スーザン・ソンタグ「未来に向けて」

大江健三郎との2回の往復書簡。
ここのところ、コソボ内戦関係の本を読んでいた。もちろん、北朝鮮による、韓国への「先制攻撃」に関して考察する延長において、である。今回の、北朝鮮の行動については、すでに多くのことが語られている。
北朝鮮の報道機関自身が、すでに、韓国の民間人に死者が出たとするなら遺憾である、というようなことを言っていたように、今のところ、一気に、殲滅戦になるような雰囲気はない。今年始めにあった、潜水艦沈没から、今回の北朝鮮の、トップの交代の地均しによる、政権基盤のゆらぎ、そしてたび重なる、米韓合同演習の中止を求める、北朝鮮側の通告などから考えて、むしろ韓国がこの事態をほとんど警戒していなかったことの脇の甘さを感じなくもなくもない(むしろ、そのことによる韓国自身の応報感情のエスカレーションの方が危うくさえ感じられる)。
国家のトップが代わろうとするとき、最もその正当性が疑がわれ政権基盤が脆弱になることは、日本の天皇制の歴史を見れば分かる。日本の歴史において、天皇が政治のトップにあった時代は、いつもその正当性をめぐる、テロが絶えなかった。各政治勢力が錦の御旗として、それぞれの兄弟を囲い込み、その正当性を掲げ、血みどろの、忍者による闇討ち合戦、を繰り返す。天皇の歴史とは、こういった兄弟による、殺し合いの歴史だとさえ言えなくもない(だからこそ、その存在は、象徴へと向かったと考えるべきであり、平和憲法天皇家の願いなのである)。
今回戦場となった島は、丁度、韓国と北朝鮮が自国の海の領土と主張しているラインの重なっている場所であり、日本にとっての尖閣諸島と同じような関係になる。ところが、地図を見れば分かるように、非常に北朝鮮に近い。それなのに、多くの韓国の一般市民が住んでいたわけで、非常に危険な島だったと言えなくもない。
今回の北朝鮮の動きを見るにも、北朝鮮の中国への接近(もっと言えば、吸収)を感じなくもない。北朝鮮は、民族や言語としては、当然、韓国に近いわけだが、戦後の歴史を考えると、北朝鮮と中国は一緒に、朝鮮戦争を戦っているわけで、時間の止まっている、北朝鮮にとっては、最後の同盟国ということになる。近年の、日本の尖閣諸島への中国の強行姿勢の延長に、今回の北朝鮮の行動があるとも言えなくはないだろう。
こういった事態に対して、政府民主党の国会議員は、浮足立っている。この、「モザイク」政党の民主党は、極右から極左まで、あらゆる、国民を代表するポピュリストが集まっている。まさに、烏合の衆。彼らがなぜ、一緒にいるか。それこそ、選挙に勝ち、政権交代をするためだけ「だった」わけで、今その存在理由が問われている。いずれ、その中から、日本の軍備増強と消費税増税をセットにしてヒステリックにわめき始める勢力が現れるのだろう。
たまたま、以下の雑誌、

表現者 2010年 11月号 [雑誌]

表現者 2010年 11月号 [雑誌]

では、徴兵制の特集をやっているということで読んでみた。しかし、私の読んだ印象は、予想とはずいぶん違っていた。田母神さんの第一声は以下である。

田母神 私は国民教育という面では徴兵制には意味があると思います。ただ兵隊として使えるかと言うと、徴兵制の軍というのは弱いわけです。兵隊を一人前にするには三年も四年もかかる。そうすると、どうせ二年したらやめていくとなったら、教えるほうも教えられるほうも真面目になりませんよね。適当に時間を過ごしていればいいや、となってしまう。そういう意味では、徴兵制の軍はなかなか強くはなりにくいと思う。しかし徴兵に行けば、国を守ることをみんなが考えるようになるから、国民教育としての意味は、特に日本は物凄くあると思いますね。
表現者 2010年 11月号 [雑誌]

これが第一声では、鼎談はまったく盛り上がらない。最初から、現場は徴兵制はいらない、って言っちゃってるのだから。残りの対談は、徴兵制そっちのけで、核武装やりたい、の話に終始してしまった。雑誌全体の印象もそうだった。どうも、本気で徴兵制がいる、今、喫緊に必要というような、情熱がまったく伝わってこない。
よく言われることに、日本の自衛隊は、あまりに手足が縛られていて、実際に戦闘が始まる事態になったとき、かわいそうだ、というものがある。これは、ある意味正しいと言えるだろうが、それはマイナーチェンジの範囲で、もっと、ナイーヴに細則はあるべきだ、ということであり、他国並みでなければならない、と言うことではない。それじゃあ、殺されるじゃないか、と言われるかもしれないが、逆である。自衛隊は、石破さんという政治家が言っていたように、もともと、警察組織の延長で作られた組織であって、本当の意味での軍隊ではない(もしこれが軍隊なら、憲法違反と言っていいわけで、むしろ、自己抑圧的に警察的な組織なのだ)。彼らは、たしかに手足を縛られている。ということは、ある程度の武力による国家を守れない事態は、我々人民の方が忍従しなければならない、というふうに考えなけれなばらない。彼らが自殺行為のような、国家護持のカミカゼ行為をやらなくていい、と法が許している、逃げていいと言っているわけである。もちろんそうは言っても、法の縛りによる「リスク」は大きいことは確かなわけで、それはむしろ、払われる給料の額によって補填されるべき、とも言える。
そもそも、保守主義は、徴兵制に反対だったのではないか、とするのが以下の記事である。

バークの考えでは、人間は神のもとに平等でありながら、現実社会にはいかんともしがたい不平等が存在する。人がすべて均質に生まれ育つことは、永遠にありえない。むしろそのような社会は、個人の個性を抑圧し、凡庸で活力のない存在へと堕落する。人間には個別的なトポスが存在し、そのトポスに生きることこそが世界の維持に寄与している。そのため、貴族が伝統的な騎士道をしっかりと伝承し、その精神を体現することこそが有機体としての世界を支え、「高等な平等」を作り出す一助となる。バークは、このような神を前提とするトポス的な「平等」(役割原理に基づく平等)のあり方を「道徳的平等」(moral equality)として擁護した。

現代日本社会において、「士族」という階級を復活させることは不可能である。しかし、自衛隊員となって自ら「国防の任を負う」ことを意思的に選択する人間のトポスを擁護することは重要なのではないか。

中島岳志「保守派の私が徴兵制に反対する理由」
表現者 2010年 11月号 [雑誌]

マイケル・サンデルも、ルソー的な意味で徴兵制を肯定的に評価しているようですが、ようするに、徴兵制は左翼的なわけである(国民全員を兵隊にするなら、その国民の軍役にいる間の飯代は軍が出さざるをえないだろう。平時にこんなことをやっている国って、つまりは社会主義国でしょ)。
(「高等な平等」という表現がおもしろいですね。問題は、そういったものが存在するとして、それをどう定義するかなのでしょう。)
現在、徴兵制をやってる国がどこかと考えると、韓国、北朝鮮、台湾、中国、とお互い対立している国と、ドイツですか。アメリカも今は義務になっていない。ただ、中国は制度としてありながら、志願兵で充足できているという理由で機能はしていないそうだし、ドイツは、良心的兵役拒否を制度化している(つまり、兵隊に行くかわりに、ボランティアをやる、というような)という意味で、本来の徴兵制とは少し違っている。
こんなことを考えていて、何回か前のブログで、日本人のアイデンティティの問題を書いたのを思い出した。日本人が海外に移住していく。現地で、日本語を使わない、現地の言葉で生きるようになる。そうしたとき、どうやって、自分を
日本人
とアイデンティファイし続けられるのだろうか。その時の私の結論は悲観的であった。しかし、よく考えてみれば、答えは自明だったように思う。例えば、その時考えたのは、宗教の法的性格について、だった。キリスト教には聖書があり、イスラム教にはコーランがあり、それぞれ、細かな、法的戒律が存在する。
ということは、どういうことか。
つまり、日本には、憲法という「宗教」がある、というふうに言っていいことを意味していないだろうか。
憲法という聖書(コーラン
つまり、日本人が、海の向こうに行っても日本人であるためには、なんのことはない、憲法という宗教を生きればいい、ということである。
なんだ簡単じゃん、と思うかもしれない。しかし、私が言っているのは、日本人のアイデンティティ・クライシスに対抗するための憲法原理主義的生について、であるわけで、生半可なことを言っているわけではない。私たちは、憲法を一言一句ないがしろにすることなく、これを
神の言葉
として「信じて」、信仰しぬいて、生きる、そういった、
宗教原理主義
として生きろ、と言っているわけである。そうすることによって、
お前は日本人でいられる
ということであって、少しも、ぬるくないわけである。
では、憲法には何が書いてあるのか? まずもって、ぎょっとさせられるもの、であり、ある意味「全て」と言ってもいいものこそ、前文である。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
We, the japanese people, acting through our duly elected representatives in the national diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land, and resolved that never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government, do proclaim that sovereign power resides with the people and do firmly establish this constitution. government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, The powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people. this is a universal principle of mankind upon which this constitution is founded. we reject and revoke all constitutions, laws, ordinances, and rescripts in conflict herewith.
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
We, the japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world. we desire to occupy an honored place in an international society striving for the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance for all time from the earth. we recognize that all peoples of the world have the right to live in peace, free from fear and want.
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
We believe that no nation is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
We, the japanese people, pledge our national honor to accomplish these high ideals and purposes with all our resources.

各国の国民同士の協和(peaceful cooperation)と、この地での自由(liberty)を、確保することを宣言した後、先の、第二次大戦の悲惨な死者の山を前に、政府による戦争の惨禍、を否定する(つまり、非戦の誓い)。その後は、リンカーンによる、人民主権(人民の、人民による、人民のための)、の再確認である。
その後の議論は、自国と他国の関係に移る。戦争の惨禍を否定する、この憲法において、どのように、自国民の「security and existence」を守るのか。
まず、「laws of political morality」というものが、ユニバーサルに存在する、と宣言する。そして、この憲法は、この認識をベースにして、構成されている、つまり、この法則というレベルにおいては、日本の国民だけでなく、世界中の国々の国民にとっても、拘束されるモラルがあるのだ、という認識の共有を日本人に求めているわけである。
それが、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」である。
そんなわけねーだろー。実際、戦争ばっかしてんじゃん、と思うかもしれない。人間は性悪的なのであって、こんなこと信じたら負けだ。こういう考えもあるだろうが、重要なことは、この憲法はそういう立場を取っていない、ということである。(後で言うように、私たち日本人は、この「原理主義的御託宣」を信じ「なければならない」。)
世界には、この普遍的な法則が存在し、人々は、それに促され、努力していかなければならない。では、この法則に従わない人たちが存在するとするなら、日本人は、どうすればいいのか。無視していいのか。どうせ、自分に関係ないなら、そんな、どっかの海の向うの出来事なんて、知らないって顔をしてればいいんだろうか。
そういうわけにはいかないのである。
いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」
無視しちゃなんねえ、シカトNGなのだ。他国のことだろうと、私たちは世界に啓蒙に行かなければならない。
「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」
日本人は、なにをするための、国民なのか。たんに、一国幸せ主義では、十分じゃない、世界中の紛争を解決し、他国と共に平和にならなければならない、と書いてあるわけである。
そして、そのために生きろ、と。
これは、もちろん、占領軍としての、アメリカが日本を占領している時期にできたものである。今世紀の二度の大戦を経て、紛争の解決としての戦争への反省が色濃く反映している(多くの人たちが強調するように、9条は戦争放棄を宣言さえしている)。
紛争の解決として、武力によることを疑う。しかし、もっと重要なことは、これを、国際紛争の解決として、日本人自身が積極的にアプローチして「いかなければならない」と後押ししてていることである。
つまり、それが、日本人の使命なのだ、と。
こういった論旨は、日本人が、海外に出ていき、特に、近年のNGOなどの市民団体において、活動していくことへの、「実存的な根拠」を与えられているように思えます。
海外で住むことになった日本人は、自らのアイデンティティに悩むことはない。たんに、この日本国憲法の理念を体現して生ようとすることだけ考えればいい。それだけが、お前が日本人である、という印になる。つまり、海外にいようが、どこにいようが、あんたがやるべきことは、同じなのだ。
たとえば、ある国が侵略戦争を始めようとするとしよう。その国に住む日本人は、
原理主義的に
侵略戦争に自分は反対だ、と言えばいい。なぜなら、私は日本人だから。私は日本人だから、トラブルの解決として、侵略戦争を基本的に選ばない。それは
憲法が禁じている。
憲法を「信じる」私たち、日本国憲法「宗教」原理主義
は、自らの全てを、この「信仰」に捧げたのだ。憲法は「神の言葉」である。一字一句として、おろそかにするわけにはいかない。
侵略戦争のかわりに、それ以外の紛争解決方法を模索するために、行動する。
よその国の紛争に関わってくんな、と煙たがられたとしたら、しょうがないんだ、と言ってやりましょう。だって、
憲法(聖書=コーラン)がそうしろって言うんだから。
そして、高らかに宣言するのである。おれはここにいる。それが日本人のアイデンィティ。生きる意味...。
もちろん、こういうことを言うと、憲法アメリカ占領軍が勝手に決めたもので、日本人が書いてないじゃないか、と言い始め、独自憲法を作ろう、みたいなことを言い始める人たちがいるが、こういった人たちは、正当性、とは何かを分かっていない。
まず、今の憲法が、戦後一貫して、日本人によって、保持されてきた、その意味を分かっていない。毎日、ニュースを見れば、これは憲法違反だ、反省しろ、いや違うと、毎日のように、日本人自身が、喧喧囂囂の議論を行っている。これだけ、真剣に本気で裁判を行い、法律作りに情熱を傾けてきたその営みを、
全部なんちゃってでした
というわけにはいかない。これは、リアルなのある。つまり、それだけ、正当性があるわけである。マジなのだ。
そういう意味で、今の憲法の無効を宣言して、明治憲法に戻そうという、一部トンデモ保守派の主張は、まさに、
正統と異端
の議論を呼びおこす、異端裁判へと向かうであろう。そう考えるなら、今の憲法の「改正」しかない、ということになる。しかしどうだろう。上記でも検討したように、この憲法は、もはや、
歴史的
な内容となっている。先の大戦における、多くの死者たちのかなわなかった
願い
を託された、不戦の誓いを内にもつ、特殊な憲法となっている。前文からして、そうなのだ。おい。保守派よ。この憲法の一体、どこに手を入れるというのだ?
前文から、まったく違ったものに書き代えなければならないとするなら、それは、
改正
とは呼ばない。革命と呼ぶだろう(お前の考える書き換えがどうして、お前のナルシシズムでないと言えるか。そんなに簡単じゃないのだ)。一般に憲法改正とは、マイナーチェンジを言う。一部の文言が、今の時代に合わなくなったから、部分的に変えるのを、改正と呼ぶわけである。つまり、変えると言いながら、そんなに簡単じゃないわけである(そもそも、そんなに簡単に変えられると言うならそれは、天皇制はいずれ無くなると言っているのと変わらない)。
しかも、上記で私が指摘したような、日本人自身の
アイデンティティ
の問題がある。
(日本人が日本人であるためには、もう、憲法原理主義者になるしかない、そうなることが、日本人が日本人でいられる唯一の方法だ、そう考えることを敷衍するならどういうことが言えるか、という方向で今回のこのブログでは考えている、ことをここで強調しておく。)
私たちは、世界中の、宗教原理主義について、その過激化を危険視してきた。しかし、そういう言い方は一方的な面があるだろう。なぜ、原理主義的に尖鋭化するのか。彼らの
アイデンティティ
がそこに賭けられているからである。彼らが彼らであるために、自らを原理主義化するのであって、それは、アメリカ国民だって、同じである。
だとするなら、日本人に、それが不要であるなどと、どうして言えるだろうか。これだけ、世界で陰が薄くなり始め、若者は留学を嫌い、人口も減少し、日本という国の存亡も怪しくなっている中で、日本人自身がより、
(宗教)原理主義
になっていくことは当然の方向なのではないだろうか。
しかし、私がこのように言ったからといって、非武装平和主義だけが、唯一の今、世界に存在する紛争解決方法だと、私が思っているということではない。たとえば、これをゲーム理論で考えてみよう。日本人の多くが、
憲法原理主義
としての、非武装平和戦略を採択するとしよう。その場合の問題は、鬼畜が好き放題やれる可能性があることである。なぜなら、回りはみんな甘ちゃん、だからだ。裏切り戦略が無敵の快進撃をする可能性は捨てきれない。
なんの正当性もなく残虐に人を殺した独裁者が、和平成立後も生き残り、残虐な所業をやり続けるのではないか。ここには、そういった残虐な行為は、なかなか表に出てきづらい、という面があることも関係して、疑心暗鬼をもたらす。
スーザン・ソンタグが、アメリカやNATOによるコソボ爆撃を容認したのは、この理由だったと言えるだろう。彼女は、旧ユーゴ内の人間関係から「中の人」として、そういった噂話を多く聞いていたのだろう。

アルゼンチンの海軍武官、アドルフォ・フランシスコ・シリンゴ少佐についてお聞きになったことがありますか。七〇年代後半の軍事独裁政権がとらえた政治囚の多くを、きわめて恐ろしい方法で処刑したことを数年前に告白した人物です。政治囚を海軍機で上空に連行し、飛行機から投げ落としたというのです(しかも、これは「軍の命令」の遂行だったと)。アルゼンチンのいわゆる汚れた戦争の最中の彼とその他の人々の所業を考えると身震いがします。
さらに脳裏を離れないのがシリンゴの次の告白です。腕と胴体を縛り上げられ、しかも意識のしっかりしていた犠牲者たち----女も男も、青少年も老人もいたということです----を南大西洋上の暗い空中に押し出そうという瞬間、彼はかつて見たナチスの死の強制収容所の写真をしばしば思い浮かべたと言います。
本人の言葉をそのまま読んでください。告白についての新聞記事からノートに書き写しておいたものです。
「自分がかかえていた精神的な問題は、彼らがかたまって、というか、整列していると、第二次世界大戦の写真そっくりに見えたことです」。
このようにシリンゴは「精神的な問題」をかかえていました。あえて言えば彼にも苦悩の瞬間はあった。それでも彼は飛行機から政治囚を一人、また一人と投げ落としていったのです。

上記の指摘は、興味深く感じられます。彼女が、ミロシェビッチの独裁の打倒を主張したのは、ミロシェビッチが第二のナチスだと、彼女が考えたことと言えるだろう。彼女が、アメリカやNATOコソボ爆撃を支持したとき、彼女の中にあった判断は、まさに、「正義の戦争は存在する」、という実存的な判断に関係していた。戦争は虐殺と天秤にかけられる。後者に比べれば前者の方が「まだまし」という、彼女の判断の前提に、上記のシリンゴの「精神的な異常」という診断があることは、興味深いといえるでしょう。
精神的な異常者には何を言っても無駄...。

九一年、セルビア人たちは、ダルマチア海沿岸の美しい古都ドブロブニクを砲撃しました。そこはかつてユーゴスラヴィアの一部だったのですが、いまは新たな独立国クロアチア領になっています。しかし、当時は何の手も打たれませんでした。ヨーロッパの主要諸国はバルカン地域に広がる惨状に背を向け、事態の悪化とともにまもなく、四五年以来初めての、ヨーロッパの地における死の収容所がいくつか出現しました。そして恐怖は続きました。
そうです。あまりにも多くの残虐行為を承認してきた、バルカンの戦争実行者、独裁者の動きを封じ、できれば倒す試みをするという、あの遅すぎた決定を私は支持しました。NATOが戦争をいかに遂行したか。自分たちの側の軍隊をリスクにさらさないで死傷者や損害を制限し、地上の民間の損害を最大限引き起こす、そのやり方は当時もいまも私は支持していません。また今回のNATOの作戦(「成功」とはほど遠いものでした)が、ヨーロッパ諸国の軍事予算拡大を望む連中を刺激し、その目論見を促進させる確率が大きいことも、嘆かわしいと感じています。
ここで私自身の立場をできる限り明らかにしようと思います。なかには正義の戦争だとみなしうる戦争も、きわめて少数ではあれ、たしかにあります。戦争という手段をとらなければ、武力による侵略をやめさせる道がないという場合に限って。

ドイツの緑の党のリーダーの一人で、現在は同国の外相であるヨシュカ・フィッシャーは、ミロシェヴィッチに対するNATOの軍事行動に、ドイツが限定つきの参加をすることを擁護しました。ヨーロッパ諸国のなかでも、NATOの行動への反対意見はドイツ国内において一番強かったのですが。私は彼のとった立場に感銘を受けました。
良心の声を正直に告白する政治家。その意味でフィッシャーは稀有な存在です。だからこそ、彼の内省を私たちは真摯に受けとめるべきだと思うのです。つまるところ彼はこう語りました。
ナチズムが敗退してこのかた、われわれ「善良なドイツ国民」は二重のスローガンのもとに政治的な思考を組み立ててきた。これ以上戦争は起こさない。これ以上アウシュヴィッツは起こさない。しかしいま、苦痛とともに自覚せざるをえない。戦争それじたいがアウシュヴィッツ、つまりジェノサイドを引き起こすのではないことを。場合によってはアウシュヴィッツを阻止(あるいは抑止、または停止)するには、たった一つしか方策がない----それは戦争だ----ということを。

しかし、一般的に、NATOによるコソボ空爆を今の段階で、礼賛している人というのは、世界でも少ないのではないだろうか。それは、いろいろと、先進国側の「わがまま」言い放題の部分がひどかった(戦争強者は、どさくさにまぎれて、無法な要求をしがち)というのもあるし、他方において、ミロシェビッチが、どこまでひどかったか、どれほどまでひどかったかどうかは判断のあるところで、それを、ナチスと直結させたことのナイーヴさ、は間違いなくあるわけである。実際、ハーバーマスは、空爆支持後に、自己反省さえしている(こういった、ドイツの事情については、

screenshot

が分かりやすかった)。
しかし、スーザン・ソンタグも、ハーバーマスと同様、イラク戦争には反対するわけですね。私たちには、この、まったく同型にしか思えない二つの戦争の一方は賛成、他方は反対となると、その思想家の一貫性を疑いたくならないだろうか。
そう考えると、どうなのだろう。
掲題の、大江健三郎さんとの往復書簡は、はっきり言って、まったくかみ合っていない。スーザン・ソンタグは、すでにガンにかかっていることを告白しつつ、自分の死期が近づいていることを感じながら、できるだけ、リアリスティックに真実を語ろうとしている姿勢に対して、大江さんはどこか、空想的な文学の可能性を、いつものように想像している。
スーザン・ソンタグは、完全にコソボ側に自分を置き、ミロシェヴィッチという独裁者による蛮行の前に、NATOアメリカの空爆は正当化される、という論陣をはった。まさに、マイケル・ウォルツァーの「正当化可能な戦争」という立場で議論したわけである。
私はここで、彼女が正しいとか間違っている、とか、そういうことが言いたいわけではない。戦争とは人を殺す所業であり、それは殺される、という双対性によって、成り立っている。
だれだって死にたくない。身内に死者を出したくない。だったら、それを回避するために、あらゆることをすることは、ある意味、当然なのではないか。
大事なことは、それは、大学教授だろうが、思想家だろうが同じだということです。彼らの語ることが、
フェア
だと思うところから疑うべきです。しかし、逆に言えば、このことを、
前提としたシステム
を考えなければならない、ということです。
掲題の、大江健三郎との往復書簡は、彼女の今回の戦争肯定論による、日本国憲法への「戦線布告」だったと言えるだろう。憲法原理主義者として、9条改正反対を、ライフワークとして主張する、大江健三郎の文学的非戦論に対し、彼女は自らのガンによる死期を前にして、自身の
実存を賭けた
原理主義の闘争を挑んできている。彼女は自らの全てを賭けて、「やらなければならない戦争はある」と訴える。つまり、彼女は
日本人(日本の憲法)は間違っている
と言っているのです。彼女はケンカを売ってるわけです。
さっきから、何度も言っているように、私たち、日本国憲法「宗教」原理主義者である日本人は、この、スーザン・ソンタグの言う、「良心的戦争の存在」を認めるわけにはいかない。と言うか、そういった動機の純粋さを認めないということではなくて、その行為の結果による
戦争の惨禍
を認めるわけにはいかない、ということです(たとえそこに、どれだけの大義があったと「しても」です)。なぜなら何度も繰り返しているように、これを認めてしまったら、日本人が日本人でなくなる、アイデンティティの消失を意味するからです。こんなことを認めるなら、もう、日本人は、この地球上からいなくなったと言っているのと同じ、ということでしょう。だれも日本国憲法を「信じなくなった」と言っているのと同じなわけですから(信者のいなくなった「宗教」が存在しない、ことと同型でしょう)。
では、最後に、あらためて、戦争とは何かを分析することで、上記の原理主義的な視野の狭隘さを相対化してみましょう。
そもそも、戦争はこの国際世界において、どのような位置付けにあるのか。

国際法は、一般社会の法律とはかなり違う。さまざまな分野があるが、戦争のやり方などは、この国際法で決められている。これに従うと、たとえば「人殺しは罪にならない」という、一般社会の常識と正反対のことが起こる。
日常生活でだれかが銃で他人を射殺したら、これは殺人罪だ。ところが国際法では、戦争中に兵士が相手の兵士を撃ち殺しても、罪に問わない。国際法で罪になるのは、兵士ではない民間人(非戦闘員)を殺したり、捕虜を虐待するなどの場合で、これらは「戦争犯罪」ということになる。捕虜になった兵隊を殺しても戦争犯罪だ。これらを「交戦規則」(または戦時国際法)ということもあるが、戦争のすすめ方を定めた法律、規則にかなっていれば、罪にはならない。このように、ある意味で殺人も合法化しているのが国際法だ。
ただし、現在の国連憲章は戦争そのものを禁止している。国連憲章国際法の基本原則(国際法憲法)と考えれば、戦争は国際法で禁止されている、違法行為だということになる。

暴力が罪なのかは、刑事事件においても、正当防衛という考えがあるように、多くの場合、単純には言えない面がある(つまり、罪なのだろうが、その重さには軽重がある)。しかし、問題は国家間における、「法」は、事実として「存在しない」ということであろう。国際法とは、一つの国際的な紳士協定であるからだが、しかし、そうも割りきれない面もある。
たとえば、戦争犯罪人を裁く場合であるが、これは上記にあるように、何を違法とするかに関わるわけで、そもそも難しいわけである。一つ一つの実行内容を見ていかなければならない。しかし、はっきりと言えることがあって、それは、この戦争を指示していた人、つまり、独裁者の問題だ。スーザン・ソンタグがこだわったのも、ミロシェビッチであったわけだが、彼が裁判にかけられていく経緯は、上記の本にくわしく、興味深い。一般に、戦争において、トップを裁くというのは難しい。日本が、第二次大戦において、天皇が裁かれなかったのも、そういった難しさに関連していると言える(ミロシェビッチが裁かれる過程は、間違いなく、イラクフセイン大統領を捕まえ死刑にするとき、参考とされただろう)。ドイツの緑の党が、いくら、ミロシェビッチという独裁者による、大虐殺を大義名分にしたとしても、それによりNATOが国連を無視して空爆をし、それが、その後の、イラク戦争の「正当性」を与え、また、近年のアフリカでの紛争に、国連がまったく機能できていない原因を考えるなら、もっと丁寧な議論が求められていたことだけは、間違いないように思える。コソボ紛争にしても、本当に、国連無視のNATO単独空爆しか、選択肢がなかったのか、空爆という選択は極端ではなかったのか、本当に国連軍やNGOによる、平和的抑圧戦略は選択となれなかったのか。独裁者の問題ともからんで、今後も日本人が考えていかなければならない問題なのでしょう。
他方においての直近の課題、北朝鮮については、どう考えればいいのか。そもそも、なぜ北朝鮮は今だに、あのような政体のままなのか。

大澤 1989年に東ヨーロッパでは、社会主義体制が崩壊し、冷戦が終わったのに、東アジアではなぜ北朝鮮が未だに残っているのか。僕は、東ドイツでは、それ以前に人々がさまざまな非合法的な方法で出国できていたということが重要だと思います。東ドイツ自体は、むろん、一般の国民の出国を厳しく制限していた。しかし、そうした制限を破って、非合法的な出国や亡命ができた。どうしてできたかというと、周辺諸国、とりわけ西ドイツが、そのような出国者、亡命者を積極的に受け入れ、支援したからです。だから、東ドイツからの脱出可能性、移動性があらかじめ確保されていた。そのうえで、1989年11月にベルリンの壁が壊されて、最終的な移動の自由が与えられる。だから、移動できるということは本当に重要ですね。いざとなったら逃げられるという状況があるからこそ、民主化、平等化が実現されたのです。一方、現在の北朝鮮は非常に出国が難しいですよね。三八度線は休戦ラインですから、そこから逃げるわけにもいかないし、北側も、中国が北朝鮮の政府を支援しているため、そこからは滅多に抜けられない。つまり、周辺諸国が、北朝鮮の国民の移動性を高められるような支援をしてくれていない。

大澤真幸「可能なる世界同時革命

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人の移動もそうだが、情報の移動もそうでしょう。変なことを言うようだが、今の中国もそうだが、北朝鮮の国民全員が、ケータイなりで、毎日いつでもどこでもツイッターでつぶやき始めて、それに、韓国や日本の人々がツイートを始めれば、あっという間に、状況は変わっているように思える(拉致被害者の情報だって、どんどん中から出てこないかな)。なんというか、本気で「戦争の惨禍」を避けなければならない、と思うなら、具体的に、こういったアポリアへの解決策をイメージしていかなければならない。たんに、死ねばいいのに、でなく、なんらかのソフトランディングを目指すなら、その工程表を提示すべきだろう。
最後に一言。このブログではずっと、日本のサブカルチャーの性質について検討してきました。これは、上記の認識から、考えることもできるでしょう。
日本人は別に、毎日、平和について考えているわけではない。しかし、じゃあ考えていないか、といえば、そう単純ではない。つまり、憲法的無意識。たとえば、韓国やアメリカのサブカルチャーにおいては、
善と悪
の二元論において、ゆるいか固いか、しかない。しかし、それを責めるのは酷なところがあって、彼らの持つ軍隊が、戦争をしているのに、どうして、自分たちが善じゃない、なんてことが言えようか。だとするなら、
戦うことに「悩む」ことはタブーなのだ。
しかし、日本は違う。日本の、この膨大なサブカルチャーにおいては、むしろ、悩んでばかりだ。多くの作品が、後から後から、現れ、そこに描かれるのは、答えのでない、どう振舞うべきなのかの、「悩み」の深さであり、そこにはまるで、
平和憲法
というラビリンスによって考えることを義務付けられた私たちの宿命の深さが反映されているかのようである。むしろ、悩め、と促されている。悩まなければならない、と憲法に書いてあるわけだから(悩む必要がないということは、文学はもう不要だということだ)。この特殊な憲法をもつ、この国の国民は、むしろ、サブカルチャーを消費することを促されている(アメリカや韓国では、ガンダムコードギアスも書けない)。この難しい難問に、答えはないかもしれない。しかし、この方法による道を選ぶしかないわけだ。
平和憲法から逃げることは、日本人であろうとする限りできない。だとするなら、どういうことになるのか。つまりは、文化(小説、批評、学問、ドラマ、マンガ、アニメ、...)である。文化という別のステージに
闘いのアリーナ(シャンタル・ムフ
は移される。そこにおいて、この問題は何度も何度も、問われ続け、世界に投げられ続けることになる...。
もちろん、これは国家間の戦争だけに限らない。差別や残虐な暴力、子供のイジメや貧困にしても同型であり、実際に、日本のサブカルチャーにおいて、日常の悩みと戦争などの暴力は
等価
にシームレスに描かれる。もちろん、ツイッターを含めた、あらゆる、サブカルチャー(すがさんの言う、ジャンク)が、その舞台としてあるわけで、私たちは常に、こういったことに悩むことを、憲法によって強いられている、というわけだ。
まあ、実際に、日本から世界にテッポウの玉が投げられない分、物騒でないだけましなのかな...。

この時代に想うテロへの眼差し

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