渋谷望『魂の労働』

だれでも考えることは、個人に問題があるのであれば、その問題を、
上位機関
が面倒をみればいいのではないか、ということである。下が困っているのであれば、上がそのアラートをキャッチして、手当すればいい。
しかし、これは、逆についても言える。

  • 働き:国家 --> 個人
  • 働き:個人 --> 国家

国家が困っているなら、どうすればいいのだろうか? 個人が「下から」そのアラートをキャッチして、手当てをする。
いずれにしろ、この、相互関係を、もっとディープにしていく方向は、一つの方向性だろう。
例えば、国家財政が回らない。じゃあ、どうするか。個人に使うお金を減らせばいい。どうやって。今まで使っていたのは、それが必要だったから、であろう。その必要性が消えているわけでないのに、どうやれば減らせるというのか。
たとえば、医療費である。なぜ、医療費が発生するのか。患者が病気になるからである。だったら、人を病気に「ならない」ための努力をさせればいい。
国民が病気にならなければ、国の負担が減る。つまり、国家は国民に病気にならないような、摂生をお願いする、という流れになる。
しかし、これを逆から言ってみよう。ある国民が不摂生することによって、国家の医療費負担が増えるなら、その国民は国に迷惑をかける存在、つまり、
非国民
ということになる。そんな反国家的存在に、税金を使わなくていーだろー。ただでさえ、国にはお金がない。だったら、そういった非道徳的存在に、自分の尻は自分で拭かせればいーんじゃない? まさに、
自己責任。
イラクで捕まった、高遠さんたちのように、国が行くなと言ってるのに、危険地帯に行ってんだから、そんな奴知らね。もう非国民と言っていいだろー。国の税金使って助ける必要ねーんじゃね?
もともと、ここにあったのは、国家と国民の間に存在した、ルールだった。国民が病気になったら、国が保険で一定量の負担をする。この関係を、ひとたび、自己責任という言葉を使うことで、こんなにも簡単に、国家の負担を減らせるわけである。
しかし、問題は、それが「約束」に反しているのか、そうでないのか、でなければならないだろう。最初からルールがあったわけで、そして、それまでそのルールに則って判断されてきたわけで、それなのに、急に事情が変わったから、明日から、あんたに払う福祉はねえ、というわけにはいかないだろう。
いずれにしろ、こういう方向に進むのかもしれない。国家の国民へのサービスは、その国民の国家への奉仕の量によって決定される。
たとえば、産まれる前から、遺伝子によって、その子が、障害をもって産まれることが、分かったとしよう。そうした場合に、その子が産まれたら、多くの障害により、多くの医療費がかかることが、最初から分かる。だったら、国家は、そういった
お荷物
を日本国民にしたくない。税金ばっかりかかることが想定されるのだから。だったら、どうするか。もちろん、その子が、この日本に産まれることを止めることは、だれにもできない。もし、それを両親以外の人が決めるなら、それは、殺人と呼ばれる。ところが、両親、特に、母親であれば、堕胎ということで、権利として存在する。だったら、こうするわけである。
あんたが、もし、その子を産むんだったら、「自己責任」で育てろ。それは、あんたの、「ぜいたく」なんだから。
あらゆることが、このようになっていく。医療を受けるとき、自分がその病気にかかる危険をどれだけ、回避してきたか。そういった、リスク回避度によって、その人に払われる、国家の負担割合が天秤される。
最も、福祉の恩恵を受けられない人こそ、国家に批判的な人たち、例えば、左翼の人たちということになるのであろう。
これと正反対が右翼となる。彼らは、存在が、国「のために」生きているのだから、どんなにだらしないところがあろうと、「造反有理」。性根が素晴しいのだから、彼らには、むしろ、国家が、
なにもなくても
進んでお金や勲章を進呈するに値するわけ。
国の福祉が、より、
懲罰 = ご褒美
に近くなっていく。そこにおいて、国家は、さらに、個人の情報コレクターとなっていく。なぜなら、そうやって各個人の生活ログを収集することによって、
福祉値
の計算が確定するからである。お前が、いつ、オナニーをして、いつ、酒を飲んで、いつ、...。そこから、こいつが、いくら、福祉を受けるに値する人間かが算出される。
福祉値 = 権利 − 懲罰
ここから、あなたが生きるに値する存在なのかも分かる。国家に迷惑をかけるしかできない、税金食いは、さっさと死んでください。あなたが死ぬことで、この国は幸せになります。
ここに、民主主義のウエイトが加わる。クラスの中で、こいつは、うざい。クラスの輪が乱れる。じゃあ、クラスの他の皆が、全員一致で、そいつをクラスから追い出そうと一致したら? これが民主主義だろ? 賛成多数。こいつがいると、学校生活を楽しく過せない。クラスの雰囲気が悪くて、おれの受験勉強がはかどんなかったら、責任とれんのかよ。
みんな自分がかわいい。だったら、まず、えらい先生なら、フェアに判断してくれる、とか、そういう
甘え
をやめることでしょう。そうすれば、裏切られた、といった余計な挫折を味わうこともないでしょう。えらい先生は、たんに、優れた研究をしたり、優秀だったから、そういう立場であることしか意味しないわけで、彼らが人格的に鬼畜だろうと、なんだろうと、私たちには関係のないこと、だということです。
ところが、一般には、そのようには考えられません。それが、聖職者問題なのでしょう。医者や学校の先生は、職業としての、専門技術の他に、聖職者としての、人格が求められる。金八先生のように、医者は患者を救うべきだし、先生は生徒の世話をすべきだ。
同様のことは、近年注目される、介護ビジネスにも言える。介護ビジネスは基本的に安い。ワーカーは少ないお金しかもらえない。だったら、サービスが限定されることは、しょうがないんじゃないか、と思うのだが、世間はそう考えない。困ってるんだから、もっとやれよ。お金の問題じゃねーだろ。人としてどーよ。

家族介護の場合には「家族への無償の愛」として理解されてきた精神的介護の側面は、有償介護労働の場合、しばしば「ボランティア精神」や「福祉の心」へと翻訳され、それにより介護労働と労働としての側面が、誰にでも可能な非専門的労働----家事労働の延長----として不可視化されている。つまり介護労働を構成する精神的ケアの側面こそが、有償の介護労働を他の賃労働から区別し、しばしばそれは「やる気」を引き起こすインセンティヴとして低賃金を正当化する機能を果たすのである。しかもそれはしばしば恫喝的でさえある。

お前は聖職者なんだから、安月給でも我慢しろ。こういったところから、著者は、ボランティアや福祉という考え自体を疑問視します。たしかに、そういったアイデアは、各個人の心に生まれたときは、立派な可能性を感じさせるものをもっているが、一度そのアイデアが行動に移されたとき、その親切は、雇用者側につけこまれる。まったく別の、
義務
という形に。一時期、ポストモダンという表現が言われました。しかし、これって、つまりは、ヘーゲル主義ですから、「終焉主義」なんですよね。なとかの時代は終わった、というのがヘーゲル主義ですから。
終わった、ということはどういうことか。つまり、
宿命
ということですね。私たちは逃がれられない運命に生きているのであって、
あきらめろ。
こういうたんに保守的な主張になってしまう。

現在、「自己責任」----「リスクを受け入れよ」----のスローガンとともに若者に向けられるメッセージは、明らかに矛盾したダブルバインドのメッセージである。それは一方で「自分の将来や老後を自分で備えよ」(=「国や企業に頼るな」)である。しかし同時に発せられるのは「あらゆる長期計画(=長期的安定性)を放棄せよ」である。長期的な見通しが不可能となるなかで、自分で長期的な見通しを立てよ。労働市場が流動化し、非正規不安定雇用層が増大するなかで、社会保障の自己責任化を貫徹せよ(たとえば、401k)。ネオリベラル言説がこの不可能なメッセージで若者に期待するのは、不断に自己を励まし、不確実な未来を臨機応変に積極的に切り開く人間であろう。しかしバウマンも指摘するように、「流砂のなかではいかなる永続的なものを築くことはできない」。若者たちはこの分裂したメッセージに対処するために、宿命論を招き入れざるをえない。もはや自己の将来を想像することは禁じられているからである。ネオリベラリズムプログラマーが想定するユートピアとは裏腹に、自己責任言説がハイ・テンションな自己啓発に結びつくことはきわめてまれである。われわれの経験では、自己責任言説は、より低いテンションの宿命論により親和的である。

若者は今の不況の中で、自分たちの人生が、苦しくなることは、運命なんだから、受け入れろ、と、年長世代に、「思想」という体裁によって、脅される。
結局のところ、上記にある、フーコー的生権力の拡大とは、日本が、どうなっていくこと、と考えればいいのか。

言うまでもなく「護送船団方式」の中心には大蔵省の水も漏らさぬ統制があった。2001年に行われた中央省庁再編の目玉の一つはこの大蔵省の解体であった。大蔵省は財務省金融庁に分割され、その統制権は相対的に小さくなり、金融分野における競争が促された。しかしながら、このように経済の分野における規制緩和=自由化の進行の裏側で「旧内務省の復活」といわれる新たな統治パターンが出現しつつあることに気づかざるをえない。この省庁再編では総務庁が省へと格上げされ、これに自治省と郵政省が包含されることになった。警察こそ含まれていないが、この総務省のカバーする行政領域は戦前の内務省の領域とほぼ重なる。

戦前の内務省の復活とともに、官憲や、隣組的な相互に監視し、相互に国家に「ちくり」合う、いや、もっとこういったものが洗練された形で、復活していくのだろう。ジョージ・オーエル「1984」のビッグブラザーでしたっけ。どう考えても、未来って、こういった、管理社会のイメージしか浮んでこないんですよね。そこで、どうやって、

を守っていったらいいのだろうか。アナーキズム的な可能性は、どうやったら、リバイアサンに譲渡することなく、万人の側が守り続けられるのだろうか。こういった、保守主義的な管理国家イメージに対する、ブレークスルーとなりうるものとして、どのようなイメージがありうるのだろうか。
ただし、ここでは、もっと、「べた」に考えてみたい。例えば、医者、であるが、彼らは、
まともに機能しているのだろうか。

私も一昨年(二〇〇四年)血圧に不安をもって近くの医院に行った。血圧計の数値によって直ちに高血圧症であることをいわれ、降圧剤を服用することをいわれた。それ以後、十日置きに医院に行ってはただ降圧剤の処方を書いてもらうだけのことが半年以上続いた。医師は血圧を測り、降圧剤の処方を書くこと以外、治療とよぶべきことは一切しなかったし、生活上の注意をいうこともなかった。ある時、私が食事を変えた方がよいかと尋ねると、その医師は「食事を変えて血圧を下げることは大変ですからね」といって取り合わなかった。恐らく医師にとって老人の高血圧など治療すべきことではなく、降圧剤の処方あえしていれば済むものであるのかもしれない。医師のエコノミーからすれば、老人の高血圧などもっとも効率のよい病症なのだろう。だが私は降圧剤をただ毎日飲み続ける事態に不安になった。見通しのない、薬漬けの毎日が最後まで続くだけではないのかと。
私は周囲のすすめもあってある整体師を訪ねることにした。彼は私を視、私の話を聞くとすぐに食事を全面的に変えることと、運動をすることをすすめた。そして食事を徐々に改善しても意味はないこと、直ちに全面的に変えねばならないことを納得できる言葉でいたのである。それを実行すれば血圧は必ず下がるともいった。私はその非から彼の言葉にしたがって食事を変えたのである。二ヶ月を経過し、体重の減少とともに血圧も下がったのである。
これは私におけるある家庭医的な医師との診療的かかわり合いの体験である。「薮」だといううわさを聞きながら、親の世代からの医院だからかかったまでだが、それにしても身近の医療の実情はこうしたものなのである。開院時間の前から名前を記して待つ多くの私のような老人たちによってどこの医院も薬局も成り立っているのである。私は医療のエコノミーにしたがって自分が処置されることを拒否した。その結果が良かったか悪かったか、まだ分からない。しかし自分の体が自分の健康管理にかかわっていることを認識している分だけ、私は自分の将来に前向きでいられるのである。薬漬けを余儀なくされていては何の見通しもない。

子安宣邦「死者に対する真実の回向」

昭和とは何であったか―反哲学的読書論

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社会学者たちの、ポストモダン的宿命論。結構でしょう。でも、そんなこと以前に、今の医療制度って、ほんとうにうまくいっているのか。
町医者って、何十年も前に、大学で資格を取ってって、それからもう何十年もたって、最新の医療も代わってんじゃねーのか? そんな街の医者に、正しい診察なんてできるのかな。
だったらまず、社会学者たちが考えるべきは、今の医療制度の瑕疵についてじゃないのかな。医者だって、この資本主義の中で、金儲けをしている集団にすぎない。
儲からなければ、患者を看ないし、裁判のリスクを考えて、妊婦は、病院をたらい回し。だれも医者は産婦人科なんていう、子供や母親が死んで医者が訴えられるリスクの高い先生になろうとしない。みんな、歯医者の難しい親不知の手術を絶対にやらない、ただ、歯石をブラシで一生こするだけの、医者になりたがる。
国家の宿命だ、国民の運命だ、とか大上段にこの世を呪う前に、もっと考えるべき、「経済学」があるという言い方は反動的ですかね...。

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

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