フィリップ・コトラー『コトラーのマーケティング3・0』

私たちは、お金儲けをすることが、実際には、なにをしていることになるかを考えることは、日常にはない。日々の忙しさに、毎日を追われ、結局、それはなんなのか。考える前に、その日は終わる...。
ちょっと待ってくれ。もうそこまで、喉元まで出かかっているんだ。もうちょっとで、気付きそうなんだ。ああ、あとちょっと...。
みんな、そんな焦燥にかられながら、気付けば、いつの間にか、その日は終わっていて、気付けば、もう次の日の忙しさに追われ...。
アニメ「Kanon(カノン)(2006)」の、主人公、相沢祐一(あいざわゆういち)のように、7年前、この街で過していた頃のこと「だけ」が、どうしても思い出せない。確かに自分は、あの時、
ここ
にいた。この街で過していたはずなのに、なぜ思い出せないんだ。間違いなく、この街に自分はいたはずで、そこでなにかがあったはずで、だったらなぜ...。
なにか、大事な問題、自分が真剣に取り組むべき課題があったのではないのか。それを忘れているのではないのか...。
掲題の本は、そういう意味で、一般に、お金儲けとしてイメージされてきたものとは、ずいぶんとイメージの違うことを「そういったもの」として語ろうとしているように思える。そういう意味では、

クレイジーパワー 社会起業家―新たな市場を切り拓く人々 (Harvard business school press)

クレイジーパワー 社会起業家―新たな市場を切り拓く人々 (Harvard business school press)

などの、「社会起業家」論とほとんど区別がつかない議論展開になっている。
社会起業家とは、なんであったか。彼らは、一般に言われる、「金儲け至上主義」とは一線を画す。彼らは、そういう意味では、かなり、NGOに足をつっこんでいる。純粋に、お金儲けだけを考えるなら、もっと会社を大きくできるだろう。市場を、もっと拡大できるだろう。しかし、彼は猪突猛進で、その頂きを「たいらげる」ために目指すという行動に慎重すぎるくらいに慎重である。そういう意味では、彼らは、謙虚であり、控え目だと言える。
なぜ、社会起業家たちがそういった、肉食男子並みに「がっつかない」のか。それは、彼らの目標そのものが、「全然別」だからである。彼らは、金儲けをやらないわけでもなければ、それをあきらめたわけでもない。むしろ、そういった、金儲けによって、生まれる秩序の構築に積極的でさえある。では、彼らの謙虚さの源泉は何かと言えば、彼らの夢が、

だからである。どんなに自分の懐ばかりがうるおって、お金ががっぽがっぽ入ってきたところで、街を歩けば、飢えて凍え死にそうな人たちが、餓死寸前で、横たわっているような世界であるなら、そんな、天狗野郎は、義憤にられた、義士に、鉄拳制裁をくらって、暴打死するのがおちだろう。
彼ら、社会起業家たちの目標とは、むしろ、そういった自分たちの企業活動によって、そういった社会のさまざまな問題を少しでも軽くなるような、社会活動と
直結
しているわけである。たとえ、自分たちの利益を損なう可能性が多分にあるケースに直面したとしても、むしろそのことで、多くの困っている人たちの状況が改善するならそれを「良し」と考える経済行動だといえる。そういう意味では、彼らが、超巨大企業の形をとることは、ありえない。それは、それだけの「支持」を勝ち得ることがないからではなく、そもそも、そういう図体がなければならない(そうでないと、自分たちの目的と合致しない)といった、「目的」を持たないから、と言えるだろう。
社会起業家たちは、多くの場合、世間の一般常識とは、乖離している。しかし、それは悪い意味だけではない。それくらいでなければ、起業家としては成功しないわけで、彼らは、社会に、
新しい価値
を提供しようとしているわけですから、どう考えても、世間に分かってもらえる、と思うことの方が無理ということでしょう。世間の人と「違う」から、その差異が、価値を生むんであって、それ以上でもないし、それ以下でもない、ということですね。

確かに、社会起業家の多くは無謀なほど野心的だ。だからこそ彼らはおもしろいのであり、変革を実現する可能性を持っている。彼らは何事も「やればできる」と信じている。何も「しない」「できない」「したがらない」人に苛立ちを覚え、時に文句を言ってしまう。
クレイジーパワー 社会起業家―新たな市場を切り拓く人々 (Harvard business school press)

そういう、どこか、KYな部分、幼稚なまでの全能感と、セカイを自分がひっぱっていくというエリート意識(実際、エリート大学を出てるのだろうが)をもってなければ、企業家として、成功することはないのだろう。
しかし、こういうことだけなら、「マーケティング1・0」時代の、よくいた、はね返りレベルと変わらないと言えなくもない。

過去六〇年の間に、マーケティングは製品中心の考え方(マーケティング1・0)から消費者中心の考え方(マーケティング2・0)に移行してきた。今日、環境の新たな変化に対応してマーケティングは再び変化しえいると、われわれはとらえている。企業は製品から消費者に、さらには人類全体の問題へと関心を広げてきている。マーケティング3・0とは、企業が消費者中心の考え方から人間中心の考え方に移行い、収益性と企業の社会的責任がまく両立する段階である。

なぜ、著者は、ここまで、いつのまにか、偉い人たちの頭の中では、お金儲けと人助けの
区別
がなくなってきているかのような、言い方をするようになったのか。よりにもよって、マーケティングという「モノ売り」の専門家、がですよ。
それこそ、ネット社会の「村」化といえるだろう。ネットでの「会話」とは、地球上の全ての人との「井戸端会議」なわけで、どんどん勝手に脇から発言していく。しかし、その「構造」は、完全に、

である。だれだれがなになにしただのの、噂話が全体を占め、評判が一人歩きする。こういった構造においては、各企業の盛衰も、その全体の評判の傾向で「決定」されると言っても過言ではない。かつての村人たちが、なによりも、

を恐れたように、人々は「世間体」を基準に行動するようになる。

クチコミが新しい広告媒体になり、消費者が企業よりコミュニティ内の見知らぬ他人を信用する時代には、本物でないブランドが生き残る可能性はまったくない。ウソやでっちあげはソーシャル・メディアの中にも存在しているが、それらは消費者コミュニティの集合知によってすぐに暴かれる。
ソーシャル・メディアでは、ブランドはコミュニティの一員のようなものだ。ブランド・アイデンティティ(すなわち、そのブランドのアバター[ネット上での分身])は、コミュニティ内の経験の集積によって評価される。ひとつの悪い経験が、コミュニティ内でのその会社のブランド・インテグリィを台無しにし、ブランド・イメージを破壊することになる。ソーシャル・メディアのユーザーは誰もがこのことを知っており、ソーシャル・メディアのエリートたちは、ネット上での自分のキャラクターを厳格に守っているのである。マーケターはこのトレンドに注意し、それを受け入れる必要がある。消費者コミュニティをむりやりコントロールしようとするのではなく、自分の代わりに彼らにマーケティングをやらせるのである。マーケターは自分のブランドのDNAに忠実であればよい。マーケティング3・0は横のコミュニケーションの段階であり、そこでは縦の管理は役に立たない。誠実さとオリジナリティと本物であることが功を奏するのである。

ソーシャル・ネット・メディアにおいて、私たちは私たち自身の「写し身」としての
アバター
を降臨させる。重要なことは、それは、私とは必ずしも「一致」していない、ことである。私と違っていいのである。それは、あくまで、ネット内での「人格」であり、どこまで、あなたそのものとアイデンティファイするかは、まったく問われていない。つまり、そこにおいて、匿名か実名か、などということは、どうでもいいことなのだ。しかし、である。ここにもあるように、そういったアバターに、たんに自社企業のモノを買わせるための、マインド・コントロールまがいの脅し「つぶやき」ばかり「させる」なら、人々は、彼のその隠微な「たくらみ」を
集合知
によって見すかし、一気に、信用ならない奴という「風評」にさらされることになるであろう。ソーシャル・ネット・メディアであるからこそ、重要なことは、そいつの言っていることが、どこまで、誠実で、マジで語っているか、という、純粋に、
そいつそのもの
で判断される、ということである。むきだしの、そいつ、をさらけ出されて、それでも、そいつの理想が「マジ」なのかを試される。

ベーグルワークスのコア・バリューのひとつは健康と安全だ。これらの価値に対する真剣な取り組みを示すために、同社は小麦粉を大袋ではなく小袋で買っている。小袋で買うほうが高くつくにもかかわらず、小麦粉の袋を運ぶ社員が腰を痛めないよう、そうしているのである。企業が誠実さを保ち、自社の唱えていることを実践することは必須の要件だ。雇用主の永日さを目の当たりにすれば、社員はおそらく会社にとどまって全力を尽くすだろう。価値をしっかり守ることで、謝金の忠誠心が高まるのである。

世間に向けては、健康が大事だよ、と。だから、うちの商品買ってね、などと宣伝してる企業が自社の社員の健康を損ねることを「当然」と思っているなら、その企業の「評判」はガタ落ちし、世間の軽蔑にさらされる。
こうやって考えてくれば、これが、たんにその会社「内」に、とどまらない、ことが分かってくるであろう。

アイスクリームはロシアで大人気の食べ物だったが、ベン・アンド・ジュリーズがロシアに進出したのはビジネス上の判断からではなかった。利益を目的としていたのではなく、長年続いた冷戦の後遺症が残る中で、アメリカとロシアの関係を強化したいと思ったからだった。一九九〇年代にロシアの地に足場を築くことにしたおき、ベン・アンド・ジュリーズはそのトップとして信頼できる人間、デイブ・モースをアメリカから派遣した。だが、モースひとりでは仕事はできないので、チャネル・パートナーを使う必要があった。
ベン・アンド・ジェリーズ・ブランドを成長させるためにロシアで適切なパートナーを見つかるのは容易なことではなかった。パートナー候補はたくさんいたが、社会的責任を果たすというベン・アンド・ジェリズの価値を本当に理解している企業は一社もなかった。パートナー候補たちは積極的な成長を追い求める野心的で利益志向の企業だった。彼らはベン・アンド・ジェリーズのブランドが自社にとって貴重な資産になることを確信していたが、その基盤をなす価値については理解していなかったのだ。結局、ベン・アンド・ジェリズは生活共同組合連合会(Intercentre Cooperative)をパートナーに決めて、ロシアに進出した。

企業は、「どういったパートナー」会社と一緒に仕事をしているか。「どういったお客さん」と商売をしているか、そういった、その会社そのものが、どういった
社会関係
において、存在しているか、
そのもの
が評価される。
こういった時代において、一体、どのような態度が、どのような姿勢がありうるのか。それは、二つしかない。

  • ジャーナリスティック
  • アカデミック

ありうることは、この二つしかない。つまり、どこまでも、マジに誠実にやることである。事実を「認識」し、その「関係」を分析する。
一方における、誰も注目しない、真実を取材し、その「価値」を報道していく、地道な作業。他方、世の中の、さまざまな、諸関係は、どういった形になっているのか。それらを、一つ一つ、ときほぐしていく作業。
結局は、これしかないんじゃないだろうか。つまりは、東アジア思想が語る、仁義礼智。特に、高学歴エリートたちこそが、範を示す形で、謙虚に一歩後に引いた形での、謙譲の姿勢(オブリス・ノブリージュ)こそが、全般的な社会の、
感情
の落ち着き、安定となっていく。こういった、仁政政治の再評価へと向かうように思うのであるが...。

コトラーのマーケティング3.0 ソーシャル・メディア時代の新法則

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