個人主義的な原発「選択」問題

ここでは、個人主義的に、原発問題を考えてみたい。
もし、ある個人が原発を問題と考えるに至ったとき、個人主義的にどういった行動に至るか。
まず、自分の生活が原発によって成り立っていることに抵抗を始めるだろう。つまり、自分は電気を使いたい。しかし、その電気の何割かは原発で作られた電気を使っている。しかし、自分は原発は悪だと思っているから、その電気を使うことに自分が関与することを潔しとしない。じゃあ、どうするか。
電力会社に、原発で作られた電気を自分が買わなくてもいいように、商品を細分化しろ、とクレームするだろう。もし、電力会社が「それは無理」と言ったら、私たちはどうするか。別の会社から電気を買うだろう。
ところが、今の日本では、電気は地域独占だから、他の会社から買いたくても買わせてもらえない。その場合、一つは自分で電力を生み出す。もう一つは、自分たちが他の電力会社から買えるように、法律を変えさせる(ここからデモなどの行動が始まる)。
こういった方向を進める他方、街にでれば、多くの電気が使われている。交通機関の電気が原発によってまかなわれているなら、ポリシーからはそれを使うわけにはいかない。原発の電力を使っていない交通機関を探して使う。しかし、そうはいっても限界があるだろう。
その街の公共的な場所の電気を原発のものを使わせないように訴える。それでだめなら、引っ越す。
しかし、そうやって遡っていった、政府機構の根幹が、原発のエネルギーを使っているなら、これも問題なわけで、じゃあ、どうしようか。原発のエネルギーを使わないで運営されている政府を別で作り、自分はその国の住人になる。それができないなら、ひたすら、政府に抗議し続ける...。
当然、原発で作られた、あらゆる商品を買わないし、原発で生まれたお金での寄付を受け付けないし、原発推進をうたっている(実際、株などを買っている)企業の商品を買わない。
ようするに、日本を二分すればいい(まずは、企業が、原発電気と非原発電気を「量」において、分割するなり、実際の送電線を別にするなりして、実現することが一番てっとり早そうですね。それが「できない」と強弁するなら、私たちでそれが「できる」という企業を育て、出資して、生み出すまででしょう)。
これが、民主主義だろ。
余計なお世話なんですね。日本はエネルギーがないから、原発が必要とか、原発をやめたら、電気代が高くなって、貧乏人がさらに貧乏になる、とか、余計なお世話なわけ(もちろん、こういった「演繹的」な計算を、さまざまな「仮説」の上に行うのが経済学ですけど、だからといって、その結論は「政治的決断」と同値ではない。経済学の役割は、あくまでも分析であって、そういったものから、どういった未来を選択するかは、「政治」という別のシステムなわけだ)。
もちろん、日本の全原発を止めたら、国内の発電量は低くなるのかもしれないけど、だから何? だから、みんなの「ため」に原発を動かして「やる」。
余計なお世話。
こっちがいらないって言ってんだから、「こっちのために」こっちが言ってることと反対のことをしてやる、みたいな日本的な「温情主義」こそが、民主主義にとっての最大の敵なのかもしれませんね。
今でもそうだけど、電気が少なくなれば、自然と人々は節約を始める。それで生活が不便になるといっても、何十年も前は、もっと電気を使ってなかったわけで、いっそのこと、ほとんど電気を使わない生活を始めればいい。昔に戻るだけで、なにも困らない。
日本の経済活動が停滞するとか、「それがどうした」(そう思う奴は、勝手に原発賛成と言ってればいい。こっちは原発なしの正義を考えているのであって、原発がないことの電気の量の低下があったとしても、こっちはその中での幸せを追求するだけ。実際、今でも日本の原発の電気など、10パーセントそこそこなんでしょ。一円二円の株価が下がろうが、それがどうした。お前には関係ない。私はお前の売る商品を買わないだけだ)。
原発の電気を使うくらいなら、そのほうがましだ。こういう「個人主義」をどうして分からないかな。
(つまり、今の原発推進派の本音が、原発を「安全保障」の延長で考えているからなんでしょうね。日本が憲法を改正して核兵器を持つべきだ、という主張と、原発を止めてはならないは、同値なんですね。日本が核実験をやるには、日本のどこかに、
死の灰
を降らせなければならないわけですし。フクシマ、だから何? ってなものなんでしょう。実際、このそれぞれを主張している人達は、重なっているわけですしね...)。