日本人という「あいまい」な輪郭

日本人がなぜ、外国語を話すのが苦手なのかを、この前は、日本語の音節言語にある、と考えた。つまり、常に、子音と母音がペアで発音され、子音だけ、という発音が日本人には、「理解ができない」。
たしかに、こういったことがあるのだろうな、と思わなくもない。しかし、それだけと考えるには、あまりに「やる気」がなさすぎではないだろうか。そんなに、問題がはっきりしているのなら、一点突破で、がんばればいい。
しかしやらない。どうも変なのだ。
私は、なにか嫌な予感のようなものがした。日本人が、なぜ、外国語を「本気」でやらないのか? それは、もっと本質的なところにあるのではないのか。
たとえば、日本人としての、アイデンティティに関わるような部分で。
なにをもって、日本人は日本人なのだろうか。なにがあるから、私は自分を日本人だと思っているのだろうか。
こう考えてみると、途端に、自分の「輪郭」が怪しくなる。
たしかに、おれはこの国で産まれ、この国で育ち、今日までここで、...。
いや違う。私は、そんなことを聞いていたんじゃないはずだ。もし、日本人という殻が、この、日本列島という
土地
に「全て」が収斂するなら、日本人が海外に飛び立つことは不可能ということになるであろう。なぜなら、海外は日本列島ではないから。
よく考えてみると、日本の文学からなにから、日本的と呼ばれているものの多くが、日本列島のさまざまな、土地の特性「で」説明されることが多いように思われる。富士山があり桜があり、お米があり、四季があり...。
ということは、どういうことなのだろうか。もし日本人が日本列島の「外」にありながら、それでも日本人を自称するということは、なにを意味しているのだろうか...。
日本の「外」には、日本の土地の特性「がない」から、日本の外なのであって、そこに存在している時点で、それは「日本人」と呼ぶべき存在なのだろうか。
海外で暮らしている時点で、お前は、もう、その土地の人間なのであって、日本という「なにか」の「かけら」でさえなくなっていて、...。
じゃあ、なんだろう。あと残っているものって。もう、日本語くらいしかないんだよな。日本語を話しているから、まだ、自分は「かろうじて」日本人と呼べるなにか「かけら」を、どうやら「身につけている」と言っていいように思えるんだけど。
でも、海外にいたら、むしろ、日本語って、必要ないどころか、
邪魔
ですよね。言語学習にとって、その土地のネイティブで考えて、ネイティブで全てをこなすことこそが、上達の早道なわけでして、もう日本語「が回りから無くなる」方が、むしろ、その人にとって、その人のこれからを「幸せ」にするんですよね。すべてを現地語で始めることによってこそ、上達も早まり、一刻もその土地の慣習に慣れていくわけですから。
困ったな。
もうおれ、日本人じゃなくなるみたい。だって、日本人とか言ってる時点で、苦しいんだもん。
それにしても、なにか、ずいぶんと極端に思えるのだが。だって、世界の国々では、多くの人々が海外留学に挑戦していて、移民もたくさんいますよね。その差って、なんなのだろう?
そこで、どうしても考えさせられるのが、
宗教
だ。宗教とは、なんだろう? 実は、宗教の本質は、物語というより、

なのではないか、ということが、以下の鼎談で議論されている。

大澤真幸 先ほど島田[裕巳]さんがおっしゃったように、ユダヤ教イスラム教は要は法ですよ。普遍宗教は、法に向かっていくベクトルをもっている。しかし、普遍宗教には、法から抜けていくベクトルもあり、その典型がキリスト教で、キリスト教ユダヤ教の律法を破棄する構造になっている。法というものは、それを尊守するかどうかで、仲間と外部とを区別して連帯あせることができますから、例えば、ユダヤ教イスラム教の食物の禁忌に従うかどうかで、一緒に食事できる仲間とそうでない者とを区別することになりますから、集団を内的に区別することになりますから、集団を内的に凝集さえる求心力と対応している。

「可能なる世界同時革命

atプラス 06

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多くの宗教が、さまざまな、「掟」をもっている。その「掟」に従うということは、その掟に従う人々が、「一緒に行動する」ということを意味している。同じ掟を共有するからこそ、人はグループを形成する。同じ掟を共有しなければ、たとえば、食事で食べていいものが違うなら、同じものを食卓に並べて、楽しむことはできない。こうやって、

が、人々のグループを作っていく。
他方において、日本の神道は、笑っちゃうくらいに、法的な輪郭が弱くないだろうか。むしろ、神道の「中の人」たちの方が、それを「日本の神道の素晴らしい理由」みたいに、評価しちゃったりする。でもね。それじゃあ、宗教じゃないのよ。つまり、
法 = 宗教
これが分かってない、日本の神道は、今だにアニミズムの域を出ていない(それが、逆の意味での評価にもなりうるのではあるのでしょうが)。
そこで出てきたのが、日本の仏教各派であったのであろう。ところが、日本の鎌倉仏教からなにから、
神仏習合
が進んだからなのだろうか。基本的に、天皇を「異教」的存在と考えないようなところがありますよね。もう、そのまま、御釈迦様や阿弥陀如来のような存在と、同列に扱うようなところがある。つまり、天皇一系を、なんらかの、仏教的な「聖者」の一党に簡単に含めているところがある。
しかし、こうなってしまうと、じゃあ、庶民の人々の視点において、どのような「普遍的」宗教観がありうるのか、という問題が完全なアポリアになっているように思えてしょうがない。
仏教はしょせん、教義としては、「エリート」の遊戯であることは変わらないだろう。多くの難解な仏典からの衒学的な営みが、どんなに豊穣な学問結果を生み出すにしても、多くの庶民には、なんの関係もないだろう。
むしろ、大事なのは、
世界の多くの宗教同士が熾烈な「イデオロギー」闘争をやっている中で、日本のこの
ガラパゴス
的な、のほほーん、が、
生き残れるんですかね? ひとたび、日本の外に出たら、途端に、ぺちゃって潰されてしまいませんかね。
どうも、世界の中で、日本って何? という感覚が大きくなっているようにも思えなくもないわけですね。どうも、日本人という表現自体が、よく分からない。これだけ、中国人や韓国人が世界で活躍するようになってきて、じゃあ、日本ってなんだったのだろうか? 日本語も、どうも煩雑なだけで、勉強しにくいし。
しかし、他方において、日本語のインターネットにおける、「氾濫」をどう考えたらいいのだろうか。ツイッターのかなりの割合で、日本語だと言われているし、非常に多くの
どうでもいい
コンテンツが日本語で書かれている。この無意味なまでの落書き。しかし、落書きは落書きで、そこにあること、その「量」がハンパないことが、なにかを意味しているわけで。また、
明らかに、
こういったネットメディア上での「日本語」の氾濫と、日本のアニメやマンガの「氾濫」には、同根の理由があるようにも思える。
一方における、日本の少子化の進行と、まるで、反比例するかのような、ネット社会上の「日本語」のゴミ情報の氾濫。ここには、なにか関係があるのだろうか。それともこの
滅びゆく社会
日本の、風前の灯のような現象と考えるべきなのだろうか...。