渡邉義浩『儒教と中国』

今回の、都の漫画規制条例が成立したことについて、とにかく、大事なことは、冷静になることなのだろう。
それにしても、ここまで、ネットの世論が心を一つにして反対したことというのは、そうそうなかったのではないだろうか。この団結力というのか、連帯感というのか、あまり近年にない反応だったように思う。今後の東京都の「代表民主制」がどういった方向に向かうのかは分からないが、こういった若い世代の主張が、それなりの発言力を持ってくる萌芽と考えてもいいのではないか。
愛媛新聞の社説というのが、ネットで紹介されていたが、こういった東京都の方針に批判的な考えを正面から論じることは勇気がいる。
テレビや新聞といった、記者クラブに守られた大マスコミが、まったく世論を無視し、世論調査を行わず(民主党の小沢さんを辞めさせるためなら、何度もやるのにね)、一貫してシカトをきめこんだのは、警察や都の役人から、恒常的な情報リークの便宜をはかるためだったのだろう。たしかに勇気のいることだが、それでも、あえて、諫言を止めることのなかった、骨太の中小メディアの勇気ある姿勢には、敬意を感じる(へたれかそうでないか、はっきりしましたね)。こういった、一つ一つの姿勢によって、今後信頼に値する、メディアとその他どーでもいーのの差が、人々の情報リテラシーの向上と共に、白日の下に理解されていくことで、よりいっそうの、メディアの「質」の淘汰が進むようにも、思える。
(こういった政治の問題を考えるに、迂遠に思えるかもしれないが、今回は、中国史における正統性の文脈から、検討しながら、進めてみたい。)
漢の時代に、中国において、国家制度としての儒教が確立するとともに、以降の中国の歴代皇帝は、必ず、儒教を採用するようになる。そして、これは、日本においても朝鮮においても、同様である。天皇家が採用した、政治システムとは、つまりは、後漢以降に確立された、儒教システムそのもの(パクリ)であっただろうし、たとえば、幕末において、さかんに、叫ばれた、
尊皇攘夷
とは、五経の一つ、春秋の解釈の一つ、春秋公羊伝、のことなわけだ。

最初に出現した『春秋公羊伝』は、春秋三伝の総合的な研究を行う野間文史によれば、魯国主体・王者の尊重・諸侯に対して絶対的な王者の地位を主張する。という三点の性格と、大夫の専断は許さないが、経に対する権を容認する・激しい攘夷思想・君臣の義の絶対視・動機主義・譲国の賛美・復讐の積極的な肯定・災異に天意を読み取る、という七点の特徴を持つ。

攘夷思想は尊皇攘夷という熟語として幕末に使われたため、馴染みがあろう。『春秋』の場合には、尊王攘夷となる。王とは、周王のこと、夷とは夷狄、異民族のことであり、王に仇なす異民族(夷)をうちはらう、それが君臣の義を正すことにも繋がる。

動機主義は、現在の法律論でもよく問題とされる。例えば、人を殺そうと思ったが失敗して怪我を負わせた場合と、人を殺す気はなかったもののたまたま過失により殺してしまった場合とでは、どちらが重い罪にあたるか、という問題である。公羊伝は、たとえ怪我を負わせていなくても、人を殺そうという動機を抱いただけで罰するべきだと主張する。動機を重視することにより、孔子の実現したかった理想を示すためである。

日本や朝鮮とは、より「正しい」中国を目指した国家であった。
本土
が夷狄による易姓革命で、蛮族によって支配されるたびに、「日本の方が伝統を守り」より「中国」であることを誇ってきた。より「正統な」
漢民族
こそ、我が日本、だということになるだろうか。そう考えてくると、上記にあるような、春秋公羊伝の、日本にとっての重要さを、あらためて印象づけられる。これこそ、最も、イデオロギー的な中国の故事といえるだろう。上記にあるような、
動機主義
の延長に、今回の都の条例の姿を見ることもできるであろう。子供にあんな鬼畜のマンガを見せていいのか。そんな、
規制推進派
のナイーヴな性暴力に対する、自らの「生活圏」からの排除の意志には、こういった「動機主義」へのナイーヴな共感が、どうしても垣間見えてしまう。(もちろん、世界的な幼児虐待の問題が悲惨であり、深刻な問題であることは、論をまたない。しかし、そういったことと、国家による、表現のコントロールとは、一線を画して議論をしなければ、もう後には引き返せないような、
譲渡
リバイアサンに行うことになるだろう)。
それにしても、なぜ、これほどまでに、ネット上では、議論がエスカレートしたのだろうか。
それは、一言で、はっきり言えるように思う。
これは、なんらかの、表現をしようとしている、すべての人たちの問題だからこそ、特に、ネットの住民の、ほとんどが、問題だと考えた、ということではないだろうか。
今回の条例の内容は、どう見ても、マンガの表現にとどまらない、道徳的内容を強制する文面へと、いつのまにか変えられていた。これをマンガだけのことだと思っている人がいるとするなら、どうかしている。マンガが、ある道徳を強制されるとするなら、
法の公平性
の観点から、あっという間に、マンガ以外の表現に、この道徳の適用が求められるようになるであろう(驚くべきは、近親相姦について言及していることで、保坂さんも言ってたように、これは、日本においては、その他の刑法でも、禁止となっているわけではない。間違いなく、今回の条例が、ある一線を超えるための、一里塚として、利用されたことを物語っている)。
たとえば、ある人が、漫画を書き、それを発表しようとしたとき、当然、この「都規制」を満たすか満たさないかで、
2分割
される。間違いなく、都の職員が、こうやって、

  • いい作品

  • よくない作品

の二つに分ける。つまり、私たちの作品は、
都の職員が「いい」か「わるい」かを決める作品
となったということである。つまり、私たちの作品は、その日から、
都の職員との「共同」で作った作品
になる、ということを意味するであろう。
ただの
都の公務員が、まるで、内申書のように、「いい」「わるい」と、我々の作品を品定め、する。もう、私たちは、一度たりとも、
自分一人で
作品を作ることはできない。いつでも、どんな場合でも、都の公務員の「いい」「わるい」の匙加減によって、自分の筆の進む道を、「決めさせられる」。
私たちのクレジットの入った作品の裏には、必ず、

  • 「都の公務員である私が、プロデュース(アレンジ)しました」。

と、一時期流行した、音楽プロデューサーのように、いちいち、クレジットしなければならなくなる。
有名な作家 featured by どっかの都の職員

  • はい、だめね。
  • はい、いいよ。

つまり、だ。
これから、日本で作られる、すべての作品は、
都の公務員「の」作品
になった、ということだ。私たちが作る、それぞれの作品とは、言ってみれば、
下絵
みたいなものであり、最後は、「巨匠でありお師匠であり先生」である、「ただの」都の職員「様」が、
最後の仕上げの筆入れ
をして下さる。

  • ここの部分で筆使いが駄目駄目だから、ここをやめない限り「悪い」が直ることはないな。
  • ここのところを、こう書きかえたら、「よろし」にしてやるぞ。
  • ごちゃごちゃ言ってないで、ここを「こう」書きかえんだよ。「悪い」に落とされたいのか? 頭悪いの?

私たちは、都の公務員「のために」作品を書く。都の公務員に、捧げる。「都の公務員様、ここに献上します」。「うむ、苦しゅうないぞ。近う寄れ」。都の公務員に栄光あれ!!!
今日。ここに、日本のマンガ文化のポテンシャリティは「滅びた」。輝かしい英雄時代は終わり、全ては、「ただの」官僚が、この国の
創造主
を語り、これ以降、作品という概念自体が消滅する。作品の「価値」という表現は、論理的になくなる。作品の「独立性」を宣言する、アーティスト宣言とは、国家支配者の他に、主権者がこの国に存在することを主張する、不逞の輩と扱われる。つまり、芸術などというものはない。芸術ではなく、国が喜んだかどうかだけ。
私は、ここのところ、韓流ドラマ「王と私」を見ていた。
このドラマは、朝鮮王朝において、大きな役割を演じた、内侍(ネシ)、つまり、宦官、たちを主役にしている。
第三話において、新しく帝位についた若い王は、宦官の「結婚」を認めない王命を下す。しかし、幼くして、ペニスを切り、生殖能力を失った宦官たちにとって、結婚は唯一の生きる目的である。養子として子供をもらい受け、その子が家を継いでくれることによって、彼らは、なんとか、その日その日をがんばって生きようと思えるわけである。
チョ・チギョム内侍(ネシ)府長は、そんな王の命令に、抗うために、王の門の前で、ハンガーストライキを遂行する。雨の日も風の日も、地べたに坐り、拝み、王に、命令の取り下げを、諫言し続ける。内侍(ネシ)たちのほとんどが、このハンガーストライキを行うことで、次第に、王朝内の日常業務は回らなくなる...。
このことは、政治とはどういうものであるのか、について考えさせられる。この若い王にとって、宦官は、病的であり、抹消させるべきものとしか思えていないのだろう。彼は、今までの、既存の王朝の回りを固める権力を、古き因習と考え、それらを滅ぼし、若い世代を登用させる、野望に燃えている。
しかし、政治とは、そんなに簡単ではない。

宦官は、後宮(ハーレム)に仕える去勢された男子で、本来的な地位は低い。ところが、後漢では、政務の執行機関であった尚書台と皇帝との間を結ぶ秘書官的な役割を果たしたため、政治と関わる機会が多くなった。宦官は、皇帝権力の延長として、自らも権力を行使したのである。しかも、宦官は、幼いころ母によって去勢され、宮中にあずけられたものも多かった。皇帝は、勉強や遊びの相手であった宦官に親近感を持ち、宦官も皇帝へ絶対の忠誠を誓っていた。

皇帝など宮廷の最上身分の人々にとって、もっとも身近にいて育った存在こそ、宦官であったわけで、その「心のつながり」は、だれよりも深かった。皇帝たちは、だれもが、宦官を頼りにしたわけである。つまり、一心同体なのだ。お互いがお互いの苦手な部分を補い合うことで、「完全な一つ」となる。そういうわけであるから、皇帝こそ、あらゆる支配の正統性の源泉であった王朝時代において、宦官の権力は、身分が低かろうと、絶大となる。
そんな彼らが自らたちの「危機」に直面したときに、とった行動が、
ハンガーストライキ
だった、ということである。私は、漫画家なりなんなり、今回の都の条令に反対する人たち全員で、都庁前に坐り込んだらどうだろう、と思ったのだが。まあ、実際にはそこまでやらないとしても、なんらかの形で、不同意の意志を示し続けることが大事なのだろう。
歴史(国家権力)を考えるときには、二つの視点が必要である。なにが正しいのか(なにが正統なのか)。これについては、いいだろう。つまり、法家である。もし、これだけでいいのであれば、中国の王権は、秦の始皇帝の頃から、法家でずっとやってきただろう。では、なぜ儒家が、後漢から、メインストリームとなったのか。それが、もう一つの視点、つまり、どんな故事がルールの「例外」の根拠とされうるのか、である。

国史上最初の「儒教国家」たる後漢の国家は、すべてが儒教経典に準拠したものではなかった。すでに述べたように、後漢では、即位の後、光武帝の原陵に上って墓祭をする「上陵の礼」を行っていたが、儒教経典は墓祭を認めていなかった。しかし、「上陵の礼」は後漢末まで続けられており、董卓のブレーンとなった蔡[巛邑]は、それに参加した感想を次のように述べている。

建寧五(一七二)年正月、霊帝が原陵(光武帝陵)で上陵の礼を行った際、蔡[巛邑]は司徒掾(司徒の属官)として、司徒の胡広に付き従った。原陵に到着し、上陵の礼を見ると、嘆息し同坐の者に言った。「古は墓祭をしなかったと聞いている。これに対して漢は上陵の礼を行う。(経義と異なるため)以前は廃止すべきだと思っていた。今その儀礼を目のあたりにして、儀礼をつくった本意を推察すると、孝明皇帝の親を思う御心によっていることが分かった。昔に戻す必要はあるまい」と。......蔡[巛邑]は胡広にお目にかかり、「国家の礼は煩瑣であっても省略できないわけは、これほど先帝が心を配られた結果、作られたものだからであることを知りました」と申しあげた。胡広は、「その通りである。君はこれを記録して、学者に示すべきである」と言った。蔡[巛邑]は退出すると、これを記録いた。(『続漢書』礼儀志注引謝承)

「古は墓祭えず」という儒教の経義とは異なっていても、明帝の光武帝を思う孝心の表れである「上陵の礼」は、漢家の故事として継続すべきである。

儒教において、あらゆることは、経典が決めている、と考えられている。ところが、例外が存在する。いや、存在してしまう、と言ったらいいだろうか。もし、儒教が、たんに法家思想の言いかえにすぎないのであれば、そういった例外は撲滅されていくだろう。しかし、もし、そういった経典適用を行っていくなら、いずれ、フラット=単色な、法原理主義へと進み、実際の現実に法が解離していく(現実社会が、法などという数えるほどのルールで支配できるほど、単純なわけがない)。
ところが、儒教においては、その例外が「例外のまま」生き残るのである。それは、どういったルールによるかというと、上記で言えば、
明帝の光武帝を思う孝心
つまり、儒教のその思想的な文脈において、決定的に重視されている、論語的な価値感、
親孝行の実践
の並々ならぬ、熱情において、形式的な経典のルールを、「はるか上位において」統制する、四書的な、価値観の「故事における」発露において、重要視する、というわけである。
細かな末端のルール(表現脅しの条令)の、さらに上位の価値(憲法的な自由)によって、こういったルールが「実践において」、
どうでもいい
ものとして扱われる。儒教には、こういった、(法家に比べて)かなり高度な政治術が、かなり自然な形で導入されている構造となっていた、ということだろうか(もちろん、こういった政治技術(マキャベリの意味でのテクネー)が、むしろ、現代民主主義においてこそ、重要だということを、私は示唆しようとしているのだが...。)
いずれにろ、大手出版社が、今回の条令に、軒並み、反対を表明したことは、利害関係を考慮しても、健全だっただろう。もし、誰も反論せず、(戦前のように、しょうがないと)忍従するだけだったとするなら、すえ恐しいことだったように思える。

儒教と中国 「二千年の正統思想」の起源 (講談社選書メチエ)

儒教と中国 「二千年の正統思想」の起源 (講談社選書メチエ)