三中信宏『進化思考の世界』

進化論が、日本に紹介された時期と、明治維新は、ちょうど重なる。明治の文明開化の時期に、一緒に、日本に紹介される形になっている。
この事実は、何を意味しているのであろうか。明治の文明開化の時期に、日本に その他のさまざまな、文明の利器と一緒に、進化論も紹介された、ということである。
つまり、進化論が、文明(科学)の象徴となった、ということである。
科学 = 進化論
科学的であるということは、「進化論」的思考プロセスを辿ること、と同値とみなされた。このことは、近代化のプロセスが、急激だったこともあり、著しく、日本の学問が、
紹介した人
によるバイアスがかかってしまったことを意味する。明治から、昭和初期までに、当時の学者が果してきた役割は、ほとんど、
真理
と同値のものと見なされた。実際に、多くの欧米の知見が、日本の近代化、つまり、テクノロジーの生活レベルへの浸透を実現したわけで、その、
カリスマ的なまでの伝道師
としての役割は、現代の学者の比ではなかったわけだが、話はここで終わらない。彼らは、むしろ、
現代
を規制している、と言っていい。そういった明治の「えらい」学者たちが語っていたことを、基本的に日本の今の学者は「踏襲」する。基本的にその延長でものを考える。しかし、それが学問である。自分がだれの派閥か、と言えば、だれだって、日本にあるどこかの研究所に所属しているわけで、そういう意味では、日本の研究者は、日本の先人の研究者のだれかを、お師匠とし、その弟子として、存在するわけで、師匠の残された功績に泥を塗るようなことができるわけがない。
ということは、その明治の頃に、少ない知識で、「常識」となった、謬見が今だに、我々の判断を決定付けていることになる。
たとえば、ダーウィンが進化論を書いた頃の、ヨーロッパにおいて、博物学は「全盛」を極めていた。この状況は、現代の私たちには、なかなかイメージができない。多くの、化石の収集や系統樹の作成などが、行われ、人口に膾炙していた。
興味深いのは、こういったムーブメントが、アカデミズムに閉じていたわけではなく、多くの一般の人々が関わっていたことである。

バーバーは、ダーウィン以前のイギリスにおいてナチュラル・ヒストリー運動が全国的に広がりを見せていたのは、そのころ受け入れられていた博物学に自然神学の流れを汲む自然観・生物観の後ろ盾があったからだと主張している(Barber 一九九五)。つまり、キリスト教の影響が社会のすみずみにまで浸透していた当時のイギリスにあっては、国民レベルでのナチュラル・ヒストリー運動の展開は、明らかに宗教的な意義を担っていたということである。それは、自然神学の教義にのっとって自然研究を手がけることにより、創造主の叡智を自然の中に学びとり、さらには人生のための教訓を得るということだった。

彼ら庶民が、なぜ、博物学のような作業に(静かなものであれ)熱狂したのか。それは、化石などの生物の姿には、
神の意志
が現れている、と考えられたからである。こういった、系統樹を研究することが、神の意志が、どこにあるのか、を推論する有効な証拠と考えられた、ということである。化石や自然に生きる生物の姿には、なにかしらの、
神の意志
が反映されている。

興味深いことは、自然神学が地球上にいる多様な生物を個別創造説によって説明しようとしたのに対して、ダーウィン進化論とりわけ進化要因論としての自然淘汰説がまったく別の説明をぶつけてきたという点である。同じ対象に関して二つの対立理論が衝突するとき、それぞれの理論体系がどれほどうまく説明できるかが問題となる。個別創造説と自然淘汰説との対立は現在もなお続いているが、一九正規後半における自然神学と進化思想の対立はその幕開けを告げるものだった。

問題は、ここにあるような、ダーウィンの進化論がそういった、教会的な観点に疑問を呈したという点だけではなく、それによって、以前まであった、市民レベルの博物学的な熱狂まで、破壊した、ということである。
もちろん、人によっては、もともと、パンピーが、博物学的なものに興味をもってた理由が、そういった宗教的な理由でしかないなら、こんな「悪習」やめちまえ、と言う人もいるかもしれない。しかし、もしそういった、生物に対する認識を、パンピーレベルで深めてもらえることこそが、(近年のエコロジカルな発想の重要さが理解されてきている中で)重要なら、理由はどうあれ、そういった「有徳」な行為を保持するように促すべきなのではないだろうか。
こういった問題については、スピノザが、

神学・政治論 上巻―聖書の批判と言論の自由 (岩波文庫)

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において、確か検討していて、つまり、哲学的な意味において、人格神が存在する、という表現は、たんに偽なだけだが、もし、庶民にとって、そういった表現の方が分かりやすいのなら、単純に否定すべきでない、といったことだったと思う(似たようなことを言った、日本の宗教家も、いろいろいるのでしょうが)。
宗教は、たんに、嘘(うそ)なのだから、この世界から、宗教が無くなればいい、という極論は、たとえ正しいとしても、現実的でない可能性がある。
もちろん、そういう人が、この世界から、宗教がなくなるための運動をすることを、私が否定したいとか、そういうことが言いたいわけではない。実際に、今、宗教があり信者がいる限り、そうした、事実性を踏まえない議論は、空疎だと言っているわけである。
私たちがこだわっているものは、常に、そういった「相対的」な、事実なのではないだろうか。
アニメ「AIR」において、神奈備命(かんなびのみこと)は、生まれてから、ずっと、貴族の生まれとして、御殿の奥で、とりまきに、なにもかもを世話されて生きてきた。彼女が、ある日、母親に会うために、神州に向かうとき、それが意味することは、彼女がこれからは「庶民」と変わらない生活の中で生きることを決断することだったときそれを、金持ちが金持ちだというだけで、贅沢な生活ができるのは、不公平だから、そんな姫君はみんな、庶民階級に落とせばいい、というのは極論であろう。
彼女は生まれてから、「お姫様」のライフスタイルしかやってきていない。つまり、彼女は、「お姫様」に
適応
していたということである。そんな彼女が、いきなり、庶民と同じ生活をやれといって、やれるわけがない。逆に言えば、庶民は、そういった「貧乏」に
適応
してきた、ということなのである。そういった生活でも、なかなか死ににくい体力を持っている、ということである。
私が言う保守主義とは、こういった考えの延長にある。
例えば、以下の池田さんのブログの記事で、カーネマンのプロスペクト理論について、紹介している。

その出発点は、プロスペクト理論で実験的にも証明された基準点の概念である。人間は外界の刺激を受けたとき、その絶対値をみて効用を最大化するのではなく、初期値からプラスかマイナスかに反応する。サイモンの限定合理性(bounded rationality)も、正確に訳せば「制約された合理性」であり、この制約条件となるのが基準点である。
そして人間はこの基準点となる現状(status quo)を維持するバイアスをもち、プラスの利益よりもマイナスの損失に強く反応する。
screenshot

ベイジアン統計とも似たこの視点は、私の言う保守主義とも近い。例えば、ある、確率過程を考えてみよう。ある時点で自分が持っている情報(つまり、自分の行動指針)は、時間の経過とともに、増加していく。しかし、その情報は「絶対的」なものだろうか。多分に、それまでに自分が持っていた情報によって、その新しい知見に対する、
評価(つまり、確率変数)
は、バイアスされていないだろうか。比較的、裕福な生活をしてきた人にとって、突然の、破産から、貧乏生活は、最初から、貧乏だった人たちに比べて、想像を超えた、苦行にも思えるような、確率空間になっていないだろうか。
これは、疎外論についても言える。数学には、有名な、
選択公理
というものがある。私たちは、ある集合の中から、その容れ物が、空っぽでさえなければ、
なんか一個
を取り出せる、と考える。そこで、選択公理、は、もう、面倒くさいから、宣言してしまうわけである。
その集合から一個を取り出す「方法」がある
って。でも、よく考えてみよう。もちろんだが、具体的に、その中から、取り出した後に、取り出す方法が「ある」、と言うことを私は疑っているわけではない。すでに、一個取ったんなら、取り出せる、というのは「当たり前」である(これを、構成的、という)。
私が言っているのは、ある「無限」個の集団を前にして、そいつがどうなっているのかが分かっているか分かっていないか「以前」に、その集団からの、「取り方」が、
ある
という「仮定」を問題にしているわけである(これを、非構成的、という)。
人間を含み、動物を含み、さらに、植物を含む、
生き物
という「集団」が「ある」なら、その中の最も「疎外」された、誰かを
救わなければならない。
しかし、私がさっきから問題にしているのは、その「集団」が「ある」という、
非構成的
アプローチについてなのである。少なくとも、私は、まだ、
そいつ
に出会ってもいなければ、そいつの何も知っていないわけなんですから。
これは、精神分析における治療行為にも言える。医者は、患者を治療するというとき、そいつと出会いもせず、そいつについて、何も知らないで、
診断
などできるわけがない。よく、テレビのコメンテーターで出てくる、うさんくさい、精神科医が、テレビの向こうから、こいつは、頭が狂ってるとか言ってるのは、その医者の方が狂っているわけである。だって、その態度そのものが精神分析と矛盾するからである。相手と話し、相手の反応「によって」始めて、診断と治療は可能になる(生成される)。それが、フロイト精神分析入門の主張だったのではないか。

たとえば、こういった問題をちょっと違った角度から、考えてみよう。アニメゲーム「Kanon」の、沢渡真琴(さわたりまこと)編や、アニメ「AIR」の神尾観鈴(かみおみすず)は、言ってみれば、
子供にとってのターミナル・ケア
が主題になっていると言えるのかもしれない。しかし、子供といっても、もう人格も生まれていて、立派に意志も生まれている。たとえば、美鈴は、国崎往人(くにさきゆきと)と、今度こそ、友達になれるのではないか、と、
がんばる
わけですね。しかし、彼女の(血族としての宿命なのか)、どうしても、今回もうまくいかない。いつものヒステリー症状が現れ、また、孤独になってしまう。真琴(まこと)にしたって、だんだん自分の体力が弱っていって、箸もうまく握れなくなるんだけど、自分でもなぜ、自分がそういうふうになっていくのかが分からない。また前のように体がうまく動くようになりたいと、自分の部屋で、何度も何度も割り箸で練習して、がんばっていた証拠として、後で、その部屋に、折れた割り箸が、たくさんちらばっているのを、相沢祐一(あいざわゆういち)が見つけるわけですね。
そういう、子供たちが、運命に立ち向かう、
がんばる
姿を一方で描きながら、他方において、彼らには、その後に残酷な運命が待ち受けていることが「決定している」。
それが、ターミナルケアですね。たしかに、すべては無意味なのではないのか。どうせ死ぬなら、なんで、なにかをやろうとするのか。なにをやったって、死んだら、無意味なんじゃないのか。やってなんになるのか。なんで、
がんばる
んだよ。やればやるほど、つらくなるだけじゃないのか。
しかし、そうなのだろうか。もし、その運命に直面している、これら少女たちが、自分だと考えてみようではないか。もし、自分が彼女たちだとしたら。
なにかをやりたいと思うことは、不自然なことだろうか。
彼女たちには、彼女たちの「今」の確率空間があるのであって、その今ある、プロスペクト理論ベイジアン統計が、彼女たちの今「やりたい」なにかを導き、
その先
へ行くことの「快楽」を求めることは不自然なことであろうか。どんなに、自分が人生の最後に直面することになったとしても、そこではそこでの、
やりたい
ことをやろうとするのではないだろうか。
たとえば、(掲題の本も何度も研究されているが)系統樹というものがあるが、よく考えてみよう。家系図の、今の世代の「一つ前」として書かれているのは、
本当
なのだろうか。本当だと言うなら、それは誰が証明してくれるのか。じゃあ、これが、まず間違いなさそうだ、としてみよう。では「二つ前」はどうか。「三つ前」はどうか。もう、ここらへんまでくると、まず、これを「リアルタイム」で生きた人がいなくなる。もう、その頃のことを覚えて、経験している人はいない。だれも、体験していた人が「今は」いないのに、その時代が「あった」と言うことは、なにを言ったことになるのだろうか。その時代の人々の雰囲気はどんな感じだったのだろうか。どんな感受性を、それぞれもって、どんな話をしていたのだろうか。
しかし、だめなのである。
もう、その時代には戻れないのだ。
もう、だれにもそれを知ることはできないのだ。
それが過去というものである。
つまり、過去は本質的に「分からない」のだ。
上記のように、系統樹家系図は、時代をさかのぼれば、さかのぼるほど、うさんくさくなる。しかし、逆は言えるのである。つまり、この関係は、非常に単純に整理できる。

AとBという二つの塩基配列間にあり得る祖先子孫関係は次の三通りの系統樹しかない。

言葉であらわすならば次のようになる。

  • 系統樹1「AはBの祖先である」
  • 系統樹2「BはAの祖先である」
  • 系統樹3「第三のXがAとBの共通祖先である」

何代かさかのぼるだけで、あれだけ、なにが「正しい」かを言及することの難しさに四苦八苦しておきながら、これだけ「明確な」ことが、普通に言えてしまう(つまり、順序構造を保存する限り、当たり前ということなのだが)。
「だれにでも」共通祖先がいる、という「事実」は、そもそも、家柄とか、やんごとない身分とかを考えるって、なんなのかな、という気持ちにさせられないか。
議論が錯綜としてしまいましたが、例えば、

アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない (Bunshun Paperbacks)

アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない (Bunshun Paperbacks)

を読んでいて、アメリカ人ってバカだなーと思うかもしれないが、日本人だって、普通の庶民は、似たようなものでしょう。じゃあ、どうすればいいのか。エリート様にお任せすればいいのか。しかし、一度、そう決定した所で、彼らは、真っ先に、パンピーが苦しむ重税を課してくるであろう。なぜなら、パンピーは頭が悪いから、エリートにとって、パンピーを「だます」ことはたやすいからである。
じゃあ、どうすればいいのか。その間でやるしかない。パンピーはなんにも知らなくても、それなりには知ってるんだから、民主主義で、大まかな、方向性の投票はしてもらう。他方において、細部については、専門家しか知らないのだから、専門家に任せるんですけど、監視という意味では、パンピーも彼らを監視する体制を用意する。
もちろん、今のアメリカのように、ある程度、それがいびつだとしても、それも一つの、なんらかの意志が現わされているわけで、そういった全体の集合知の、
実力
に我々の未来を賭けるしかない。しかし、こういった「民主主義的な」各自の「適応」戦略は、我々が思うほど、脆弱だろうか。自然界とは、統計力学が説明するように、ほっておけば、エントロピーの法則によって、世界は無秩序になる。そういう意味では、いずれ、人類最後の日が「必ず」来る。しかし、なぜ、人類は今まで存続してきたのか。それは明らかに、我々のこの、「適応」戦略が、それなりに、
タフ
だったからであろう。この方向の先にある「未来」に賭けてみることは、それほど分の悪いベットじゃないと思いますが...。

進化思考の世界 ヒトは森羅万象をどう体系化するか (NHKブックス)

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