デマ/ゴミ/アジビラ

原発の問題とはなんなのかを問うてきたのだが、そもそもその態度を「ゆがんでいる」と、外から俯瞰的にメタに語るのが、この方だ。

福島という東京から適度に近い/離れた場所の存在が象徴的だが、原子力発電所は私たちの世界の<外側>にではなく<内側>にあるものだ。地震それ自体とは違い、人間自身が生み出したものであり、そして私たちの生活そのものを支えるインフラだった。その原発が今、牙をむいて私たちの生活を脅かしつつある。それも、これから5年も10年も、私たちはこの世界の内側に出現した「敵」と戦わなければならないのだ。そして、多くの人々を混乱させ、苛立たせているのはこうした「大きなもの」「わからないもの」「私たちを殺し得るもの」が社会の「内側」に、それも福島という東京の「すぐそば」にあることではないだろうか。自分が理解できないもの、制御できないものが自分たちの世界の「内側」にあることに、人々は耐えられないのだ。だから識者を含め多くの人々が、とりあえずあの原発を「理解し得るもの」「制御できるもの」に引き戻すために過剰なまでに「安全」「危険」と結論ありきの解釈を、ほかならぬ自分自身の安心のために発信し続け、それが社会の混乱を加速させているように思える。
宇野常寛「世界の<内側>に出現した「敵」と戦う」)

著者は、多くの人にとって、原発は「理解できない」というところから、出発する。著者にとって、原発は私たちの想像を超えている、というところから始める。この突然私たちの日常に牙をむき始めた原発を、分かろうとしても、どうせ分からないのであって、それを分かったような気になることこそが、すべての問題の始まりだ、と。
それは、もしかしたら、多くの若者にとっての実感なのかもしれない。しかし、このことは少しも自明ではないように感じる。
そもそも、戦後日本は、原爆によって始まったわけだし、それを受けて、大江健三郎など、日本の文学者たちの一貫したテーマであったはずである。
日本での原発の立地の開始とともに、全共闘世代が代表したデモ活動が日本からなくなっていったことは、けして、偶然の一致ではないように思われる。
原発は安全、という「デマ」は、真実として、人々を恫喝的に思考停止にマインド・コントロールする。原発は安全に異を唱えることは、反動的な態度となり、反社会的な行為となり、原発が動いていることに、意見することは、この国ではタブーとなっていく。
日本において、電力会社とは完全なる「錬金術」となっている。普通、企業は儲けが生まれなければ、その仕事から撤退しなければならない。そうしなければ、赤字となるから。ところが、日本の電力会社は、電気を生む原材料などの価格が高くなると、
連動
して、電気料金を上げる「仕組み」になっている。つまり、材料を高く買えば買うほど、お客にその分を、値段に上乗せすることを許す。
つまり、無駄にお金を使って、安いものを高く買えば買うほど、お客にその分の損失を「転嫁」できる。
しかし、こんなにうまい話なら、だれだって電力会社をやりたくならないか。ところが、日本は完全な地域独占体制になっている。この業界への新規参入が完全に禁止されている。なぜ、こんな「独占」が許されているか。それもこれも、ひとえに、
エネルギー安全保障
のため、である。ということは、どういうことなのだろう。これほどまでに安定した、経済基盤に裏打ちされた組織が日本にあるということは、なにを意味しているのだろうか。
つまりは、日本の中にあるあらゆる、権力組織すべてと比べても、圧倒的な安定性をもつ点から考えても、完全に日本の
権力の中枢
は電力会社、だということを意味するだろう。
日本とは、電力会社のことなのだ。電力会社こそ日本の支配者であって、「表」の政治として、国会などで、喧喧諤諤やっているが、これらは、「たてまえ」で、「本音」の部分は、電力会社に、国家がおうかがいをたてて、行動している。電力会社がウンと言わなければ、日本の政治は一歩も進まない。
日本のあらゆる意思決定は、電力会社の意向に、ひとえに賭かっている。それもこれも、
安全保障のため。
日本の安全保障のために、まず行わなければならないのが、日本の核武装化だ。このアジアの地域の戦力のバランスを考えるなら、日本がまず、核を持たなければならないだろう。同じように、日本の安全は、日本のエネルギーは全て、一つの電力会社が生みだすことによる、「効率化」によって、生まれる。そうすることが、最も効率的なシステムを実現できるわけで、だから、日本の世界からの競争力を獲得できる。
どうも、日本という国は、電力会社という、
前衛党
によるプロレタリア一党独裁国だったようですね。日本という社会主義国は、日本という国が地域独占の、電力会社によって、支配されているから、社会主義国なのであって、そもそもこの電力会社という、一党独裁制が温存されているのに、日本の自由化など実現できるわけがない。
日本という共産独裁国家の一里塚こそ、この日本の電力会社独裁体制にあるのに、ここを、安全保障という「例外」と言ってみたところで、少しの説得力もない。
しかし、である。
これほどの、国家を圧倒するほどの権力を、電力会社がもっているという事実を前にして、市井の市民が選ぶ「合理的行動」とは、なんであるか。電力会社の犬にある、ことであろう。電力会社にもし、気にいられれば、私たちの将来は安泰そのものでしょう。実際、電力会社は、莫大なお金を、こういったシッポを振って、すえぜんを求めて集まってくる、卑屈な連中に、惜しみもなく、カネをばらまき続けました。こういったものの、おこぼれにあずかれるだけで、定年まで、一切悩むことなく、生涯を送れる、というものでしょう。日本最大の権力に気に入られるのですから、
合理的
ってものでしょう。
どうせ、この電力会社の絶対的な権力が変わる日なんて、来るわけがないじゃないか。この圧倒的なパワーが小さくなることなんて考えられないだろ。
宇野さんは、日本の文学の伝統の系列の中に自分の仕事を位置づけていないのだろう。なにか、ポストモダンなことをやってるつもりなのだろう(彼の仕事は、大江健三郎の文学の延長では考えていないのだろう。もしかしたら、文学とはなにか、と問うたこともないのかもしれない)。
しかし、それは、ある意味理解できなくはない。日本の教育制度は、徹底して、原発とはなにかを教えなかった。日本人に原発のことを知らせなかった。だって、それが知られたら、危険なことが分かってしまい、反原発の運動が起きないわけにいかなかったからだ。
若い人たちは、本当に原発のことを一切、考えさせないように、徹底して、マインド・コントロールされてきた。学校制度は、その片棒を担いできた。原発について考えることは、タブーだったわけだ。
だからこそ、私は前に、この原発の問題とは、私たちの世代の問題ではない、と書いた。これは、私たちの前の世代。ちょうど、全共闘世代と言われた方々の問題なんだ、と。彼らがこの選択を最終的に止めなかったから、ここまで来たのであって、私たち子供たちには、すでに選ばれた後の世界があっただけだった、と言えるのだろう。
しかし、そうは言っても、私には、上記の宇野さんの言い方には、違和感があった。それは、原発が存在する都道府県で生まれ育った子供たちにとっては、原発
する隣にあるもの
だったからだ。いつも見て、眺めていたものであって、それを
突然牙をむいてきた
と言うことには、違和感がある。それはむしろ、原発をもたない都道府県、特に、東京人のメンタリティなのであって、それを
日本人なら全員同じように思うだろう
と考えることに、違和感を感じてしまう。
ちょっと違う文脈なのだが、最近、同じような違和感をもったものが、もう一つある。

流言は「根拠が不確かでありながらも広がってしまう情報」のことであり、デマは「政治的な意図を持ち、相手を貶めるために流される情報」のことです。ただ、現在の日本では、多くの方は両者をあまり区別せずに用いているので、私もメディアなどで発言する場合は、わかりやすく「デマ」と統一して両者を論じることもしばしまあります。
私自身は、流言とデマの区別は学術研究には有用ですが、臨床的な分析や対処の際には、実際はそれほど重要ではないと思っています。流言やデマが広がってしまうとき、多くの人は「なぜそんなウソをつく人がいるんだ」と、個人の「意図」を問題にします。しかし、流言やデマが広がるのは、それを信じた人・広げた人が多くいるからです。ですから、それを信じてしまう集団的な心理や情報環境にこそ注目すべきで、創作者・発信者の「意図」をあまり重要視する必要を感じないからです。
それに、「悪意の有無」といった基準では、流言とデマを初期段階でしか区別できません。最初の一人がデマのつもりで流したものでも、広がっている過程で情報元、ソースが明示されなければ、それは流言と基本的に変わらないわけです。また逆に、広がってきた流言をあえて悪意を持って流す人もいるでしょうから、デマと流言の明確な区別というのは難しい。ですから、「流言かデマか」という議論は、本書ではいったん脇におき、あくまで流言やデマへの実践的な対処法のみを共有できればと思います。
本書で重要視しているのは、流言やデマを流してしまう人の心理の分析ではなく、「そういう人」が一定数、必ず発生してしまうことを前提に、その影響をいかに最小化するのかという、課題解決型の思考です。つまり、デマゴーグを叩くための「悪者探し」「責任論」ではなく、流言やデマを減らすための「対処法探し」「原因論」が大切だということです。その作業はひるがえって、意義のある情報の拡大を最大化するための環境づくりへとつながっていくものです。

検証 東日本大震災の流言・デマ (光文社新書)

検証 東日本大震災の流言・デマ (光文社新書)

この最後のフレーズに、この若い学者のポストモダンな、「チャート式」とさえ言ってしまいたくなるような、ナイーヴさを感じるわけです。
上記の二つの引用に共通することは、お互い、
個人攻撃
をやっていないことではないでしょうか。つまり、固有名がないんですね。つまり、具体例を提示しないので、一方で名誉毀損で訴えられることもないかわりに、逆に、結局何が言いたいのかがよく分からない。意図があいまいな、自己撞着なマスタベーションのような言説になっていないだろうか。
たとえば、著者は3・11のとき、ツイッターでさまざまな「流言」が広がったことを「問題視」します。しかし、こう言っては悪いですが、しょせん、ツイッターでしょう。一次情報として、どこまで信頼性を担保されたメディアでしょう。たとえ、そういったツイッター上の流言があったとして、本気で深刻な問題に発展したものって、ほとんどないんじゃないでしょうか。実際、この本でも、すぐにツイッター内で、反論がわきおこって、鎮静化していた、という分析もある。
つまり、著者がこうやって問題提起するその態度が、どこか「ためにする議論」の印象を受けなくない。
たとえば、この本で紹介されている、以下では、そもそも、デマの定義が「違っている」。

デマは特殊な(あるいは時事的な)信念の叙述であり、人から人へ伝えられるもの、ふつうは口伝えによるもの、信じ得る確かな証拠がしめされていないものであると、本書では定義する。

デマの心理学 (岩波現代叢書)

デマの心理学 (岩波現代叢書)

つまり、先ほどの本では、デマは流言とは違って、「政治的な」プロパガンダと近い意味で使われていたが、こちらでは、「信念」となっている。かなり、流言に近くなっている。

あらゆることがらについて、われわれの誰もが専門家であるということはなく、そのかぎりであは、われわれはデマにつられやすいのである。われわれはまた、たとえ信頼すべき客観的な証拠があったとしても、自分が聞いたすべてのことがらをそれらの証拠にもとづいて検討するような時間もないし、根気もない。こうして、われわれがデマを有効に防ぎうるただ一つの手段は、いかなる聞き伝えの報告についても疑うという態度をもつことである。
デマの心理学 (岩波現代叢書)

こちらのデマの定義においては、そもそも「すべてを疑え」が前提ということになっている。近年、「トンデモ」という表現が流行しているが、それは「明らかに変」なものを、みんなでdisろうという態度だろう。ところが、こちらの定義においては、そもそも、そういった「自明」な地平がそう簡単に線引きできない、ということを前提に考えていないだろうか。

夢の中では、誰でも投射を行っている。われわれは目が覚めてからはじめて、夢の幻想の中に去来した事物が、われわれの個人的な欲望や恐怖や復讐の欲望の影響を受けていたことを知るのである。子供は菓子の山を見つけた夢をみ、虚弱な少年は競技場で勝った夢を、子供を気使っている母親は、彼女の子供の死んだ夢をみるのである。
空想においてもまた投射が行われる。床に横になって、われわれは自分の望みや欲望や、あるいは恐怖が実現されたような出来事を心にえがく。われわれは空想の中では、そのときの気分や、連想から生れた感情の起伏にしたがって、成功した、満足な自分を、またあるときは敗北し、破産した自分を見ているのである。
デマは空想と元来同じものである。われわれの聞いた話が、現実をわれわれの私生活にとって都合よく粉飾していれば、われわれはそれを信じて伝えようとするのである。
デマの心理学 (岩波現代叢書)

デマには、発言者の「無意識」が反映している。肯定するにしても否定するにしても、そこには、発言者が考えている、政治的な欲望が強調され示唆される。
だとするなら、皮肉な話だが、荻上チキさんとまったく逆に考えることもできないだろうか。
つまり、あらゆる言説は、デマなんだ、と。みんな、デマしか口走ることができない。もっと言えば、そういったデマには、なんらかの他者攻撃的なニュアンスを含むのだから、正義を実現するには、人々は自らの名誉をかけて、発言者をもっと、名誉毀損で訴えるべきなのかもしれない。
私たちは、日本はもっと、アメリカ型社会になるべきだ、と言いながら、アメリカの訴訟社会を目指すことをためらう。しかし、どんなに小さな不正義も、正義論の立場から、どうして見逃がすことができるだろう。どんどん、裁判をやればいいんじゃないか。みんな、さまざな不満を懐に貯めこむから、ストレスがたまるのであって、どんどん白黒つけようとした方が「正しい」んじゃないだろうか。
また、この現象をまったく逆に考えることもできる。

しかしもちろん、小説や批評(書評)がクズだからといって、それを単に斥ければよいというものではない。「なんでもよく、どうでもよいもの」が「今日ますます猖獗を極める」のは、必然ではあるからである。その意味で、J文学とは今日の一般的な傾向に正しく与えられた呼称であり、その事態を転覆することなどできはしない。美術の世界において、「誰かがそれを芸術だと言えば、それは芸術だ」というのが六八年以降の必然であるように、小説においても誰かがそれを「文学」だと言えばそれが文学になるのは、先に清水良典や小森陽一に即して見たとおりである。
だから、「なんでもよく、どうでもよいもの」の対蹠点とは、希少なものでも優れたものでもありえない。そのような評価は、むしろ、「なんでもよく、どうでもよい」クズを賞賛する時に用いられる。時評的なクリシェである。そのような称賛の言葉によっては捉えられえないクズこそ、真の対蹠点なのだ。だからこそ、二種類のジャンクは共にJ文学と呼ばれるのである。

JUNKの逆襲

JUNKの逆襲

文学の「どうでもよさ」は、他方において、ブランショを「時評家」という視点から評価する一方、この文学という「クズ」を前にして、あえて、これを「このままのもの」として(つまり、クズでありながら、逆説的に)評価しようとする。なぜなら、クズはクズとしてしか、ありえないからである。

高校生のころ、たまたま読んだサミュエル・ベケットの『モロイ』に衝撃を受けて以来、本書で言うところの「Junk的なもの」に憑かれてきたが、そのことを主題的に論じなければならないと考えはじめたのは、先著『革命的な、あまりにも革命的な ---- 「1968年の革命」史論』(同書は、いかにも今日的にジャンクなメディア「2ちゃんねる」の片隅で『革あ革』に随伴するものであるのみならず、今なお「六八年の革命」に随伴しようとした書物であり、それ以上にトータルな書物であることを破棄してジャンク化しようとしたものであると言える。
JUNKの逆襲

ベケットの「モロイ」を読んでいると、完全な一人称なんですよね。どんどん、自分の目の前での出来事、というか、その一瞬に思ったことを、吐き出し続ける。ここに会話がないわけでもない。会話もあるんだけど、なんというか、文脈がよく分からない。ツイッターをつぶやいている内容を読んでいる方が、そのつぶやいている人がどういった、タイムラインを読みながらつぶやいているのかを、読者が知らないのと一緒で、読んでいる側には、その文脈が分からないのと似ているかもしれない。
こういった文学の系統を考えると、カフカから、ジョイスプルースト、そして、ベケットでその頂点を極めた、となるのだろうか。
そもそも、私たちがたどれる人々の生態など、こういった「爪でひっかいたようか、かすかな痕跡」だけなんじゃないだろうか。全体を求めることが傲慢なんじゃないだろうか(このブログも、もし他人が読んだら、まさにベケットの「モロイ」的な世界なんだろう)。
一方において、こういったモロイ的なモノローグがある。しかし、2ちゃんねるの書き込みだって、よく考えてみれば、モロイ的なモノローグだろう。どんなに会話が成立しているようにみえても、やっぱり、支離滅裂なのであって、むしろ、そういうものとして読まなければいけない。そしてそれは、デマ、つまり、アジビラにおいても、同じことなんだと思う。
もう一度、話を元に戻すなら、たとえば、この前、東電の株主総会があり、原発廃止の動議が会場では、かなり拮抗していながら、「大株主2人の委任状」とやらで、否決される。
ネットなどを見るとまず、第一生命と日本生命だろう、と言われている。じゃあ、どうなるのか。人々は、原発に反対なら(この二社が知らぬ存ぜぬを貫くなら)、第一生命と日本生命の商品を買わないことで、意思表示をするのだろう。
これが、コトラーマーケティング3・0であったはずだ。私たちはむしろ、性善説ではなく、もっと、自らの名誉や誇りを賭けて、価値を実現しようと生きてもいいのではないか。
そしてそれを、デマなのかモノローグなのかアジビラなのか、といったことで区別することには、意味がない。それはむしろ、あらゆるデマがモノローグでしかないという意味でもあり、また、あらゆるモノローグがデマと考えるべき、という意味でもあり...。