エマニュエル・トッド「自由貿易か、民主主義か」

日本のインテリには、自由貿易主義者が多い。
多いといいますか、なんというか、原理主義的に、なにがなんでも、自由主義じゃないと、ヒステリーを起こす連中ばかり、と言った方がいいだろうか。
小林よしのり風に言うなら、純粋真っ直ぐ君的に、自由貿易主義に反する臭いをかぐと、受験勉強の悪い癖なのか、どうも、むずむずして、一家言ぶたないと、スカッとしないようである。
しかし、(萱野さん風に言うなら)ナショナリズムは、各国の「当然の権利」なのだから、こういう態度は、「国益」を損ねる場合もあるんじゃないのか、とでも言いたくなる。その場その場で、「国益」を選択することこそが、
功利的な
態度と言うべきで、なにがなんでも、自由貿易って、かえって、相手にとって、組みし易しってことでしょう。
その純粋っぷりの、よって来たる動機ってなんなのだろうと考えると、
ベタで、自由貿易主義を「信仰」にまで高めて、日々、神社でお祈りをかかさない連中というのは、少なくて、
あくまで、自由貿易主義はネタで、本音ベースでは、

ではなく、もう一つの「友敵」理論:

ということになるのだろう(アメリカからの圧力が大きいことは、間違いなさそうだが)。

自由貿易の結果、すべての国において不平等が拡大しました。経済格差が世界的な規模で広がっている。各国の最上層部、超富裕層がこれ以上は不要だというような富をさらにいっそう集めている。そこだけに富が集まっているという状態が、各国で起きている。富の資源となるものが、すべて超富裕層に集まってしまっているわけです。

自由貿易」という言葉は、一見、美しく、「自由」にはよい響きがある。しかし、自由貿易の現実というの、そうではありません。万人が万人に対して経済戦争を仕掛けている。自由貿易の現実とは、そのようなものです。ですから、あちらこちらで経済対立が起こり、万人の賃金に圧縮がかかる。そして、あらゆる先進国において、格差拡大と生活水準の低下が起こる。

グローバリズムナショナリズムに対立する。
だとするなら、グローバリズムを拒否して、ナショナリズムの側につく、という態度は、そこまで反動的ではないのかもしれない。
(以下は、ナショナリズム的な経済政策の可能性を探る。)
もちろん、そういった保護主義的政策を選択するためには、各国に理解を求めるための「大義名分」が必要である。

ヨーロッパは、様々な問題を抱えているとはいえ、総体として見れば、経済的には世界で最も活力のある地域となっています。例えば、労働人口総数から見たエンジニアの割合が非常に高い。各国それぞれに違いはあるけれども、ヨーロッパ大陸全体で見ると、比較的均整がとれている。ですから、ヨーロッパにとっては、関税や輸入制限枠を設ける形で、保護主義に移行するのは、少なくとも技術的には、比較的簡単なことです。しかもそれは、ヨーロッパ域外のパートナーにとっても、悪いことではない。ヨーロッパでの賃金が上昇することは、最終的には、域外のパートナーにも利益をもたらすはずです。

つまり、原則論として、どういう主張をするにしても、問題は、各論であるわけで、それは、ケースバイケースでやる以外ないはずなのだ。
日本は今、世界中からバカにされ、衰退の一途だと、(他国のことなのに)嘲笑され続けている。日本の代わり(他のアジア各国)なら、いくらでもある。なのに、日本の人件費は高く、なにやってんの? というわけだ。
モノ作り国家を目指すのであれば、他のアジアの国々と競争をしなければならない。向こうは、こっちに比べたら、圧倒的に人件費が安い。では逆に聞きたい。他のアジア並みに、人件費を下げるべきなのか?
しかし、逆に問うてみるのもいい。日本の人件費が高いのではなく(もちろん、高い所は高いのだが、全体としての話)、問題は、日本以外のアジアの国々が、極端な、貧富の格差を容認する政策を行っていることなのでは、と。
特に、掲題の著者は、中国の今の政策に批判的である。

つまり、中国やその他の新興国とコスト競争をしなければならない。その結果、また賃金が圧縮され、企業移転がどんどん進む。結局、同じことが起こってしまう。とくに日本やドイツといった比較的均衡のとれた強い経済大国は、そうした再生プランを講じても、企業の海外移転を止めることはできず、賃金も下がる一方でしょう。

中国は、ずっと、社会主義を行ってきた。しかし、その政策がうまくいかないと判断すると、改革開放政策に転換する。これは、一言で言えば、政治は社会主義だが、経済は資本主義でいく、ということになるのだろう。
社会主義時代の国家運営というものがどういうものであったかを考えれば、あらゆる国民を公務員にして、あらゆる労働生産物を国のモノにする、と言えるだろうか。20世紀の社会主義国とは、国家社会主義であったわけであるから、それは、国家内に閉じていた。基本はナショナリズムによって運営されていた、と言えるだろう。ですから、自国内で作った商品を他の国に売らなかったわけではない。
改革後は、もちろん、海外に売りまくる。その活動を完全に自由にした。資本主義を貫徹するということは、時間軸において考察するとどうなるかと言うと、
儲かる人と儲からない人に分断する
ということである。資本主義は「必ず」この差を、時間軸において、生み出す。
日本や欧米の、資本主義陣営と呼ばれてきた国々は、終戦後、国家社会主義陣営との、イデオロギー闘争を続けた。それぞれの国家は、どちらの陣営に入るかが、まず最初の選択であったわけだから、各陣営は、自分たちのサービスの方が上であることを宣伝する。ということはどういうことか。資本主義陣営も、さまざまな福祉サービスを行ったことを意味する。資本主義陣営の福祉が弱いとなると、人気がなくなるわけで、勢い、福祉を積極的に提供することになった。
ところが、ベルリンの壁の崩壊後、社会主義陣営の消滅だけでなく、中国の改革開放、東アジア諸国の躍進と、今まで、発展途上国と呼ばれてきた国々が、大きく躍進するようになる。
その方法は、まさに、中国型国家社会主義内資本主義と言えるだろう。つまり、政治は、独裁(韓国やシンガポールのような、東南アジア諸国を含め、そういった面がある)。その政治力をバックに、民間を
好き
にやらせる。ただし、その目的は「国力増強」である。自由にやらせることは、目的のため、ということになるわけで、この目的に逸脱するのであれば、当然制限してくる。
資本主義を「手段」とする、これらの国家体制の特徴は、積極的に、自国内に、差別を生み出すことである。経営者にとって、必要な「安価な労働力」を、徹底して、貧しい福祉しか享受できない、田舎者、によって賄う。
しかし、こういった方策には一つ、弱点がある。物価が上昇することによって、お金持ちが、先進国並みになる一方、貧困層が今まで並みの、生活レベルを維持できなくなっていく。
こういった、発展途上国がそういった問題にどのように対応するかといえば、なんとかして、物価の上昇を抑える政策である。これは、中国が典型であろう。あらゆる手段を使って、物価の上昇だけは許さない。もし、これが成功するなら、このスタンスはかなり強力と言えるだろう。
しかし、よく考えてみればいい。もし、関税を課さず、完全な自由貿易を許し、物流に、まったく費用がかからないとしたとき、各国の物価は、まったく、同一になっていくであろう。つまり、職業による、給料の差は、各国内にはあるが、各国間では、なくなる(あるのは、能力差による、差だけ)。
こう考えるなら、中国と日本に物価の差があるなら、日本の高い物価が下がっていき、中国の低い物価が上がっていく、この両方しかない。
しかし、もし、中国が物価の高騰を嫌い、低いままにしておこうとするなら、確かに、製造業は利益を上げ続けることができるが、その努力は、そう簡単ではない。各国の通貨市場では、当然、信用が高くなる通貨は、どんどん価値が高くなる。もし高くならないとすると、どうなるか。アメリカのような基軸通貨が、どれだけ赤字を増やし、借金をしても、価値が下がらない状態が続くわけであるから、世界中が、アメリカにお金をみつぐために働いているような状態になる。
日本も同様で、物価がどんどん下がり、デフレが進行する。日本で、モノを作っても、あらゆるものの物価が高いので、最終製品にどうしても、値段に反映せざるをえない。どんなにいい製品を作っても、中国に勝てない。
こうした場合、どう考えることが、ナショナリズムとして正しいか。この問題を、掲題の著者は、
ヨーロッパ・ナショナリズム
の視点から考察する。

目指すべきなのは、世界の需要を増やすことです。世界的な需要を増やす唯一の方法は、賃金を上げることです。

保護主義は、あくまで、暫定的な時限立法的な措置として推奨されるにすぎない。なぜか。不況が、本来、潜在的に持っている能力をちじこませて、経済規模を小さくしているから、と言えるであろう。不況とは、必要以上に、人々の選好を、消極的なところで、とどめてしまう。
しかし、もしこれを、グローバリズム原理主義で考えるなら、どうなるだろう。なにがなんでも、企業は世界中をさ迷い、最も「安い」国で、作る(工場を移転する)ことが、答なんだ、と説教を始めることであろう。しかし、これを選択するということは、以下の二つの方向に梶を切ることを意味する。

  • 「その国の」企業であることをあきらめる。自国の国民「のために」財を生み出そうとしない、企業は、補助金などで優遇してならない。こいつは、うちの国の企業ではもうないのだ。
  • 自国民に、給料を支払おうとせずに、外国人ばかり雇う企業は、うちの国の企業と認めるわけにはいかない。なぜなら、この企業の収益は、うちの国の国民に、還元されないから。

どこかの企業がどれだけ、「エコ」で無駄使いのない、芸術的なまでの、
効率
を実現しようと、そこで生み出された財が、我が国民に還元されないなら、どうだろう。こんな企業、うちの国に、いるか? いらないだろう。私たちが欲しいのは、私たちが幸せになれる企業だろう。
しかし、だからといって、自分の国さえ、幸せだったら、あとはどうでもいい、と言っているわけではない。しかし、世界中の国が幸せになりますように、と星に願っているうちに、うちの国を除いた、ほかの全ての国が幸せになって、うちの国だけ貧乏クジということは、往々にしてあるだろう。
では、中国などの発展途上国は、どのような国家であることが、欧米や日本に求められているのか。

最近の中国の経済成長については、みなが同意していることです。けれども、輸出によって経済成長する政策が、一三億の中国人にとって本当によいことなのかどうか。私は非常に疑念を持っています。保護主義下での国内レベルの発展から自由貿易に段階的に移行していくのではなく、初めから中国経済を体外的に開放したことは、世界的な企業の海外移転を引き起こし、格差を拡大させただけだったように思えます。その中国の政策も、いまこそ転換しなければならない。

ただ、もし世界全体が、地域ごとに保護主義に移行していく場合、中国の経済水準はどのくらい下落するのか、そして中国が海外市場ではなく国内市場を活性化させ、経済を再生させる解決策を見つけるまでに、どのぐらいの時間がかかるのか。いずれにせよ、中国の政策転換が急がれるわけですが、だからこそ、日本や欧米の先進国の指導者たちは、政策の転換を促すために中国に対して、もっと断固たる態度をとるべきです。

中国が内需主導型になるということは、国内のお金の廻りが活発になる、ということである。つまりは、かなり広く薄く、お金が国民に行き渡る可能性がでてくる。そういった、ゆるやかな富の均衡がない限り、
資本主義的カタストロフィー
が、急速に進むということなのだろう。一見、トリクルダウンによる、富の均衡が生まれるように主張されるが、おこぼれが、ほとんど起きないなら、意味がない。
しかし、著者は、皮肉に以下のように言ってみたりもする。

欧米では、中国が欧米のように経済成長すれば、中国の政治体制も欧米のように民主化するであろうと言われています。しかし、実は反対ではないか。もし自由貿易が民主主義を破壊するのであれば、「現在の中国のようなモデルこそ、欧米の模範とすべきだ」ということになる。

中国の今後の、資本主義的な発展が、もし、民主化の方向に向かうことがなかったとするなら。それだけでなく、世界中に、
成功した範例
として、中国型非民主的政体が「資本主義と矛盾することなく」、拡散し普及していったとするなら...。しかしその姿は、ある意味、日本を除いた、東アジアの国々の姿(これこそ、明治以前の東アジア王朝型支配形態の復活)と言えなくもないように思われる...。

自由貿易は、民主主義を滅ぼす

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