の時間を確保できなくなる。
それでは、企業側から考えたら、なぜこんなことになっているかを、どう説明できるか。まず、早い話が、人々に自分たちの存在や自分たちの売る商品を知ってもらわないことには、話にならない。とにかく、見て知ってほしい。しかし、それは「どうやったら実現するか」。
ここで、パラドックスに直面する。プラトンの、知ることとは知っていることを想起することである、じゃないけど、その商品を知るには、すでに知っている必要がある。つまり、自分がその商品を知りたいと思う「前」に、その商品を知っている必要がある、ということ。
じゃあ、これは、具体的には、どういう事態なのだろうか?
こう言っていいのではないか。この世界は、

だ、ということである。人は他人を、言葉などのさまざまなツールを使って、相手に影響を与える。相手の考えることをコントロールし、相手の思考の方向を「強引」に、ある一定方向に向かわせる。
人々は、違うといっても、同じホモサピエンス。そんなには違わない、と想定できる。だから、ある洗脳ツールが、たまたま一部の例外には通用しないかもしれないが、その他大勢に適用できるものが、見付けられないとは限らない。
このアプローチは、非常に文系の学問に多く見られるように思う。自然科学においては、「例外がある」ということは、反証された、ということですから、偽な命題、となる。それが、どんなに多くのケースで一見指摘できるように思えても、例外がある、ということは、自分に不都合な事実を見ないようにしている、というのと変わらない。
しかし、実際に、バイアーがカスタマーに洗脳戦略で、商品を売ることで、多くの消費者が消費する結果になっているのであるなら、そこには、なんらかの「合理的」な真実があるのではないか。洗脳戦略といっても、相手を不快にはしても、洗脳にまでは至らない、その商品を買うまでには至らない、そういうケースが、ほとんど、だとしても、ほんの一部の人さえ買ってくれるなら、儲かる。因果関係などどうでもいい。十分に、利益がでる。だとするなら、こういった「強引」戦略は合理的だと言うべきではないのか。
たとえば、これが、さまざまな共同体内の問題である場合は、そこに、「権威」の上下関係が制約してくる。上司が部下に命令をするのは、上司に「権限」があるからである。この関係は、一見抑圧的に見えるとしても、ようするに、「権利」の配分をすることで、相補的に「義務」の配分がされていることを意味している。部下は上司に命令されてやったことの、行為自体の責任からは免れている(ただし、その行為の内容の責任から逃げることはできないが)。
ところが、売買関係においては、そういった権威の上下関係はない。ガチでぶつかるしかない。売る側がいかに、世間のステータスのある「強者」であっても、消費者は、買わなきゃならない、という義務とはならない。
(だから、上司と部下の関係にしても、彼らは、「先験的」に売買関係を経ることで、こういった権威関係を前提としているわけである。最初に、お互いがこの会社の社員となるという契約が先にあるわけである。)
たとえば、普通の人間関係、子供社会のようなところでも、強引な悪ガキは、どらえもんのジャイアンのように、強引なものであるし、多くの場合に、そういった、肉食男子的な戦略は、使われているわけで、そんなものにデリケートに反応している方が、ナイーヴだということになるのだろうか。
しかし、もしそうやって、ひらき直ってしまったら、この世界は、どこもかしこも、強引な訪問販売ばかりになるだろう。相手が不快だと思うことが「分かっている」けど、売るためには手段を選ばない。これが「フツー」の世界は、私たちが求めていた理想社会と言えるのだろうか。
買う方は当然だが、売る方も、そういった広告が相手を不快にさせると分かっていてやるのなら、それは、この世界に、
不快
を増殖させる対価として儲けていることと変わない。
(こうやって考えれば、どうして、子供たちのイジメを大人が非難できるだろうか。この強引さのレベルにおいては、なんの「違い」もないではないか。大人だってイジメと同じレベルのことをやって、儲けてるんだろ。)
一般には、こういった事態に対する対処は、「法律」によって行われる。つまり、行きすぎは、さすがに、社会的に問題だと。じゃあ、それは、法律で規制しておこう、と。
しかし、そもそも、その「理念」が許され続ける限り、こういったことは、「じゃーどこまで」問題、となるしかない。そのラインはどこにあるのか。多少、法律ぎりぎりのところで、やった方が儲かるけど、社会的な非難を浴びる可能性はあるので、注意は必要だ、とかなんとか...。

封も切らずに捨てる雑誌が増えてきた。テレマーケティング担当者たちの勧誘の電話にも勇気を持ってNOと言うことができるようになった。ボブ・ディランの新譜を知らなくても死なないし、ニューヨークのどこそこのレストランが素晴らしくて、そして実際その何軒かが自宅の近所にあったとしても、別に気にならなくなっちた。
混乱は進む一方だ。その証拠に、今日あなたが出会ったマーケティング・メッセージはいくつあるか、数えてみるといい。Tシャツの胸にくっついているでっかいブランドネーム、パソコンについているロゴ、起動時にモニターに写るマイクロソフトの文字、ラジオやテレビの広告、空港で見る看板、車のバンパーについているステッカー、ふと広げた地方紙に載っている広告。
九〇年ものあいだ、マーケティング担当者たちはある一つのマーケティング手法のみに頼っていた。私はそれを「土足マーケティング(Interruption Marketing)」と呼んでいる。つまり、広告を見るものが何を考えていようが(何も考えていまいが)おかまいなしに、心の中に「土足で」ずかずかと上がり込む、おなじみの手法である。
だれも家のポストがくずみたいな郵便物であふれかえってほしいなんて思わない。『ピープル』誌を読むのは広告を読みたいからではない。三分間のコマーシャルを見るためにテレビを見ているわけではない。
広告は「私たちはなぜ注意を払うか」という点が重要なのではない。なのに、マーケティング担当者は、私たちがいかにすれば広告のほうを見るようになるか、だけが関心事のようである。私たちの意識あるいは無意識にある種の種を植え付けることによって考え事をじゃまする。そんな広告がいい広告とされていた。そうでなければ、広告費の無駄使いだった。森の奥深くに広告があってだれも見向きもしなければ、広告はないも同然である。たしかに。
このような考えかたであれば、広告とは生活者の関心をひき、なんらかの購買行動をうながすようなメディアである、という定義になる。だから、三〇秒のテレビコーシャル、二五インチ角の新聞広告に重要な意味があった。土足マーケィングなしには消費者の購買行動をうながすことはできないし、買うという行動に結びつかなければ、広告の意味はない。
ところが皮肉なもので、市場がますます混み合うにつれ、生活者の心に土足で踏み込むことは難しくなってきた。理解を助けるために、空港をイメージしてほしい。いまあなたは早朝の空港にいる。搭乗ゲートに向かうあなたの周囲には、早朝ということでほとんどひとはいない。そこに突然、話しかけられた。「すみません。七番ゲートにはどうやっていけばいいのですか?」。もちろななたにとっては不意打ちだ。しかし、相手を見るとまあよさそうなひとだし、時間はある。それまでの考え事を中断し、あなたは彼に、七番ゲートを示してあげる。
では、同じ空港で、午後三時だったらどうだろう。しかもあなたは飛行機に乗り遅れそうな状態で急いでいて、ターミナルはひとでごっったがえしている。ここまで来る間にすでに五回も寄付を募るひとに擦り寄られている。さっきから頭痛も始まった。
ここでさきほどと同じ男が同じ質問を、したとする。賭けてもいいが、あなたの反応は違うはずである。あなたがもしニューヨーカーだったら、彼のことを全く無視するかもしれない。無視しないまでも、「失礼」と一言だけ言って、目指すゲートに向かうはずである。

掲題の著者の言う、「パーミション(許可)」とは、この状況に、一石を投じようとしているように、一見思える。

パーミション・マーケティングの特徴は、「期待される」、「パーソンルである」、「適切である」の三つだ。

  • 期待される----ひとはあなたからのメッセージを楽しみに待ってくれる。
  • パーソナルである----メッセージはダイレクトに個人に届けられる。
  • 適切である----パーミション・マーケティングは生活者が興味を示したものについてのメッセージを送る。

つまり、その基本理念は、相手が「いいよ」と言ったら、広告する、となるだろうか。そうすることで、相手の嫌がることは、こちらはしない、という「契約」で行動できるようになる。
相手は実際、「いいよ」と言ったんだから、その広告攻撃は受けなければならないだろう。それが、人と人との「契り」ってものだろう。自分がそうしてくれって、言ったんだから。
またこれは、逆に言えば、相手が「やめてくれ」と言ったらやめる、ということであるから、クーリングオフじゃないけど、「やっぱいらない」と言われたら、やめるわけだ。
しかし、なぜ、こんな、ある意味「当たり前」のことを今さら、この人は言っているのだろうか。それは、言わば、ソーシャル・ネット・メディア、の発展によって、「可能になる」
夢が実現する
という、著者の見通しがあるから、である。著者も本の中で引用する
ワン・トゥ・ワン・ビジネス
というのもそうである。もはや、ネットは、マーケティングにおいても、1対1の関係を実現しつつある。私はあるモノが欲しい。問題は、

がそれを実現してくれるか、である。その、相手が問題なのである。その相手が、うさんくさかったら、本当に自分の欲しいモノが手に入れられるかは疑問であろう。むしろ、ヤクザじゃないけど、うさんくさい連中と関係をもつことで、下手な共犯関係にさせられて、関係を断ち切れなくなるかもしれない。
マスに大量にバラまく手法から、一人一人の許可を戴いているところに「バラまく」方法へ。
これは一見、革新的に思える。しかし、この本を読んでいると、リアリスティックには、あまり今までと変わらない現状が続いていくことを著者自身が認めてしまっている。つまり、
最初の一歩。
どうやって、知って欲しいと思ってもらうか。そこに関しては、結局、お手あげだからだ(プラトンが言ったように、みんな「新商品」をアプリオリに知っててくれたらいーんだけどね)。

土足マーケターがパーミション・マーケティングの考え方を聞いて最初にする質問は決まっている。「どうやって売るんだい?」。なぜなら、彼らは多くの人々が示す一瞬のこのリアクションをいかにつかむかを訓練あれており、マーケティングの全体からみればほんの一部分に過ぎない「販売」というパーツが、最も慣れ親しんだものだからである。
パーミション・マーケティングは土足マーケテングとほとんど同じステップをたどるといっていい。打ち出すキャンペーンはかなり違うが、各ステップの背景となる考え方は同じである。簡単に言って、パーミション・マーケティング担当者もまた、顧客が自発的に手を挙げるように仕掛けられたメッセージを使って、「じゃま」をするのだ。そしてそれがその後の、顧客に情報の交換に対して積極的に「イエス」といってもらい、信用を勝ち取り、売上げに結びついていく。最初のステップではまだ顧客を「じゃま」しているのである。
土足マーケティング・メディアがまだ生き残っている理由はそこにある。誰でも最初は注意をひきつけねばならないのだ。

結局、これだったら、なんにも変わらない。つまり、マーケター側が、
オプション
が増えた、という話なだけで、消費者にとっての「苦痛」の減殺を提案している本ではないわけだ。
しかし、どうなのだろうか。例えば、景観論争などでも、その地域住民が、こういった広告看板は街の景観を壊すから、法令で規制するなどの合意はできないのだろうか。
広告は、私たちが「(不特定の)広告を見てもいいよ」と許可したら、
現れる。
そんなシステムでは駄目なのだろうか。
しかし、そんなシステム。
一体、どうやったら作れるのだろうか?

パーミションマーケティング―ブランドからパーミションへ

パーミションマーケティング―ブランドからパーミションへ