なんとも困った中二病

アニメ「Fate/Stay Night」を見て、つくづく思ったのは、この中二病において、ドーテーチェリーボーイたちの、
少女幻想
ではないか。戦闘美少女とは、ドーテーボーイの、おぼこ、な処女幻想を「守る」ことだけを願う。たとえば、セイバーは、この現代の日本に召喚されて、なにか楽しみってあるのだろうか。もののふ、だから、武人として、闘うことにしか興味がない、とか、ほとんど、リアリティがない。
なんにせよ、また、ブロンド、に、青い目に、白い肌に、そんなに白人になりたいんですかね。そう思って見てると、どうも、顔付きだけは、アジア人っぽい、感じもあったりして、まったく、バタくさい感じでもないんですよね(あと、声ですね。話し方は完全に、日本の女の子だ)。まあ、ハリウッドを見て育って、エンターテイメントを目指してるわけで、こんな折衷的な感じのところに落ち着くんですかね。
どうも、女は一歩下がって、三つ指ついて、旦那様お帰りなさいませ、みたいな、なんのリアリティもないような、
処女幻想
が、どーも気持ち悪い。萌えとか、なんなのか。守ってあげたくなるようなって、そんなにお前、たくましいの? キモいんだよ。
だって、そうだろう。中二病のチェリーボーイたちよ。もし、召喚戦争が終結し、平和が訪れたとして、その後も、セイバーが、留まり続けたとして、彼女は、この平和な国でなにをして暮して生きて行くの? それに、主人公はなんか関係あるの? 物語を描くんだったら、そういった世界のイメージをもっと、
リアル
に思考を突き詰めてみろよ。そんな平和が実現してしまった世界で、そんな、バーサーカーがなにして生きればいいんでしょうね。もうちょっとイメージ広げて、ちゃんと

としてリアルに描こうとされてみませんかね。
たとえば、アニメ「けいおん」第二部第二話において、律っちゃんは、ここ一週間くらい、それまでは、毎日握っていた、ドラムのスティックを、あるバンドのビデオを見ることで、自然と叩き始める。本を太鼓代わりにしたその姿は、実に、楽しそうで、彼女がこの一週間前まで、毎日叩いていた、その
快楽
が伝わってくる。こういうものなのだろう。私たちは日々、なんらかの、快楽を生きている。
けいおん」第二部の最終回も終わった番外編の最後で、唯は、先生の家から学校への帰り道の校門前で、エレキギターの音が、耳に飛び込んでくる。その、あずにゃんが練習している音が耳に入ってくるやいなや、彼女は、なんと、
走り出す
わけである。まさに、反射である。私もいい大人になって、ほんとうに、走るなんて、何十年やってないだろう。唯は、脇目もふらず、一気に、部室の前まで、走って行くんですよね。校舎内の廊下だろうと。つまり、なぜ、彼女が走ったか。
走りたかったから。走ることが快楽だったから。(若いって、いいね。)
さて、上記のことを、もう少し違った角度で考えてみよう。明らかに、今放送中の、アニメ「アマガミ」は、上記のような、牧歌的な、ドーテーショジョ幻想から考えると、ずっと前進しているように思える。
このアニメでは、主人公は少しも、断固決然ではない。なんとも、煮えきらない、というか、お前人格あるのか? ってくらい、優柔不断である。
ということはどういうことか。作品は、オムニバス形式で、それぞれの分岐点によって、付き合い始める女性が、それぞれ違っている(しかし、パラレルワールドとしては、行動が重なっているとも言えるが)。つまり、これは完全に、その一人一人の女性側の物語になっている。主人公は、完全に、人格なし男くん、として、状況に応じて、まるで、子犬のように、女の子に、しっぽを振るう。女の子たちは、この子犬のように、どじに、じゃれてくる、男を、暇つぶしに、からかい続けるわけである。
ここには、女の子たちの、暇つぶし愛、がある。男のペットの一人もいないと、女がすたる。このストーリーにおいて、常に、女の子側は、マジじゃない。ゆるい。ゆるいんだけど、テキトーに楽しんでいる。
たとえば、梨穂子編になると、もう、恋愛でもなんでもなくなる。茶道部での、梨穂子と二人の先輩の友情物語になっちゃった。
そして、ラスボス、黒辻さん、である。今までのアニメにもなかったような、型を破ってくれることを期待しつつ、まあ、いいんですね。彼女たちが結果として、楽しそうにしてんなら。(こっちの方が、ずっとましだ。)