ハル・コック『生活形式の民主主義』

民主主義という言葉は、よく考えると変である。日本は、戦前、結局は、普通選挙が実現されていたわけで、「民主主義」を実践していた。ナチス・ドイツにしても、彼らは、選挙によって、合法的に、政権を奪取した「政党」であって、特にその、政権党となった頃、多くの国民が支持していた(だから、政権党になれたわけだが)。
戦前にも、民主主義はあった。それが、カール・シュミットをもちだすまでもなく、「喝采」による合意形成を意味する、というなら(無記名投票のような、秘密投票は、民主主義というより、自由主義の伝統と言えるのでは、といったのは柄谷さんであったが)。
しかし、いずれにしろ、戦後の焼け野原からの復興の掛け声は、
民主主義
であった。でも、よく考えれば、戦前から戦後に、
最も変わったもの
とは、国家システムの「根本的な」刷新であったわけだし、その内容のほとんどが、民主主義の極限までの徹底を意図したものであったことは、一目瞭然だったわけなのだから、このように言いたくなることは無理からぬことだったわけだ。
しかし、私がここで、うじうじとこだわっていることは、むしろ、「民主主義とは何なのか」つまり、民主主義と人々が言うことで実際には、なにが、どうなることを、考えていたのか、という、そのイメージについてだったわけである。
実際、人々は、民主主義とはなんだと思っていたのか。そして、今。人々は何を民主主義だと思い込んでいるのだろう。
こういった問題に、本質主義的な、アプローチは建設的ではないように思える。この問題の観点とは、つまりは、そういった、戦前から戦後に変わる時点で、決定的な
民主主義論
をひっさげて登場した(と思われた)、論客がいることだ。もちろん、この日本においては、丸山眞男を想定している。
戦争の終了とともに、戦前の国体イデオロギーを代表し、牽引したブレーンたちは、一部は、A級戦犯として裁かれ、その他のほとんどは、自らの、人生を賭けた、思想戦の「敗北」と共に、大学教授を辞することで、自ら野に下ることを選ぶことによって、みそぎとした。
こういった、ほとんど全ての論客の撤退とともに、必然的に表舞台にせりあがる形で登場し、自らの戦中、「内に秘めていた」うっぷん(激情)を発散させた存在こそ、丸山眞男だったわけだ。
だからこそ、戦後、唯一彼だけが、上記の「戦後民主主義」の意味を体現する存在として、クローズアップされることになる。
しかしである。
丸山眞男をそういった存在として、祭り上げることは、御門違いではないだろうか。当然、彼は戦前も東大の教授であったわけで、多くの江戸思想史の論文を書いているし、政治思想家として、マイネッケやクローチェ、特に、ヘーゲルの延長で、戦中と変わらず戦後においても考えていた。
多くの人にとって、丸山眞男の関心が本当のところ、どこにあるのかを、一体どこまで分かっていたのだろうか。たんに自分たちの疑問の答えを彼が「解決」してくれるんじゃないか、というまったく根拠のない期待を託していただけなのではないだろうか。
まあ、いずれにしろ、このデンマーク版が、掲題の本ということになるようである。
言うまでもなく、ヨーロッパと日本では、戦中から、戦後の平和に到達するまでの、
歴史的文脈
が、まったく違う。しかし、その違いは、こうやって、戦後世代として、ぬくぬくと平和を生きていると、あまり実感が湧かない。どうせ、ヨーロッパだって、この日本と同じように平和でぬくぬくなんでしょ、という妙な
分かったつもり感
が先行してしまう。

さて、訳者は1992年にはじめてデンマークを訪れたのであるが、そのおりに、もっとも驚いたことのひとつは、その国の徹底した平等な人間関係であった。それは例外をもたない。だから、啓蒙とか教育といったことがらにかんしていえば、「先生」「教授」といったタテの階層構造を前提とした権威主義的用語がない。プラトンの対話編に出てくるソクラテスとその仲間たちのように、教師も学生も、ファースト・ネームで呼びあう。そのことは、啓蒙の関係が本書にもあるように「無知」の自覚による真理の共同探究であり、ソクラテスは知的な援助者であって、けっして上から教え諭す「先生」ではなかったことによる。こうした民主主義的な生活形式が学校や社会教育の場にほとんど例外なく定着していることはまず押さえておかなければならない。
(訳者解題)

歴史的な文脈が違う国家は、それぞれ、同じ「民主主義」という呼び名で語られていても、全体として見たとき、大きな差異があるように思われる。こういったことを、現代思想では、
構造主義
と呼んできたようである。たとえば、日本の民主党が、
政治主導
を掲げ、ここまでの政権運営を行ってきたが、国民の目から見るなら、どう考えても、うまく回っているように思えない。それまでの自民党時代の政治とは、以下のように整理できるだろう。

  • さまざまな陳情:国民 --> 政治家
  • 法律の作成を依頼:政治家 --> 官僚
  • 法律を作成:官僚 --> 政治家
  • 国会で法を成立(選挙で投票を確約):政治家 --> 国民

このストラクチャーの特徴は、「日本を動かしているのは官僚」だった、ということになるだろう。自民党は、たんなる、中間管理職にすぎない。自民党の政治家がいくら、きれいごとを言っても、結局決めていたのは、官僚であった。官僚たちは、自民党に「こういうのを作ってもらえませんでしょうか」と
陳情を受け
「はいはい、分かりました。やっときます」と適当にあしらっておく。
しかし、基本的に、今、法律を作成できる能力のあるのは、官僚しかいないのだから、自民党が、官僚に法律を作って「もらえる」ためには、なんらかの、それによって官僚にとっての「利益」がなければならない。官僚にとって、こういった利点をあげるので、なんとか作ってもらえないだろうか、という、
バーター
になっていた、ということである。おそらく、すべての法律が、こういった過程を経て、成立していたのではないだろうか。
しかし、そうなると、上記のグラフには、盲点があることが分かる。つまり、これは本質的でない。つまり、まったく、別のルートが「むしろ、こちらが基本として」存在することを示唆される。

  • 法律を作成:官僚 --> 政治家
  • 国会で法を成立:政治家 --> 国民

こういった、国民がまったく介在しない形の法形成ルートがありうる、というだけではなく、むしろ、こういった形の方が、
マジョリティ
なのではないか。ほとんどが、これじゃないのか。
この場合、国民はまず、そういった法を作りたいと、一度としても、思っていない。だから、選挙の公約でもない。急に、現れるのである。つまり、官僚の都合によって。
官僚は、仕事を作りたいのである。仕事を作ることによって、自分たちの勢力の拡大が実現できる。官僚が恐怖するのは、自分たちが
用なし
となることである。やることがなく、人が必要ないとなると、いずれ、その部署はなくなるだろう。それだけ、平和、国がなにもやらなくていいんなら、大変けっこうじゃないか、と思うが、それでは、公務員はいらない、ということになる。なんでも、民間でやられては困るのである。
そこから、国家は、民間との福祉「競争」を行うことになる。
どっちが、高品質の福祉を国民に提供するかで、お互いが、しのぎをけづる。
いずれにしろ、これが、自民党時代の政治システムだったとするなら、民主党の言う「政治主導」を実現したとき、どういったことになるのか、を考えてみよう。
問題は、「政治主導」ということは、あるタスクを行う主体の
移動
が、企画されていることである。今までは、政治家は「あらゆること」を、官僚に丸投げしていた。なにを考えるにも、なにを決めるにも、官僚に投げていた。彼らは、
(国の)サラリーマン
だから、仕事が目の前にある限り、彼らの仕事が「存在」するということであり、彼らが不要になることはない。仕事がある限り、彼らがリストラされることはない。定年まで、働ける。こういった前提において、彼らは、仕事をなぜするのか。それは、それを指示した政治家の「思想」に賛成しているからではない。「仕事が目の前にある」からやるのであって、山があるから登る、みたいなものだ。もし、彼らが、その目の前の仕事をやらなかったとする。すると、その仕事の怠慢は、完全に、その仕事をしなかった、個人の問題になってしまう。個人の評価の低下しか結果しない。よって、サラリーマンは、自覚があればあるほど、目の前の仕事に忙殺される...。
それでは、民主党の言う政治主導、官僚に投げていた仕事を、政治家が行うということは、どういう事態をもたらすのであろうか。まず最初に訪れることは、リソースの問題である。あらゆることは、
仕事 - 人(能力) - お金
の関係によって成立する。政治家がもし、今まで、官僚が行っていた仕事の一部を「肩代わり」すると考えてみようではないか。すると、まず、そのもらってきた仕事をだれができるのか、に直面する。官僚の仕事とは、法律を作る仕事である。しかし、法律を作るといっても、その「文面」の意味が確定するのは、あくまで、他の法との均衡関係において、でしかない。その用語の一つ一つが、今までの、法律の文言によって、「定義」されてきた。つまり、法律作成には、少なくとも、以下の三つの「能力(リソース)」を必要する。

  • 民意など、「どういった法が作りたいのか」のデザイン。
  • その法が前提としなければならない、自然科学、社会科学的な、現状分析。
  • その法が「上記の意味での」意図を実行あるものにする上での、他の法との整合性。

この最後の部分こそが、今まで、官僚によって囲い込まれ、独占されてきた部分であった。官僚たちが、「これで大丈夫」と保障するから、三番目は問題ないのであろう、と社会は回ってきた。
そう考えるだけで、いかにここが難しいかが分かるだろう。こういった法律を勉強している、大学の教授なら、法律が作れるんだろうか? 笑っちゃうことであるが、法作成の官僚として一人前になるには、何年も下積みがいる、というわけだ。そんな、下積み経験のある人材、日本中にどれだけいるんですかね。ひっかき集めて、やっと、何人か、なんでしょ。どれほどのマンパワーとして数えられるのでしょうかね(今、なによりも求められるのは、法作成学、法作成専門学校、こんなところだろうか)。
では、もし、民主党に、これらのタスクを担える人材の確保が成功したとしよう。次の問題は「お金」である。彼らは、日々の仕事をあきらめてまで、民主党のために仕事をする、というわけだ。法作成のために。だとするなら、彼らに、なんらかの見返りをしなければ、そのモチベーションとならないだろう。ということは、どういうことか。民主党は、お金持ちでなければいけないか、さもなければ、国から、そのためのお金をひっぱってこないとならない。
そもそも、政治家とはなにをする人なのだろうか。
政治家は、この代表民主制において、「代表者(リプレゼンタティヴ)」にすぎない。彼らは、あくまで、被選挙権者に「選ばれた」者である。なぜ、そいつは、選ばれるのか。一般には、マニフェストの「差異」によって、と考えられる。言っていることが、他より、「やってほしい」ことを言っているから、にすぎない。つまり、それは、政治家の能力の問題ではない、ということに注意しなければならない。
では選ばれた政治家は、なにをすればいいのか。彼らに、国民がやってほしいことは、そいつが主張した政策の実現のための、努力だと考えられるだろう。国民は、政治家が
ただの人
であることを知っている。しかし、そいつには、ある「使命」が託されている。愚直なまでに、そのマニフェストを実現すること。国民は、そのマニフェストを支持するとともに、少なくとも、その政策を実現するための能力はあるのだろう、と思うから、その政治家は選ばれたと考えられるだろう(国民に向けて、最低限の説明すらできないなら、どんなに立派に見えたとしても、選ばれることはない)。
つまり、国民にとって、政治過程は、一種のブラックボックスだと言えるだろう。その政治家に託された命題が、
どういった過程を辿って
実現されるのかに、国民は興味がない。もっと言えば、「細部」にも興味がない。それは、企業が顧客に提供するサービスと、まったく同型なのだ。政治家は、自らの、そのマニフェストを形にする作業において、「結果として」国民に「カスタマー満足」感を提供しなければならない。
こうやって考えてきたとき、民主党がもし、「政治主導」という、なにかを実体化させるためには、
根本的かつドラスティックな
システムの改革をイメージしている必要があったように、どうしても思えてしょうがない。自民党時代の、

  • 法律の作成を依頼:政治家 --> 官僚
  • 法律を作成:官僚 --> 政治家

が、
主(官僚) - 従(政治家)
だとするなら、これを、どのような、リレーションに変更する必要があったのか。しかし、もっと言おう。これを「だれが」考えられるのだろう?
上記において検討してきた問題とは、つまりは、

  • 「官僚 - 政治家」間リソースの配分変更

の問題だったと言えるだろう。民主党には、ここの部分のフィロソフィーがないままに、政権奪取をしたために、起きたことは、官僚のサボタージュであり、政治家のリソース不足であったわけだ。明らかに、日々の官僚による陳情攻撃によって、「政治決断」を促され続けた政治家たちは、寝不足となり、忙しすぎて、頭が回っていない。政治家たちの挙動不審な発言が、テレビで拾われ、政治家の「能力不足」ということが、喧伝される形となる。
しかし、そもそも政治家とは「能力者」ではない。彼らに必要なのは愚直なまでの意志であって、彼らの「意志」を実現するのは、別のシステムでなければならない(彼らの能力が試されるべきは、そのシステムの流れをチェックすることぐらいであるべきだ)。問題はそれが存在しないことであって、それを政治家の「資格なし」というような、嘲笑によって、報道することはミスリーディングであろう。
いったん、民主党問題をおくとしても、こうやって、困ってしまうのは、ようするに、私たちは、「民主主義とは何か」を習ったことがない、ということなのだ。そのよってたつ、原理原則が不分明だから、なにがなにやらわからなくなる。困ったときに、どこをどういじっていいのか、検討もつかない。
では、その辺りを、掲題の本に導かれるように、確認していこう。
言うまでもなく、民主主義と言われて、頭に浮ぶのは、直接民主制である。広場に、国民が「全員」集まり、お互いに、それぞれの主張を言い合う。そこで、全員を論破できるなら、こういう決定の手段こそ、民主主義と言うのだろう。

古代ギリシアの民主主義にとって]政治的に目新しいことは、すべての民衆が民会に集められ、そこで、結果として和解につながる自由でオープンな討議によっ、国内の民衆どうしが紛争の流血によらない解決を模索したと確認することでよしとしよう。

重要なことは、この解決が、暴力を介していないことだろう。政敵を、忍者による闇討ちの解決に求めるなら、それは民主主義的手段ではない。
しかし、上記の広場での発言のしあいにしても、相手を論破できればいいが、いつまでも平行線となるだろう。お互い、利害が関係しているのであるから、そう簡単に譲れないのだから。対立が対立として、いつまでも続くということは、政治が前に進まないことを意味する。なにかを決めるために行った議論が、決まらなければ、双方にとって、それなりの不利益だということなのだろう。
一つの考えとするなら、これはこれでいいんじゃないのか、とも言いたくなる。どうせ決まらないことを、あたかも決まったかのようにして、振舞うことの方が不健康だろう。無理なものは無理という方が正直でいいんじゃないか。
もちろん、こういう場合によく行われるのが、多数決である。多くの国民が賛成している限り、その正当性は揺がない。もちろん、この「結果の重要性」を認めないわけではない。
しかし、それは、あくまでその「事実」の重さについて言っているだけで、多くが賛成したことと、行われる「べき」正義には、なんの相関関係もない。

とはいえ、それ以上にひどいのは「投票」のこうした過大評価からほとんど内的必然的に、なによりも民主主義の悪評を広める結果が強制される。すなわち正しいのはつねに多数派だという要求が強制されることである。誰でも少し想像してみばわかることだが、この多数派というのはまさに怪物なのだ。戦前のドイツの多数派がユダヤ人の生存権を否定し、彼らから財産を取りあげようとしたことを疑う余地はない。

ことここにいたって表面化し明らかになったのは、問題が民主主義ではなく多数派の独裁だということである。

この疑惑が極限まで至っているものこそ、代表民主制の欺瞞であろう。政治家という「代表者」は何を代表しているのか。彼らは、たんに、マニフェストを愚直にやってくれることが大事なのであって、それ以外の決定に対しての、
権利
を付託されているわけではない。お前の思いつきで、勝手に、代表民主制で「決断」「選択」されては国民は困るのである。一体、その「代表たち」の中に、自分の意見を代表してくれている人なんているんですかね。
こういった疑いが、ニヒリズムへと向かう。つまり、明らかなことは、代表民主制に正当性はない、ということである。直接民主制でなければならないのである。
では、一般になぜ、代表民主制が採用されているかと考えれば、それこそ、政治の迅速さを考慮して、となるだろう。独裁制の利点は、決断が早いことにある。なんにせよ、ワンマン社長であれば、次々と決断して、電撃戦で、強行突破できる。グローバル資本主義において、大事なことは、他者に先がけて、ハゲタカのように、儲けに群がることだ。スピードが命の世界において、一瞬の遅れが、儲けを横取りされる(そう考えるなら、今回の、東京都の、マンガ規制条例の、
多数派独裁的な決定(クーデター)
の問題を理解されるであろう。直接の被害者が実害を訴えているわけでもない、多くの反対意見が存在し、議論のあった問題を、こんなに短期間に決める正当性はない。ただでさえ、正当性論議に弱い民主主義は、正当性のない法を作っても、結局、実行できない、使えないという結果となりがちとなる。法の適用の場面で、本当にいいのかに迷いが生じ、見送られる結果となりがちなわけである...。)
では。だとするなら、どういったことを結論するのであろう。
民主主義は、直接民主制でなければならないし、反対勢力を、多数決で、無視することは許されない。つまり、この条件を満たすシステムの構築が要求されている。
民主主義とは、国民主権である限り、必ず選択されなければならない政治システムであると言えるだろう。つまり、国民主権を実現するためのシステムであると。
しかし、国民主権を実際にその「字義通り」に実行するとは、なにを意味しているのか。少なくとも、ある、
インフラ
を実現することが求められているように思える。まず、あらゆる政治行動や政治決断過程が、国民に白日の下に、さらされていない限り、国民はその妥当性=正当性を判断できないのだから、いいわるいの判断ができないであろう。つまり、政治行動上のあらゆる決断過程の、公開が必須の条件になるだろう。

結局のところこの上なく堕落した民主主義でさえ批判の公開と出版の自由を保護するからである。言論や批判が自由であるかぎり、まったく堕落した政治運営の可能性があるとしてもつねに限界がある。だがしかし、表現の自由が抑圧されるなら、この限界は取りのぞかれてしまうのである。

むしろ、このあたりに、民主主義の本質がありそうだ。
あらゆることは、だれかが決める。その責任者が決めたから、結果となる。だとするなら、そのプロセスを公開することによって、国民は、
後戻りのできない決断
を、密室でさせない、という防衛網を張ることができる。大事なことは、この責任者である。彼「が」決断した、という情報が「全て」なのである。何度も言っているように、国民主権ということは、主権が分散しているということなのであるから、常に、あらゆる決定は、その決定者が
責任
を負うことによって始めて回る。あらゆる決定者は、日本中からの、「非難の嵐」を受けることさえ覚悟して、決めなければならない。その責任から逃げることは、まさに「多数派独裁」を意味し、民主主義の死と変わらない。
また、ことのことは逆からも言える。代表民主制によって生まれる法は、
それだけ
で存在することはありえない。もしそうだとするなら、それでは「直接民主制」にならない。私たちの定義では、それを民主主義とは呼ばなかった。
つまり、この法律に対して、ツイッターでつぶやかれた、「あらゆる」つぶやきが、この法の
付帯条件
となることを必須の条件とする。この法の運用において、それら一切を無視することは許されない。国会を含めた会議の議論は、公開は当然として、その
議事録
には、そのユーストリームで公開された会議「に参加した」人々の、ツイッターでの「あらゆる」つぶやきを同列に「採録」しなければならない。
もちろん、こういうことを言ってみても、あい変わらず、「主文」だけが真実だといって、世間の意見を嘲笑し続けるエリートはいるだろうが、私たち国民がそういった、
少数意見
に同意する必要はない。なにが「主文」であるかは、集合知が決定する。

生活形式の民主主義―デンマーク社会の哲学

生活形式の民主主義―デンマーク社会の哲学