東京が日本を救う

今日のテレ朝の朝のニュース番組で、なぜアメリカで全電源喪失の対策が行われた2年後に、日本では国が全電源喪失を「考慮」しなくていい、と決定したのかを日米の関係者をあたって、特集されていた。
ようするに、当時、日本製品の品質はばつぐんだから、アメリカなんかのいっつも事故ばっかり起こしている国と比べてほしくない、と思っていた、ということらしい。
当事者に聞けば、そういった話になるのだろう。
あと、アメリカの原子力規制委員会は完全に独立した機関で、日本の経産省の中にある日本の原子力安全保安院とは、まったく違っていることが特徴だろう(日本版NRCがいるんじゃないかという話もあったが、段階的に原発をやめていくのなら、その間だけでも、こういった機関を作ってやってもらわないとどうしようもない、ということなのだろう)。
私は原発懐疑派だ。つまり、せんじつめれば原発についてはよく分からない。でも、それぞれの人が語っている言葉から、今の原発がどこまでリスク管理されているか、自分なりに考えているにすぎない。私はたんにだれか偉い人が言ったから「安心」したなんてことを言う人間にだけはなりたくない、というだけにすぎない。自分なりに裏をとらない限り自分を安心「させない」ためにやっているのであって、正直、今原発を動かさないと日本が大変なことになると思われている方々には、お見苦しい文章でしかないと思っている。
しかしそれは、こちらも同じであって、そういう方々の文章を読むことは、こちらも心苦しい。理屈で説得されようとしている文章を読む分には、考えさせてもらい、勉強になることもあるが、結局のところは、ほとんどの人が原発とはなんなのかを、せんじつめればよく分からないので、たんなる dis の一言になるわけでしょう。お互い空中戦で、それくらいの言葉を生み出すことしかできない。だから、議論を深めたくても深められない。人格批判、人格攻撃になってしまう。そういうことを言う人間を軽蔑するかどうかになってしまう。
どういった人間が軽蔑すべき人間かの抽象論になる。
でも、そんな話なら他人にしない方がいいんじゃないか。他人は軽蔑の対象じゃない。だれだっていい点もあれば問題の点もあるのであって、抽象的に人間の軽蔑すべき素質を考えるような姿勢はストア主義的な考えとも馴染まない。少なくとも他人から見ていい気分のものじゃない。我々が考えなければならないのは、さまざまな因果関係の結果のその系列を科学することでしかない。それがマルクス資本論の姿勢だったと思うのだが。
特にある一定以上の上の世代の方々のお決まりの左翼(大衆運動)批判に辟易させられる。ある集団をたんにその集団ゆえに批判してもしょうがなくないか。いろいろ恨みつらみがあるのかは知らないが、是是非非で、ここが問題というふうに批判すればいいのに、なにか運動が始まろうとすると「左翼」だからダメ。こんな言論で大丈夫なのだろうか。
問題はもっと事実がはっきりしてくることを、各自が目指すことでしかないようにしか私には思えないのだが(そういう意味では、私がここで書いていることは一貫して、他人には関係ない作業だと思っている)。

私が脱原発が必要だと思っているのは、原子力が厄介な性格を持っているからです。不確実性が高い、核兵器と地続きになっているので、情報公開になじまないという性格を持っている。
例えば、今回は津波で非常用発電機がやられてしまいましたが、本来なら非常用発電機の設置場所は秘密だった。その場所が表に出たということは、核の世界では重大な情報漏えいだったらしい。そのような話なのです。
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宮台さんがウルリヒ・ベックの名前をさかんにだされますが、それは原発のような性質のリスクには、地域自治による直接民主制的な合意形成が欠かせない、というベックの議論の延長で考えられているからなんですね。玄界原発を動かすのに、その設置されてる村と長崎県知事「だけ」の合意で、どうして動かしていい、なんてできますでしょうか。どう考えても、長崎県知事は、周辺の県と話し合って決めなければ、福島の事故の影響範囲を考えれば、
自分たちが無視された
とふきあがる「気付いた」人々がどんどんうまれて、収拾がつかなくならないでしょうか。
しかし、そもそも原発にはそういった民主主義的な合意形成に馴染まない側面がある、ということなんですよね。実際、今までも、ほとんど秘密主義で「安全神話」でやってきた。

----チェルノブイリ事故の死者は4千人と報じられているが、実際には100万人が死亡しているとの報告書も出ている。どちらが正しいのか。
真実は誰にも分からない。しかし、どちらが真実に近いかと問われれば100万人の方だろう。当時、ロシア、ウクライナ、ベララーシ各共和国では医療制度はモスクワ政府の管理下にあった。多くの医師は、患者が放射能汚染が原因と思われる癌などで亡くなったにもかかわらず、死亡診断書にはそれを書かなかったことがわかっている。
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正直に言って、今の日本の報道は、今回の原発事故「を原因として」、どれくらいの人が癌で亡くなるのかを、まったく推計していない。私には、むしろこちらのほうが不気味でしょうがない。こういった推計をした上で、

  • でもやっぱり原発を動かそう
  • やっぱり原発以外の代替を考えよう

ということをなさった方がいいのではないかと思うが、どうして立派な有識者と言われる方々はこれをやらずに、なにかを考えたつもりでいるのだろう。まず各自で、自分はどれだけの死者がでると推計するから(推計するけど)、こう考える、となってほしいものである。
あと、いつも思っている不満は、放射能障害は、癌や白血病にかからなければ、「健康」なのか、という点である。あれだけ、細胞が破壊されて、本当に、それ以外のさまざまな体調不良が発生しないのだろうか。そんなはずはないと思うわけです。それが、理学部的な姿勢であって、今でも原因不明の体調不良で苦労している方々はたくさんいらっしゃると思うんですね。
ニコニコで、広瀬隆さんが刑事告訴をするという記者会見があったが、そこで、広瀬隆さんがさかんに言及していたのが、ECRR(欧州放射線リスク委員会)の発表で、かなりの人々が、福島原発放射能による癌で死ぬんじゃないか、と報告している。こういったことが、近々、福島県から若い人たちがいなくなるのではないか、みんな県外に避難するようになるのではないか、と言われている数値的根拠にもなっていると思うのだが、その判断のスピードがこの動きのスピードに直結するように思うだけに、なんとも心配なところではある。
私が正直、辟易しているのは、原発のことというよりむしろ、原発以外に対する感度の鈍さなんですね。長期的にどうなっていくのかなんて、なんの関心もなくて。

ただし、われわれがこのことをあまり言わなくても大丈夫なように、世間が変ってきています。東京電力計画停電を強行し、「原発がないと停電するぞ」という脅しをかけたおかげで、誰も予測しなかった、面白いことが日本全土に起こりつつあるのです。今夏は、大企業が、計画停電などで工場を止めることなどできないと、電力会社依存を脱却しようと軒並み自家発電を始めたので、原発なしでもまったく電力不足にはならないこおが実証される状況です。電力会社は、計画停電によって重要な大口ユーザーを失い、墓穴を掘ったようだね。企業が自家発電機を持てば、それが私が望んでいた「分散型電源」になり、理想社会に向かいます。

原発の闇を暴く (集英社新書)

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そうです。火力発電所が復旧すれば、電力供給にはまったく問題がなかったのに、東電はそれを怠ったのです。というのは、既存の火力発電所が復旧できない場合でも、ガス火力の発電所は、ほんの数ヶ月あれば設置可能です。このことは、「ガスエネルギー新聞(四月六日)で、石井彰さん(エネルギー・環境問題研究所代表)が「『フクシマ後』のエネルギー、『天然ガスの時代』へ」と題して、プロの立場から日本のガス火力の実態を説明しています。タービンをトラックで運べば、場所さえあればどこでも発電できる。日本の発電機メーカーがタービンなどの在庫を切らしていても、ガス火力で世界一のメーカーであるアメリカのGE社に急いで手配すれば、すぐできたことです。原発の重大な事故が起こったら、ただちにガス火力と石油火力をフル稼働しなければならない。それこそが発電のプロである電力会社の唯一の能力じゃないですか。私が社長なら、地震が発生した直後にそうしていたよ。震災から夏場まで四ヶ月もあるのに、それをしなかったのだから、東電は電力会社として完全失格、公益事業者である電気事業者の資格を取り消すべきだ。
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正直、私が分からないのは、東電って、そんなに内部留保のお金がない企業なんですかね。ここは震災直後の緊急時なんですから、この何ヶ月で、何台もガスタービンを即席で作って、

  • たとえ全部の原発を今のまま動かすことには、再度の安全指針の見直しの必要性もあり、国民が不安を覚えるので全部止めるということになったとしても

なんとしても電気が足りなくなって、国民が困るようなことだけは起こしませんと、どうしてできなかったのだろうか。なんでも電気料金に反映させようとするから、おかしな話になるんで、上記のガスタービン分のお金くらい、会社にあるお金で身銭切ってでも、みなさんに迷惑をかけません、とどうして言えないのかな。そんなギリギリの経営をしていたわけじゃないと思うのだが。
私に分からないのは、電力供給会社が供給が足りなくなりそうなので、国民に節電を求めるとか(国民が自ら節電を始めるなら分かりますよ)、場合によっては、部分停電にするとか、もう完全な

じゃないですか。自分たちはこういう事態を想定して、事業を進めてきていませんでした、と言っているわけですよね。それでは、近代市民社会に存在する日本の企業も国民も、安心して日常を営めませんよね。
そしてこの前の、石原都知事が定例の記者会見だ。なんと、最低100万キロワットの発電所を東京都「が」作るというのだ。
なぜ地方に原発があるのか。
東京「が」
電気を欲しいと言っているから。そうなっていた。しかし、言ってみればそれは、70年代の話と言えなくもない。世界のテクノロジーは発展していて、そもそも原発などもう必要なくなっていたわけだ。
もっと安全に(だから、自分たちの近所にあっても安全な)、しかも効率的にいくらでも発電所を作れる時代になっていた、ということのようなのだ。
だったら、話は早い。
東京「が」
電気はもういらないですよ、と地方に言えばいいだけなのだ。みなさん今まで、ありがとう。でももうこれからは、いりませんよ。
東京は、もし必要なら、100万キロワットなんてみみっちく言ってないで、必要な分は「地産地消」します、って言ってしまえばいいんじゃないだろうか。
しかし、東京だって、今までのように、夜中はネオンで昼間のような、そんな電気の使い方をあと何十年も続けなけりゃいけないのかと考えれば、無駄な電気は控えて、節電をこころがけるようになるだろう。
東京にとって、なにが一番大事か。言うまでもなく、
東京という「ブランド」
にきまっている。東京のイメージを悪くするような話ほど、東京が自ら嫌うものがあるわけがない。
こう考えると、今や明確な対立軸があって、

  • 経産省を代表とする)政府・(東電などの)発電会社 - (東京都などの)都道府県

東京にとって、自分たちが(特に地震大国の日本での)原発に依存している都市であるということほど、致命的なものはないだろう。言ってみれば、東京のために今、福島原発の周辺の人たちは住んでいた土地を追われているわけだから。
経産省や東電などは、今までのさまざまな利権と今「既に」できてしまっている原発の「もったいない」感から、この枠組みの外にまったく出られないでいる。
ところが、である。
そもそも、東京を始めとする、地方自治体にとって、原発がある、という事実自体が著しい地域ブランドの毀損になっているわけだ。つまり、すでに地方自治体にとって、
経産省と東電などの地域独占電力会社
の両方が地方に余計な介入をしてくる、「邪魔」で「迷惑」な存在になってきている。どうも国って、(この問題に関して)いらないんじゃないか。国が原発を無理強いしてきたけど、結局分かったことは、国も原発も地域には不要だ、ってこと。
東京都という地方公共団体が、最低100万キロワットの発電所を作る。つまり、国って関係ないわけだ。だから当然国策会社の東電も、東京都「にとって」は不要。だって、東京都が自分がどういう都市に東京したいかを考えてそのために、これだけの電気が必要と考えて、そしてそのための資源を購入してきて発電を行えばいいだけなわけで、国に直結して繋がっていて、地域となんの関係もない、東電のような発電会社なんて、このプロセスになんの関係もないですよね。
そうやって、東京が地方を突き放したとき、地方が何を始めるか。
何を考えるのか。
もしかしたら、そこから日本の次の時代が始まるのかもしれない。