ローレンス・J・ピーター『ピーターの法則』

組織というものを、どのように考えるのかは、永遠の問題のようだ。ヘーゲルなどになると、どこか「有機体」、つまり、一つの生物のように考えるところがある。たしかに、人間だって、手足が体と、一体になって動いてくれなければ、その効用を発揮できない。
組織だって同じじゃないかと、そういう方向に考えが向かうことは、自然な気もしてくる。
しかし、問題は、これを構成するのが、人間だというところにある。
もし、組織が有機体であるなら、そこには、悩があり、手足がある。では、だれが、悩をやるのか。だれが手足をやるのか。一体、だれが、どこのポジションにつくべきなのか、それをどのように決めればいいのか、だれが決めればいいのか。
いうまでもなく、組織の最初は一人である。この頃は、その人の必要が、人の増員を行うことであり、なんの悩みもない。たんに、思ったことをやればいい。しかし、しだいに組織は大人数化してくる。
ヘーゲル弁証法が、大きな影響を与えたのは、そのダイナミズムにある。人間は生まれたとき、まだ、小さく未熟でありながら、日々を重ねるごとに、少しづく大きくなり、ついには、大人となる。つまり、時間の進行が考慮されている。
これを、組織に応用したとき、最初小さな頃から、プロジェクトの拡大とともに、より、有機体的性格をもたなければならなくなってくる。
第一期のメンバーがコアとなり、プロジェクトを成功させ、さらなる拡大を目指す場面になって、さて、第二期のたちあげ時、どういったメンバーを今後、コアにしていけばいいのか。
これは、政治の場面では切実であるが、一般に批判とともに指摘されるのが、「論功行賞」であろう。なぜ、批判されるかといえば、
能力主義
でないからだ。たんに、まっさきに、自分に額付いてくれた、忠勤の士たちを、コアにするということは、その組織の行動原理の全ては、リーダーの「太鼓持ち」になるだろう。リーダーのご機嫌を損ねる、諫言は一切なくなり、組織はその行動の選択を間違い続ける。まさに、バベルの搭のように、少しづつ内部の腐食は進む。
そうなると、キーポイントは、
能力主義
ですね、となる。能力に応じて出世させている限り、組織は、どこまでも成長しそうに思えるじゃないですか。しかし、この戦略が、これはこれで問題があると考えるのが、著者の言う、ピーターの法則、になる。
ある地位において、「適応」し、戦跡を残すプレーヤーに、もし、「ご褒美」として、上位階級への昇進を行うと、どういうことが起きるか。
そのプレーヤーは、その下位の仕事に「適応」していたと考えるなら、その人を昇進させることは、その人を、その「適応」領域から、ひきはがすことを意味している。その人を上位組織に格上げさせることは、命令者にとっては、「ご褒美」のつもりなのだろうが、その人がその上位組織で「適応」するかは、未定だ。
つまり、能力主義は、全てのメンバーを、どんどん格上げさせ、全てのメンバーを、「非適応」階級に収まったところで、「安定」する。つまり、ピーターの法則は、あらゆる組織が「堕落」することを予言する。
去年のイグノーベル賞は、ここから、あらゆる昇進は「ランダム」に行なうべきだ、というトンデモ結論となったわけだが。
たとえば、日本の日米開戦のときの首相、東條英機は、たしかに統制派の権力を拡大させるために、皇道派をぶっつぶしていくときの鉄砲玉としての能力はずばぬけていたとして(だからこそ、あらゆる方面からの求心力があったから、期待されたわけだが)、そういう人がどんどん出世していって、内閣総理大臣まで行ったときの「不幸」と考える、こともできるのだろう。
ナチス・ドイツにしても、ヒトラーはよく考えれば、彼が、国民の中にどろどろとうずまいている欲望をうまくすくいとる、(多くの政治家による多数決を前提とした民主主義システム内の、政治家の一人としては)優秀な政治家と言えたのかもしれない(実際、人気があった)。しかし、そういう人間が、そのまま、総統になったことの「悲惨さ」と言えるのかもしれない。
では、一般にはこういった問題はどのようになっているのか。
学校のクラス委員のようなものは、基本はあまり忙しくなく、個人の負担にならないだろうという前提であるくらいのものだろうから、それほど深刻なものではないのだろうが(内申書を考えて、肩書をほしがる場合があるのかは知らないが)、一般には、それまで学校生活をしていて、なんとなく、いろいろな場面で、まとめ役的に振る舞っていたような奴が、押し付けられるような感じでなっているのだろうか。
企業の就職は、よく「将来の幹部候補」として、採用を判断されると言われる。つまり、ある意味、この段階で「リーダー的資質」の取捨選択がされているという考えだとも言えるだろう(さまざまな業務のエキスパートは適宜、アウトソースしたっていいわけですから)。まあ、その企業を存在させ続けてくれる存在が、採用した「幹部候補」の中に含まれていてくれることが重要なのだろう。
著者の処方箋は言わば、トンデモである。

彼らは、昇進を拒否するのではなく----これがいかに悲惨な結末を招きかねないかはすでに見ました----初めから昇進の話を持ちかけられないように工夫することによって、上のポストに登るのを避けてきたということです!

優秀な人材が昇進しなければいい、となる。つまり、優秀な人材は、自らが優秀「でない」と表面上、人々に思われるように見せろ、となる。そしてその、
素晴らしき「愚鈍」の世界
が実現する。なんか、老子、っぽいですよね。一見すると、その人は、無能に見える。アッピールが苦手なのかなんなのか、非常に謙譲心に厚く、俺が俺が、じゃない。ところが、緊急事態、エマージェンシーの極限において、抜群の能力を発揮し、事態を収拾して、その手柄はどっかのだれかに押し付けて、また、裏に隠れる。
極論を言ってしまえば、あらゆる組織は「支配者」が存在して、「その人が好きにできる」はずなのだから(なぜなら、あらゆる社員は有限責任しかなく、その「支配者」に「だけ」責任があるのだから)、だったら、ほとんどの儲けを、「支配者」のポケットマネーにしてしまえばいい(アメリカのCEOとかそうですよね)。しかし、多くの日本の会社でそうなっていないのは、いろいろな深謀遠慮が働いているのかもしれない。
人間は、協調性の極端に肥大した動物なのだろう。組織の末端からトップまでが、協調性の塊なら、意外と堅牢なのであって、人間が今の今まで、この地球上に存在しているのだって、それくらいの理由なのだろう...。

ピーターの法則 創造的無能のすすめ

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