ライアル・ワトソン『思考する豚』

もう、あまり記憶は残っていないが、子供の頃、おばあちゃんの家に出かける道すがら、それほど大きくない、養豚場があった記憶がある。けっこう小規模のものであっが、今でもそれなりには、地方に行くとあるのではないだろうか。
(ウィキをみると、日本においても、弥生時代にブタを飼っていたそうで、まあ、中国はずっと豚文化ですから、当然なんでしょうが、ただ日本は、仏教伝来の影響もあって、ずっとブタを飼う習慣は九州あたりくらいしかなかったようですね。だから、今の養豚場は、ほとんど、昭和のある時期のブタブームのときのもののようで。)
なぜ、こういうふうに記憶にあるかといえば、言うまでもなく、「臭かった」からだろう。子供の鼻には、ちょっと耐えられないような、「高原の香り」ってやつで、その、香ばしさ、ときたら、できればその前を通らずに、すませたいと、子供なら思うものであったことは言うまでもない。ただ、間違いなく、その養豚場の隣りの道を歩くと、ちゃんと、草を食っている豚が見れたわけで、しかし、それが「普通の光景」だった。
豚が臭いということから、豚という表現は、子供の「いじめ」言葉となる。いつの時代も子供は残酷なものだ。
しかし、ここで一つ、別の視点から考えてみようではないか。なぜ、人間が今ここにいるのか、と。つまり、なぜ人間は今「まで」生きてこれたのか、と。そう考えると、人間が誕生した、はるか太古の時代から続く、さまざまな
動物たち
との、相互作用の及ぼし合いの結果として、今があることに気付くであろう。生物の多様性は、たんに、「自分以外は敵」の、ホッブス的な「自然状態」としてあったわけではない。お互いがお互いを「敵」として、相手を殲滅するなら、たんに、お互いが、この地球上から、いなくなるだけである。
しかし、今。地球上に、人間が存在し、また、それ以外の動物も、さまざまに存在するということは、それが、
共存関係
であったことを意味するだろう。食物連鎖は、一つの秩序系であって、この物理系がこのように、今の今まで、カタストロフィーを迎えることなく残っていることは、驚きの一言だと言えないだろうか。
なぜ人間が今、生きているのか。他の「人間に親和的な」動物たちが、人間を「助けた」からである。人間の生態系と共存的な他の動物たちと、人間が、一つの秩序系を「協力して」維持してきたからである。
(そういう意味では、あらゆる動物と人間は親和的とさえ言えるのではないか。なぜならこうやって、人間は今、生きているのだから。)
そういった動物の中でも、興味深いのが、人間が家畜やペットとして、養育してきた動物たちだといえるだろう。家畜やペットが、人間と共存し続けてきたということは、たんに、主人と奴隷の隷従関係と考えてはならない。つまり、強制による非自由の関係に対する、労役の苦痛、に対する不快だけが、その間にあったと考えることは、この共存関係の意味を見誤るであろう。なぜなら、もしそれが、たんなる苦痛かつ不快な関係なら、これほどまでの長い間、続くことはないからである。ただでさえ、ストレスに弱い高等動物は、一瞬で滅びたであろう。
お互いの関係が長く続くということは、ある、相互依存関係が「友好的に」存在した考えるべきである。
そういった動物の中で、掲題の著者は、ブタ、を重要視する。
ライアル・ワトソンといえば、ある程度の年齢の人たちには、大きな影響を与えているのではないだろうか。ニューエイジ・ブームだかで、ある意味、トンデモ科学的な扱いに思っている人もいるのだろうが。その彼が、遺作として書いたのが、掲題の本であるという。なぜ、著者がブタに注目するのか。それは、彼が子供の頃、ペットとして子豚を飼っていたことが大きいようである。
ブタは、著者に言わせると、非常に頭がいい。しかし、なぜ、ブタはそれほど、頭がいいのか。

草食動物の中で、日常的に何でも食べるものが一つだけいる。それがブタで、ブタの歯は今やヒトの歯と同じように守備範囲が広く、専門化していない。

雑食性は、動物の生息地と生活様式の幅を確かに増やすが、それだけにとどまらない。様々な種類の食べ物の刺激は、知的な営みを増進させるのに大きな役割を果たしてきた。雑食性であるこおは、好奇心が強く器用なこと、そして食べ物を見つけ、料理し、保存する新しい方法を探ろうという意欲に溢れていること、そして手先や蹄がよく使われることと関係している。

ここで、「頭がいい」とは、どういうことを言うのか、を検討してみたい。私たちは、受験勉強にあまりにも慣れきっているため、なんらなの物差しが存在して、その物差しは、当然、動物にも適用されうる、と考えがちになる(つまり、そこから、人間が自然界の王者である、と考えたがる、ということである)。しかし、こういった思考過程がいかに、
反進化論的推論
であるか、はある意味、何度もこのブログでも検討してきたように思う。進化論において、重要なことは、たんに、次々の世代を経て継承していくかどうか、でしかない。ということは、頭とは(頭がいい、とは)、
次の世代に継承することができることによっての「なにか」
として、適応していなければ、話にならない、ということである。なんらかの「物差し」で、こいつの頭がよろし、ということに判定されたような奴らばっかり、その棲息環境で、へたこいて、死んでいくのであれば、なんの意味もないのである。
そう考えたとき、それでもなお、私たちが、相手の動物を「頭がいい」と判断したがるケースとは、人間と非常によく似た、生活慣習をしている場合と考えられるだろう。
ブタが雑食であるということは、非常に重要なことを示唆する。食べるものが同じであるとするなら、その動物の「最適化」は、その食べ物を食べるための、行動に特化される。バカの一つ覚えのように、その食品を食べるための行動をすることがベストなのだ。
ところが、雑食となると、「いろいろな選択肢」が存在することになる。どう、その食品をゲットするか、どう加工するか、どう保存するか。その食品一つ一つに対して、最適行動が存在する。もちろん、それぞれの食品のどれにアプローチするのかの「最適化」もある。

豚の大脳半球は、体の大きさが同じくらいのほとんどの草食動物の大脳半球よりもずっと大きい。大脳新皮質の発達においても違いが見られる。豚の悩における感覚連合野の占める割合は、厳密な意味での草食動物の悩におけるそれに比べてずっと大きい。

しかし、私たちにとって、興味があるのは、なぜ、ブタなどの幾つかの動物が、これほどの長い間にわたって、
共同生活
を続けられたのか、の意味なのである。

また、たいていの草食動物はほぼひっきりなしに食べているが、豚はそれとは違い、日々の活動の中で決まった時間にだけ食べ、夜はずっと眠っている。つまり、まともな人間と変わらない。
それから、豚は素晴らしく協調性に富んでいる。群れることを喜び、その相手が別の種でも構わなければ、縄張り的習性もない。私たちが移動するときには喜んで従い、大勢の子豚の世話もいとわない。こちらが集めてやる必要などなく、来させることも行かせることも、角笛や呼び声だけ簡単にできる。

ブタは、非常に高度な集団行動を行う動物である。非常に協調性に富んでいる。積極的に、群れ、群れていることを重要視する。
(たとえば、その集団行動において、ライアル・ワトソンは、ブタ同士が声で、会話をしていることを重要視する。
先ほども言ったように、あらゆる行動は、その「行動」適応性において、解釈されなければ、意味がない。つまり、その行動が、彼らの行動慣習において、どこまで「必要かつ十分」であるか、こそが適応的に意味のある問いとなる。
各動物にとっての会話もそうだろう。音とは、フーリエ級数である。各動物種間で、どのようなコミュニケーションが行われているかは、そのフーリエ級数をどのように、使っているかにおいて判断されるべきもので、それが彼らの行動慣習において、十分な意味分化を実現できているなら、十分に「高度」と言えるわけだ。
これは、こんなふうに言えるだろう。もし、人間が人間「として」その動物と会話をしたい、と思うのであれば、物足りないだろうが、もし、人間がその動物に「変身」して、その動物と同じ行動を、死ぬまで、行おうと決意したときを考えればいい。そうした場合、なにが重要か。彼らの思考パターンにおいて、考えることだと分かるだろう。そして、往々にしてそれが一番の「局所最適化」になっているわけである。)
人間にとって、勝手に集団行動をとってくれるとしたら、これほど、
共同行動
をとりやすい動物はないだろう。
ブタは、あまりにも、人間に似すぎていて、知能が高く、協調性に富み、...。どうだろう。人間にとってブタの立ち居振舞いは、どこか、
高貴にさえ思えないだろうか。
ライアル・ワトソンのこの、熱狂ぶりが伝わっただろうか。)

思考する豚

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