松岡資明『アーカイブズが社会を変える』

日本は本当に「公共」なのか。
たとえば、どのような条件がそろったときに、国民は国家を「社会的身体」と考えるようになるのか。
私たちは今。ケータイを持って生活しない日がないくらいに、毎日ケータイを肌身離さず、持ち歩いている。ということは、ケータイは「自分と区別がつかない」ことを意味する。では、クラウドはどうなのか? もちろん、クラウドも「社会的身体」となる。ケータイを通して、さまざまな情報を求めるのであれば、クラウドとケータイを区別することさえ、意味がないだろう。
そのような延長で「国家」を考えたとき、はたして、国家はどこまで「社会的身体」なのだろうか。
クラウドに我々が求めるものは、まさにググるたん。自分があるキーワードによって、求めるものの「応答」を受益する、というのはあるだろうが、そもそもそれは、
アーカイブ
が実現するスキームであることを忘れてはならない。アーカイブズの存在が、それへのアクセス・テクノロジーを要求し、まさに「社会的身体」となっていく。
ということは、どういうことなのだろうか。つまり、情報は
消えてはならない
ということを意味しているだろう。

一つ例をあげよう。政策を起案して実施する場合である。文字を使う文明人なら記録として文書に残すのが普通だ。文書を読めば、政策がどのような意図から生まれ、どう具体化していったかが分かる。後世の人間がその文書を読み、検証をすることも可能である。
ところがこの国では、こんな当たり前のことがつい最近までできなかった。今でも、完全に解消したとは言えない状態にある。なぜかと言えば、文書(中でも公文書)を適正に管理するための法律がなかったからである。いや、公文書に限らず統計など実に様々な分野でも同様なことが起きている。つまり、様々ん記録やデータが適切に保存・公開されていないために日本の本当の姿が分からないのである。となれば、日本をどう立て直すかの議論も簡単にはできそうにない。
そうした中でこの二〇一一年四月、公文書管理法という名の法律が施行される。公文書管理と聞いても、ほとんどの人は自分には関係のない話と思ってしまうかもれない。が、少々大げさに言えば、この法律は日本社会を変える可能性を秘めているのである。なぜ、そんなことが言えるのか。それを理解していただくために執筆したのが本書である。
アーカイブズとは、公文書を含めた多種多様な分野の記録資料、さらにそれらを収納する施設を指す。文書にとどまらず、写真や動画、音声、電子メール、ツィッターと広範囲なため とらえにくい。が、過去を検証し、未来に資するためには不可欠なものである。

国家とはなんなのだろう。もし、国家が私たち自身の社会的身体であるとするなら、私たちは「当然のこととして」、自らの脳に自らの過去の経験の情報を思いだすように、
検索処理
をかけるだろう。そして、さまざまな経験を重ねることで、脳というアーカイブズに
登録処理
を絶えずコミットし続けている。同じように、国家の「経験」を検索できることによって、
始めて
私たちは国家への「共感」。つまり、国家を自分の延長、つまり、社会的身体と考えるようになる。

公文書管理法が成立したのは二〇〇九年六月。二〇〇三年四月に福田康夫官房長官(当時)の肝いりでできた「歴史資料として重要な公文書等の適切な保存・利用等のための研究会」(座長・高山正也慶應義塾大学教授=当時)での議論が始まりである。
福田氏には実体験があった。今から三十年以上前のことである。政治家になるまで石油会社に勤めていた福田氏は、父親赳夫氏の後援者が終戦直後の前橋市群馬県)周辺の写真を探しているのを聞き、米国出張の折に国立公文書記録管理局(NARA)を訪れたことがある。後援者は学校経営者で、学園の記念誌制作のために写真を探していた。市役所や図書館に問い合わせても、そんな写真はないという。あまり期待もせずに訪れたが、それほど待たされるわけでもなく、十数枚の写真が出てきた。コピーもできるという。そのとき、福田氏はアメリカという国の力をまざまざと知らされた。

たとえば、国がある会議を開き、なにかを決めたとする。そうしたとき、国民が「その会議でどんなことが話されたのか」と興味をもっても、その情報が国民にアクセス不能であるなら、国民にとってそれは「興味を持ってはならない」というメッセージとして受け取るであろう。つまり、国家は国民の一部では「ない」ということを、再度認識させようと国家がしている、と。
そういう態度を国家が国民に示しているときに、それでも国民は政治に参加すべきだ、という「啓蒙」は、逆のメッセージを暗に持つことになる。
ということは、どういうことなのだろうか。つまり、まずもってやらなければならないのは、国家によって国家の情報の
削除処理
をさせないこと、ということが分かってくる。なぜなら、国家内にその情報が残っている限り、いつか、国民はそれを享受できる「可能性」がある、ということを意味するからであり、そうである限り、国民にとっての国家への「社会的身体」性の可能性が保持されるからだ。
たとえば、トゲッターで、週刊金曜日のサイトの記事の紹介があった。

国際原子力機関(IAEA、本部ウィーン)は四月一四日、福島原発事故に関する条約締約国会議を来年八月に開くことを決めました。ロイターは <特別会合を開き、さらに具体的な対策に着手するとしている> と伝えています。
これは、事故の終息がみえ、全体像を話し合うまでには来年八月まで待つ必要があるとIAEAは考えている、ということです。外務省関係者はこう指摘します。
「世界の原発推進派は『原発は安全・安心だが、日本人の能力が低いため深刻な事故が起きた』との物語を創ろうとしている。だから会議は、極東軍事裁判のように日本を一方的につるし上げる場となる。そして、能力が低い日本人には原発は任せられないとして国際管理にされる恐れすらある」
screenshot

ここまでの3・11から今までの原発報道を考えても、まずもって誰もが思うことは、ほとんど、現場のデータが「公開」されないことではないだろうか。その現場で計測されたデータを東電という一利益追求目的私企業が「解釈」した、二次情報しかでてこない。ところが、この二次情報。いろいろ問題があるたびに、何週間も後になって、
やっぱり間違いでした
の訂正のオンパレード。いやそーじゃなくて、その一次情報をパブリックにせーよ、と思うのだが、まず、国策だっていうんなら、国がそういった、なんの情報を吐き出させるのかをコントロールしない(この国難に一企業に日本の未来の舵取りを任せる)じゃあ、どーしよーもないですよね。
そういったこともなしに、今後の日本のエネルギー政策に原発は必要かどうかとか、話している人がいるって時点で、あんたの頭の中じゃ、ア・プリオリ原発は必要なんかいな、と。
なんでもいいんですよ。とにかく、一次情報というエビデンスで語っているんなら、ですよね。それなら、反証も可能でしょう。つまり、あらゆる情報がオープンになって、始めて国民は「考えられる」。
もし、国家にある情報が基本的に破棄されることなく保存され、国民がそれらにシームレスにアクセスできるインフラが整備してきたとき、今以上に多くのシンクタンクが日本にも生まれ、多くのエビデンスベースの政策論争が生まれるだろう。
それにしても、なぜ日本において、情報を保存しなければならない、という意識が低いのか。なぜ、すぐに情報は
捨てられてしまうのか。
というか、そもそも、日本に「公共」が芽生えたことは、一度たりともあったのかな。

歴史に「もし」はないかもしれないが、[横井]小楠がもう少し長く生きていたら、と考えてしまう。「国家の私」を否定した小楠亡きあと、明治政府が薩長閥によって牛耳られる結果になったのは知っての通りである。そうしたなかで、記録を残し後世に資するという考えがいつの間にか失われた。今の日本に決定的に欠けているものといえば、小楠が考えたであろう「公共」の意識ではないだろうか。

薩長が天下をとってやったことは、なにより、薩長で、政治の中枢を固めたことであり、奥州列藩同盟のような彼らに半旗を翻した地域を冷遇することだったであろう(そういったところにも、今回の東日本をどこまでやる気があるのか心配にもなる)。結局明治以降の日本の伝統に、公(おおやけ)はあったのだろうか。
官僚も自分たちの利権にしか興味がなければ、政治家も興味がない。日本中のだれもが、自分の利害以外に基いて、俯瞰的に見ようとしない。
しかし、そんなことを言っていたら、国際社会は、日本が、あまりに危険なので、
再占領
が必要と考え始めているようだ。日本の原発は(世界ではありえないような)、あまりに地盤の悪い所に作られすぎている。しかも、活断層の真上にあるなんて、ざらで、海沿いにありながら、あの福島の事故の後だというのに、まともな津波対策さえされてないんじゃないか(というか、やれるのかな)。
そもそも、今起きている事態の分析の情報さえ、まともに、世界に開示されない。というか、今後、その判断した一次情報が公開されることはあるのだろうか。年金記録と一緒に、
「もーいらないかなーと思って、捨てちゃいました。てへっ。」
そうすると、なにが起きるか。日本の事故は、世界のリスク要因になっていることであろう。日本を日本に任せておいたら、なにが起きるか分からない。この国難にあっても、東電という私企業の、利害丸出しの恫喝に言われるがまま。一ヶ月もたって、
「やっぱ計り間違いでした。てへっ。」
こんなことを繰り返させられて、世界は、どうも、東電に遊ばれているようだ。
汚染水はだだ漏れで、しまいには、自称低濃度汚染水をアメリカだけに断って、自ら、
「捨てちゃいました。てへっ。」
かわいくないんだよw。全世界の国々が団結して、日本の原発を「占領」し、東電や日本政府の管理下から、開放して、
世界の安全は世界の力で守る。日本の一企業に世界の安全を脅かされてたまるか。
まともに情報を公開しない、東電と日本政府は、すでに、
世界のリスク
になったのだ。彼らに任せておくと、世界の未来が危ない。だったら、どーするか。彼らには、彼らの立場を退いてもらうしかない。
日本の原発は、世界が守り、フェードアウト戦略も、世界の工程表によって管理されるようになっていくのであろうか...。そこでは、日本の電力会社や日本政府が(国民の税金や電気料金として、お金だけはむすりとられて)、カヤの外に置かれていく...。
とにかく、日本の原発もたくさんあるわけで、採算とリスク(と今の節電努力による需要抑制)によって、存在理由のなくなったものについては即刻、止めてほしいのだが、どーも、原発ってなると、議論がヒートアップして、年寄り世代のアイデンティティがゆさぶられるようで、
原発という)本土防衛線。なんとしても死守
という亡霊にとりつかれて離れないようだ...。

アーカイブズが社会を変える?公文書管理法と情報革命 (平凡社新書)

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