ジョナサン・ジットレイン『インターネットが死ぬ日』

ここのところ話題の本ですね(ちょっと、今回は、いつも以上に雑な文章になってしまいました。読みづらく、すみません)。
私にはどうも、コンピュータを「バーチャル・リアリティ」として考える「作法」に、違和感を感じる気持ちが、どっかに残っている。それは、職業柄と言ってもいいが、ようするに、コンピュータに、バーチャルじゃない現実を「マッピング」するところまでは、知的におもしろく思える。しかし、そこから、その状態を、
なんとしてでも維持していこうという意志
に、なんとも言えない、徒労感、倦怠感を感じる。
なぜそう思うのかは、レイアーという概念を理解すれば、なんとなく理解されるのではないか。例えば、パソコンを開いて、電源を入れてから、私たちが、まず理解しなければならない概念が、
ファイル
であろう。これは、あるデータのまとまりを指示しているわけだが、さて。それは、どこにあるんでしょうかね? っていうか、あるんでしょうかね? つまり、これは、
比喩
なのだ。ファイルなど存在しない。あるのは、電気が励起して、ビットが立っているかいないかの、「列」でしかない。そこになんの区別もない。
Windows OS が登場して、まずぎょっとしたのは、このファイルの「拡張子」ってやつでした。しかし、これ自体になんの意味もないことを、そもそも知っている人は今でも少ないんじゃないか。つまり、そういう意味では、よくできていた。「拡張子」という考えは、非常に上のレイアーになって始めて意味をおびてくるものでしかない。よく、テキストファイルとバイナリファイルなどと言うが、その違いの
定義
はない。つまり、論理的に存在しない。たまたま、ある文字コードで「書かれているのだろう」と想定してみたら、テキストにできたかできないか、それしかない。
この辺りから、だんだん、自分が何を相手にしているのかが、あいまいになってくる。
ハードディスク上のある磁気ヘッドのある部分に、存在するビットの並びが、
ファイル
に対応している、ということは、なにが決定しているのだろう。当然、そのハードウェア全体と、OSとそのファイルに操作しているとされているアプリケーションが決定しているわけである。つまり、ファイル、なるものは、それだけでは存在しない。もっと言えば、
存在する必要がない。
なぜなら、
ハード全体+OS+アプリ、が、「それと同じ」機能を生み出すなら(つまり、GUI上において、差異がないなら)、存在することと同じ、ということだから。つまり、動的に、ぐちゃぐちゃの、むにゃむにゃ、になっていたとしても、同じ機能さえ実現しているなら、
変わらない
と同値だからだ(もちろん、ファイルのビットの並びやバイト数から、「同じ」かどうかは分明に分かったとしても、普通の感覚では、同じかどうかとは、アプリで「開い」て、GUI上の見た目の問題であるわけだろう)。しかし、そう考えないという立場もある。なにがなんでも、ある、
実体
として存在させなければならない、という立場である。それが「ある」と言えなければならない。あってもらわなければ困るのだ。
今。コンピュータは、ビジネスにおいて欠かせない、権利・義務アイテムとなってきている。あらゆる「モノ」は商品となり、それは「存在」しなければらない。明確に「それ」でなければならない。
所有権。
しかし、上記にもあるように、どうも、コンピュータにとっては、そういった「リジッドネス」って苦手に思えるわけですね。それが一番、典型的に表れるのが、インターネットだっただろう。
掲題の著者も書いているように、インターネットの特徴は、シンプル戦略を採用したことであろう。

シンプルさを最大の価値としたわけだが、これはハイリスク・ハイリターンの賭けであった。シンプルさを優先すると、予想される問題を解決ぢるはずの仕組みを用意せずにしまいがちである。

どう考えても、インターネットが拡大していったときに、このシステムに敵対的な勢力が現れ、このシステムの破壊を目的に、行動されたとき、その攻撃を防ぐための、考慮がまったく行われていない形態となっていた。
つまり、性善説戦略である。基本的にそんなことを、人間なら、やらないよ、と考えて、一切の防御策を構築する努力を怠ってきた。それを責めることは、たやすいが、もし責めるとするなら、どういった理由で責められるのだろうか?
ビジネスでの商品として、使っていた、このインターネットシステムが、ある日、悪意ある集団によって、攻撃されたことで、復旧不可能なまでに破壊された、としよう。もちろん、そういうことになれば、ネットを使ってビジネスをやっている人は、破壊者に、損害賠償を請求するだろう。現状回復しろ。失われた時間の間に、稼げた利益分を保障しろ。
おそらく、こういった事態になるなら、国家裁判所は、訴えを認めるだろう。ハッカーは、残りの人生の全てをかけて、このビジネスマンに、償いをしなければならない、と裁判所にお説教をされる。
しかし、である。
問題は、最初から、このインターネットシステムが、善意を前提にできているということであって、そういった「おもちゃ」システムを、自らの商売の道具に「勝手に」使い始めた人間たちの「自己責任性」はないのだろうか。
最初から、問題行動による、被害が起きる可能性が確率的に十分に想定されていながら、
裁判所
という国家権力をかさにきて、自らの権利損害の賠償だけを主張する姿は、あまりに、ナイーヴじゃないだろうか。そもそも、お前にコンピュータを使う資格はあったのだろうか。コンピュータを使えるだけの、知識もろくに持たずに、こんな「危ない」ものを、嬉々として触っていたことの、注意不足を指摘されることはないのだろうか。
今。
コンピュータは、初期のインフラ設計の、あまりの自由度の高さの、つけを払わされている。あまりにルーズなインフラは、いざセキュリィを確立しようとしたとき、その絶望的な事実に直面することになる。
多くの、ウィルスが、ネット中にはびこり、あらゆるマシンを攻撃し、ビジネス上の甚大な被害が今後も予想されている。
こういった事態が、より進んだときに、どういった動きとなっていくだろう。
それが、掲題のタイトルにある「インターネットの死」であろう。
その一つの兆候が、アイフォンだと、著者は指摘する。

iPhoneの性格は真逆である。独創性を刺激することがなく、いわばやせた不毛な技術である。イノベーションを促進するプラットフォームではなく、すべがきっちりと決められている。自分でプログラムを追加するこてぁできない。機能はすべて決められ、ロックされている(アップル社はリモート・アップデートで機能を変更できる)。コードを書き換え、別のアプリケーションを使えるようにした人もいるが、アップルはそのようなiPhoneを使えなくすると宣言し、実行した(アクティベーション不能でiBrickと呼ばれる状態とした)。iPhoneはアップル(と独占キャリアのAT&T社)が望む以上のイノベーションを生みだすものではない。アップル2では世界全体がイノベーションを推進したが、iPhoneではアップルのみがインベーションを推進する(予定されているソフトウェア開発キットが提供されれば、アップルの許可を受けてiPhoneのプログラミングができるようにはなる)。

今まで、アプリケーションと呼ばれてきた、実行形式ファイルは、アイフォンでは、apps と呼ばれ、
まったく別
の概念のものとされる。純粋殺菌をされ、安全と確認されたものしか、このアイフォン上では動かせない。アップル社が「許さない」のだ。つまり、アイフォンは、私たちが今まで考えていた、パソコンではない、ということである。これは、
家電製品
だということです。プログラミングを許さない。アップル社の許可なく、
apps
を生み出すことは、セキュリティ上不可能となっている。これは、実行ファイルだけではない。インターネットで使える機能。訪れられるサイト。すべて、セキュリティの名の下に、アップル社によって、
殺菌消毒
されたものしか、触れない。つまり、そういった場所は、行きたくても、このアップル社が提供した端末からは、訪れることができなくなる。
つまり、アップル社は、この、渾沌とした、ネット社会を、

  • 子供から大人まで、だれもが安全、安心な、ワンダーランド

として、「管理・統制」しよう、ということなのだろう。少しでも、こういった理想に外れているものは、はじき出す。中に入れない。こういった、
醜いものと触れないですむ
清く正しく美しい社会
の実現に向けて、日々邁進している、といったところだろうか。しかし、どうだろう。その美しさは、アップル社にとっての美しさ、になっていないだろうか。

  • あなたが思う美しさは、他の人には、そうは思えないかもしれないし、逆もそうかもしれない。

ひとたび、なにが美しいものなのかを、アップル社に決められた、ということは、もしかしたら、それを美しいと思っていいか、思ってはならないか、の
自由
が奪われた、と考えることもできるだろう。
しかし、だからといって、彼らを非難するだけでは、一方的なのだろう。彼らには彼らの言い分がある。このインターネット社会が、あまりに、アナーキーすぎることは、
人々の権利(商品の所有権)
が脅かされる可能性が、ずっと続いている。ネットを中心に活動している、商売人の中には、ほとんどの稼ぎを、ネット上で上げている人もいるのだろう。彼らがもし、このネット上で売っていた彼らの商品が、ある日を境にして、人類最強、人類最終のネットウィルスの登場によって、使いものにならない事態に直面するとするなら、
背に腹は代えられないだろー。
ネットやコンピュータは、こうやって、少しずつ、ビジネスの論理に侵食されていき、自由なツールではなくなっていく。あるルールの中でのみ、存在が許されていく、どこにでもあるような、つまらないものに限定されていく。
こういったことが、どうも、著者の言いたい、
インターネットの死
ということのようだ。極論を言ってしまえば、私なんかから考えると、ある日、だれかが生み出した、最強ウィルスが、今、地球上にある、すべてのコンピュータを壊したとするなら、むしろ、その技術こそ、興味深くはあっても、それはそれで、ただそーなっただけでしょ、とも言ってみたくなる。
そんなことになったら、おれのビジネスモデルがー、とかヒステリーをおこしそうな方々も多いとは思うが、こういったことが、ウィリアム・モリスが言っていた、機械文明批判の「結果」だと考えれば、別に、不思議ということも変に思える。もし必要なら、そこからまた、新しいコンピュータを作り、新しいネットを生み出せばいいだけで、ようするに、こういった種類のものが、あまり、ビジネスの権利義務関係に、なじまない性格があるんだ、ということを認めるかどうかだけの話にしか思えない。
いずれにしろ、アイフォンを「すべての人」が使うようになったとき、巷には、アイフォンしか売ってなくなる。昔の、シャープのザウルスのように、ユーザーが好き勝手に、プグラミングして、ポンポンアプリケーションをインストールするなんて、
恐くて、なにやってんの!!!
ようするに、そういう人は「危ない人」ということになる。みんながなんとか、安全で安心なネット社会を作ろうとしているのに、そんな不届きな社会風紀を乱すようなことをやられて、もし、そいつの作ったアプリが、世界中のサーバお壊したら、
どーすんだ。
ということで、どこの電気ショップに行っても、アイフォンしか売ってなくなる。
(なんか、最近の、マンガ規制条例とか、実名至上主義者とか、似てますね。)
これが早晩訪れる、未来だとするなら、どうだろう?
まず、プログラミングという行為自体が、社会の秩序を破壊しようという、アナーキストのたぐいにされ、子供たちは、最近の理系離れのように(映画「告白」ですね)、プログラムをやらなくなる。文系のクラスの女の子とのくっついた離れたの恋愛ごっこに忙しくて、プログラム? なにそれ。だっさーい。
話はいきなり飛んで、最終章。第九章の、

  • プライバシー2・0論

である。
上記の、ネットワークの危機に対して、最初のネットワーク設計者が、どのように考えていたかと言えば、つまり、「困難に直面した、その時の、技術者が、きっと解決してくれるはず」、という楽観論だったわけである。きっと、彼らには、それだけの能力があるはず。そう信じたわけだ。
それを、はた迷惑と思うかは、人それぞれとして、その鍵こそ、プライバシーなのではないか、というのが、著者の見立てなのだろうか。

マイスペースユーザーにとって大事なプライバシー機能は機密性ではなく、自治性である。そこにアップロードしたものが自分の手の内から逃げていくことがあったとしても、とにかく、ホームベースを意のままにできるという感覚が大事なのだ。プライバシーとは、不当な介入や邪魔が入らず、自分のものだと呼べる何かを作ること----自分のアイデンティティを感じられる何かを作ることだ。

ちょっと最初に言いかけたことに話を戻すと、トゲッターでも話題になっていたと思うが、フェースブックが実名でないユーザを予告なしに削除する、と。しかし、そもそも、実名で仕事をしている人というのも、例えば、芸能人は違うわけですし、そこまで、アイデンティファイを意地でもさせよう、と。しかも、その違っているっていう情報を、どっから仕入れたのか。以前もちょっと書いたことですけど、この生身の自分というものと、ネット空間に降臨させた、あるID(アバター)と、同じわけがないわけですね。しかも、このIDをだれかが、のっとって、使い始めたら、どうでしょう。
でも、どうでしょう。そうなろうが、どうなろうが、「めんどくせ。どーでもいいや」って、思ったとして、ありがちな反応のように思える。

は、私には、かなり、「ゆるーい」つながり、に思える。上記の引用個所にも関係するけど、べつに、実名をなのろうが、なのらなかろうが、どーでもいい、どっちでもいー感覚が間違いなくあって、
とにかく、この関係を、未来に渡ってずっと、
お前が
メンテナンスしろ、っていう命令がうざい、といったところですかね(やりたきゃ、勝手にだれかがやれば? といったところだろうか)。

インターネットが死ぬ日 (ハヤカワ新書juice)

インターネットが死ぬ日 (ハヤカワ新書juice)