休日の戯言

今日は休日ということで、ゆっくりネットサーフィンをしたりしていた。
すこし気楽に、今までの総括的なことを、だらーっと書いてみたい。
今日は、とりあえず岩上さんのサイトにある、ECRRのバズビーの講演と松井英介という呼吸器専門医の方の学習会を聞いていた。
あと、ちょっとおもしろかったのは、池田信夫が孫さんにツイッターで、ケンカを売ってて、あい変わらずトンデモだな、と。
ツイッターがおもしろいのは、アカで検索したときじゃないかな。これほど、
集合知
を感じる場所ってないな、と。孫さんという圧倒的なフォロワーをもつ方に、池田はこれ以上、反原発的発言をすると、おたくの会社の電磁波問題でもっと騒ぐぞ、俺の影響力を分かってんのか、手を引け、と脅す(かなりデフォルメですが、やってることは同じでしょう)。すると、孫さんのたくさんのフォロワー、つまり、一般の方々が
さまざまにつぶやく。
それが、さまざまな視点にあふれているんですね。私でも、なんとなく変だなと思ったことは、たいてい、つっこまれている。それだけじゃなく、いかに、池田や池田の腰巾着の藤沢なる無名のだれかが、トンデモかを指摘している、各分野の専門家のサイトがレフされる。
この藤沢ってチンピラがまた、安っぽいサギ師のように、計算したけど、発表はまた今度とか、香ばしすぎてorz。バズビー来日に対応させて、火力発電で何人が死ぬか、だってさ(また日本の火力発電関係者に怒られないように、オブラートに包んで書かないとね)。ついでに原発を「通常運転していても」周辺住民が何人死ぬかをケーサンしてくれないかな。
ECRRのバズビーの講演で印象的だったのは、やっぱり、原発の危険性の論文を書くと大学の研究機関を追われることは、ヨーロッパも同じ、だと言っていたことだろうか。世界資本主義の力に対抗することは難しい、ということなんですかね。
原発は結局は安全保障的な問題を多く含みすぎていて、民主主義には馴染まない。今、止まっている原発を早く動かせと言ってる連中のどこにも、
シヴィリアン・コントロール
の重要性を主張する力が感じられない(もともと、そういった問題意識のないエリート主義者なのだろう)。たんに、電気が足りないなら、動かせる原発を動すしかない、という主張にしか聞こえない。しかし、今までもそうやってきたから、こうやって福島で事故が起きて、多くの避難住民と実際の高濃度の放射能環境にその土地がさらされているのに、結局のところ、だれが責任者なのかさえ、よく分からない。
どうやって、国民の合意を集めていくのかの、プロセス型理性を感じられない。
原発には安全保障的な意味が大きすぎる。だとするなら、こんなものを日本の基幹的なエネルギー源にはできないだろう。あまりに、秘密主義で危なくってしょうがない。
前回書いたことにもつながるが、福島原発の事故の大きさを考えたとき、本来なら、これはリコールに近い状態であって、いったん、すべて止めて、事故の原因究明を完了させ、その知見に基づいて再度各原発の安全指針を見直して、不足している部分を完璧にして(そのお金の調達が難しいなら廃炉の選択肢)、始めて再開となるだろう。そうでなければ、地域住民(福島事故の大きさを考えたら、「最低」で、その県全体ですよね)が恐くてしょうがなくないか(アメリカが全電源喪失対策に使った費用はいくらでしたかね)。
だから、原発は今だに、「実験レベル」の安全性であることを全国民が理解する必要があるだろう。つまり、答えは bump の歌詞じゃないけど「二倍あればいい」。つまり、全原発が止まろうがまったく、日本の電気供給に影響がないくらいの、ガスなどの発電設備をデフォルトで作っちゃう、ってことなんでしょう。原発は上記の通りで、しょせん大学用実験施設ですから、問題が起きるたびに、
全部止める。
そして、全部見直す。大事なことは、「これが当たり前」になることですね。しょせん、原発は実験用ですから、止まる、止めることが当たり前なんですから、常に
原発が動いてなくても、まったく国民が困ることにならない
ようにしておく、ということでしょう。
やりたければ、たのむから、「大学の研究」レベルの施設で、原発の技術開発を続けてもらえばいいんで、といっても、今も大量の利害関係者が今でもいるわけですよね...。ここ一年くらいの日本は、どーなっちゃうんですかねえ...。